03 黒衣の救世主
恐ろしい轟音とともに、すさまじい風がその場を襲った。
まるで風の砲撃が体の横すれすれを飛弾していくようだ。
少しでも動けば自分の体がどうなってしまうか分からない、という不安に突如襲われた人々は、訳が分からぬままがちがちに体を硬くしてその場に踏みとどまった。地面の上に並べられた商品の数々が空の彼方にさらわれても、それを惜しんで手を伸ばす余裕のある者はいなかった。
痛いほどの耳鳴りと勢いにさらわれた石礫の来襲とに、訳が分からず顔を伏せ耳を塞いで目を閉じる。獣の咆哮のようなうなり声を上げて耳のすぐ横を通り過ぎていくエネルギーの塊に、誰も反応できなかった。
ほんの一瞬の間。
訪れた静寂に恐る恐る目を開けてみると、そこには――黒衣に身を染めた謎の人物が、大剣を振り上げた男の腕をつかんで、その横に立っていた。
――いつの間に?
それがその場にいた一同の心の声だっただろう。まるで、何もない空間から突如出現したかのように、その人物はそこに在った。
半裸の色男は背後にシャルルを庇いながら、目の前の黒衣を凝視する。
(――目を閉じたほんの一瞬の間に?)
「……っ、なんだ、てめぇは!! どっからわきやがった!!」
大剣を右手で上空に掲げたまま肘をつかまれた状態で男は怒鳴る。振り払おうとしているのに、腕が固まってしまったように動かなかった。無意識に背中を冷たい汗が伝った。
「――あんたの国では丸腰の女性に剣を向けるのか?」
静かにゆっくりと、アルトの声がそう言った。男にしては繊細な、女にしては落ち着いた低音。
「何っ!?」
声を張り上げる男に、はい、ストップ! と仲裁を入れたのは半裸男だった。
「まぁまぁ、そこまでにしとけよあんた。武闘大会に出たいんだろ? こんなところで油売ってる暇なんてねえんじゃねえの? これ以上騒ぎを大きくすれば警邏が来て受付前に失格になるぜ」
男はぐっと口をつぐんだ。確かに少しやりすぎた自覚はある。遠路はるばるやってきたというのに、出場前に失格なんて、ごめんだった。
「ちっ…」
無言で自分の右腕を縛り続ける手を振り払って、男は剣を背に戻した。辺りを睨め回し、半裸と黒衣の人物に極上の睨みか利かせてから、野次馬を強引に押し分け荒々しく去って行く。
辺りは静まり返る。
突如現れた黒尽くめの人物に視線が集まった。真っ黒な外套を纏って、口元を覆い、フードを深く被っているために全くと言っていいほどその容姿は窺えない。全身を隠すその黒衣では、手足の存在さえ確認できない。声だけでは性別も判じづらいところだが、女にしてはいささか背が高い。それに、女性の細腕でさっきの男を押えられるとも、正直思えない。漂う雰囲気も常人のものとは思えなかった。得体の知れなさが異彩を放つ。
「随分、怪しげな格好だが……あんたも武闘大会に出場しに来たクチか?」
じっと観察していた半裸の男に尋ねられ、その者は少し首を傾げた。
「……城へ行きたい」
硬い声でぽつんと呟かれたそれは、まるで親とはぐれた迷子の台詞のようだった。
「いや、助かったよ、あんた。何か飲むかい? お礼におごるぜ」
カウンターに座った黒衣の人物にボイルは尋ねた。訊かれた方は軽く首を振る。
ボイルの店、『大男におまかせ』店内のバーだった。規格外れの体格のボイルが提供する飲食物は、店主同様相場を大きく上回ったジャンボサイズで評判だ。
ボイルは、そうか? と改めて目の前に座る人物を眺めた。
先ほどから首を縦か横に振るしかしない黒衣の人物は、実際得体が知れなかった。店の中に入っても被ったままのフードを取ろうとしない。そんなに顔をさらすのが嫌なのだろうか。
これ以上じろじろ見るのは失礼だと、不意にばつが悪くなったボイルはとりあえず手を動かすことにした。仕入れてきた食材を調理にかかる。
「おやっさーん、俺にはおごってくんないの?」
店の奥の階段から下りてきた男は能天気な声でそう訊いた。先ほどの半裸男である。今度はしっかり上着を身につけ帯剣もしていたが、ボイルはそれに胡散臭そうな視線を送った。
「何言ってやがる。ほとんど役立たずだったくせに」
そう言って、今度は不躾なまでにじろじろと男を観察し始めた。
首の付け根の辺りまで不精に伸びた、中途半端な黒い長髪が男の顔の横で波打っている。かなりのくせっ毛なのか、寝癖で爆発していた先ほどまでの頭とさして変わった印象を受けなかった。いかにも邪魔くさそうな前髪の隙間から覗く切れ長の目元は涼しげで、鼻筋の通ったなかなか見栄えのする顔立ちだ。色の薄い唇は常に人を茶化すかのように、口角が上がっている。身長も、ボイルほどではないが十分長身の部類に入るし、全体的に均整の取れた体格をしている。浅黒い肌の色も、男の魅力を引き出すのに一役買っていた。
「バカ言うなよ。あいつ追っ払ったのは俺の一言があってこそだろ?」
黒衣の人物の隣に座り、にやにやと上目遣いで見上げてくる男に、ボイルは軽く眉をひそめてから、酒の入ったグラスを置いてやった。
「サンキュ~」
とんだ色男だとボイルは顔をしかめる。なまじそこそこいい顔をしているから余計に癪だった。
品定めする視線を隠そうともしない無遠慮なボイルの態度に、男は苦笑する。
「そんな熱烈に見つめられても俺は女にしか興味ないぜ、おやっさん」
「ふん、お前に抱かれる女の気が知れねぇよ、俺は」
「そりゃ、シャルルちゃんに訊いてくれよ。つっても、あんたに俺の魅力が理解できたほうが怖いけど」
確かにそうだ。男の自分にその手の男の魅力が分るというのはちょっと危ない、というか、かなり怖い。気分が悪くなってきたのでボイルは手元の作業に集中することにした。
「んで……、どっから来たの? お前さんは」
ボイルの注意が自分から離れると、酒を片手に男は隣に座る人物に話を向けた。
「……」
「城に行きたい、つったよな?」
「……山」
かみ合っていない会話に眉をひそめる。
「……山の向こうから来たってことか?」
沈黙で返してきた相手に、とりあえずふーん、と相槌を打った。
「名前は?」
「……サント」
「サント? 姓は?」
「ただの、サントだ」
切り捨てるように返されたそれに男は肩を竦める。自分ばかり質問されればそれはいい気分はしないだろう。
「悪い悪い、俺はジューク。ただのジュークだ。生まれも育ちもこの街だ」
そう言うとグラスに口をつける。ジュークは前を向いたまま言った。
「だから、あんたが城に行きたいっつうんなら案内もできるけどな。観光か?」
「……会いたい人間がいる」
「会いたい人間? 城でか? 城にか?」
誰かと城の前で待ち合わせでもしているのかとも思ったが、次の言葉にはさすがのジュークも口に含んだ酒で少しむせった。
「国王に会いたい」
ブッ、と吹き出すと苦しそうに顔を歪める。
「ケホッ……、こ、国王?」
「あ、あんた、国王陛下とお知り合いなのかい!?」
ちゃっかり聞き耳を立てていたボイルはバーカウンターから大きな身を乗り出した。
「いや。……会ったことがないから、会いたいんだ」
ジュークとボイルは唖然とする。まるで小さい子供の駄々のようだ。
「……会いたいって、あんたそんな簡単に会えるもんじゃ……」
ない、とボイルがそう続けようとしたちょうどその時、カランカランと鐘が鳴る音と一緒に女が一人、店の中に入ってきた。適当に纏めていた豊かな赤茶の髪を無造作に解き放った彼女は、黒い人影を見つけると嬉しそうな声を上げる。
「ああ、やっぱり! ここにいたのね!!」
外で倒れた露店やら散らばった商品やらを片付ける手伝いをしていたシャルルは、入ってくるなりジュークとは反対側のサントの隣に腰を下ろした。
「さっきはあの馬鹿をとめてくれてありがとう」
いや、と言ったきり口を閉ざしてしまった相手に、シャルルは不思議そうな顔をしたが、気を取り直して続ける。
「さっきのあなた、すごく素敵だったわ。ねぇ、そんな風に隠してないで顔を見せてくれない?」
そう言って、フードに手をかけようとしたが。
「――ッ!」
細い腕は黒衣の裾から伸ばされた手によって空中でからめ捕られていた。
「――悪いが、俺は自分の顔が好きではない。他人に見せたいとも思わない」
感情の窺えない、そのくせ強い意志を秘めた、やけに静かに耳に残るその声に、シャルルは顔を青褪めさせた。
「…あっ、ごめんなさい」
不覚にも泣きだしそうな顔になる。
普段の彼女であれば、何よ、ちょっとぐらいいいじゃない、ケチね――と軽口を飛ばしながら少々強引にでもフードの中を覗き込むぐらいの真似はしただろうが、自分の手首を縛める力とその声とにはっきりとした拒絶を感じとり、彼女は柄にもなく震えてしまった。予想以上にそれがショックだった自分を認めてしまい、走って逃げ出したい気持ちに駆られた。
そんな彼女の様子を察したのか、サントはそっと手を離す。
「……強くしすぎた。すまない」
案に反して、抑揚のないその声音からでも自分に対する気遣いの色が感じられて、シャルルは本当に泣きそうになった。
「おいおい、シャルルちゃ~ん。俺にはお礼の言葉はない訳?」
少々気まずくなったその場を和ませようとしたのか、ジュークがサント越しに体を乗り出す。シャルルは余韻の残る涙目でジュークを睨み、険のある声を返した。
「あんたが一体何したって言うのよ」
「冷たいねぇ、ちゃんと背中に庇ってやったじゃん?」
「あら、そうだったかしら。私はボイルのおやっさんの陰に隠れて縮こまってた甲斐性なしの記憶しかないわ」
「……昨日はあんなにべったりだったのに。シャルルちゃんて、昼と夜で性格変わるタイプだろう」
溜息交じりに含みのある流し目でそう言ったが、シャルルは真っ赤になって憤然とジュークを睨みつけた。
「もうそんな小細工に引っかかるもんですか! このただの女ったらし!!」
言って、目の前にあった水差しをつかむと、ジュークめがけてぶっかける。
「ぶっ!!」
ボイルは唖然としたし、サントは無言だった。
シャルルはどすどすと足音荒く店の奥に向かう。二階の部屋へと続く階段の前で足を止めて、ダリの様子を見てくると言うと、サントにははにかむようにゆっくりしていってね、とつけたして消えて行った。
「大丈夫かい? あんた」
ぽたぽたと頭から水を滴らせる男にさすがに少し同情したらしく、ボイルはタオルを持ってきてジュークに渡した。あーあ、と言いながらジュークは濡れた髪を拭く。
「女たらし、って。女って結構好きだろ、俺みたいな場慣れた男」
「……お前、その内後ろから刺されるぞ」
「どうせ人間いつか死ぬんだ。俺は腕の細い美女の手で死にたいね」
にやりと笑って吐き出されたその言葉にはもう何も言う気がしなくなり、ボイルは、救いようのないバカだ、と一言呟いた。
ボイルが二階に泊まっている宿泊客に食事を運びに行ったのを見計らってジュークはサントに尋ねる。
「で? なんだって、国王なんかに会いたいんだ?」
そう言いながら、目の前にあった果実酒の蓋を勝手に開けるとサントに勧めてみる。サントは――表情は相変わらず窺いようがなかったが――ぎくりとしたように身を引くと手の平を向けてそれに答えた。ジュークはおや、と面白そうに片眉を上げた。なんにしろ、容貌もその正体も全く窺えない人物なのだ。〝実は酒が飲めないのかもしれない〟という些細な発見が妙に楽しい。
「下戸か?」
ニヤニヤしながら説教師の如く続ける。
「こんないいもん知らないで死ぬなんてもったいないぜ。酒は百薬の長とも言うだろ? 気持ちよく酔っ払うことも時には必要だってねぇ。人生において酒と煙草と女は欠かせない。俺の持論だ。この三つがなきゃとっくに俺は人間やめてるな」
「……もう十分だ」
軽口で饒舌にしゃべり始めたその口を塞ごうとしたのか、どこか憮然としてサントは答えた。
「もう十分って、まだ一口も飲んでないだろ?」
「……臭いだけで十分だ」
「そんなに弱いのか?」
酒の臭いだけで酔っ払えるのだとしたら安上がりなものだ。
「飲んだら自分を制御できない」
はん、といかにもつまらないことを聞いたとばかりにジュークは鼻で笑った。
「抑制ばっかの人生の何がおもしろいんだ。そんなんじゃしんどいばっかだぜ? 自己を解放してみるのもまた一興。俺は目の前にいい女がいて我慢したことの方が少ないね。嫌な事があったって酒が忘れさせてくれるさ」
この時、軽い口調で言われたそれに、サントは黒衣の下で自分の両手を握り締めていた。
「……あんたには分からない」
押し殺すように呟く。
自分で自分を抑えることを覚えたのは十歳の時。
それ以来ずっと戒め続けてきた。
忘れることなど許されない。
(…自己の解放など――)
黙ってしまったサントを横目に二本目の酒瓶を開けながら、ジュークはもう一度尋ねた。
「で、なんだって、王なんぞに会いたいんだ? 見ず知らずの奴がいきなり行って会えるほど安い人間じゃねぇだろ」
「……理由なんてない。ただの衝動だ。どんな人間なのか、噂どおりの人物なのか、この目で見て、会ってみたい」
「ガキのわがままだ」
呆れたようにジュークは言った。
「…ただ自分の欲求を満たしたいだけだ。これが最初で最後の、己の、望みだから……」
「……何か、王に思い入れでも?」
「……幼い時、話をしてくれる人がいた」
「そいつは王に会ったことがあると?」
しばらく沈黙した後、サントは首を振る。
「……夢の中で幾度も会ったのだと……」
「夢?」
ジュークは訝しげに眉をひそめたが、相手が自分の疑問に答えてくれる気配が無いので代わりにこう言った。
「つてがねぇんじゃ、正面きって会いに行ったって、王の耳に入る前に追い返されるのが落ちだろ? お前見るからに怪しいし。まぁ、こんなとこで王に会いたいなんてぬかす馬鹿な刺客もいないだろうけど」
「刺客?」
「顔を隠して、素性も知れない。只者じゃない雰囲気といい、ぴったりの配役だろ?」
ジュークはふざけたようにそう言ってグラスの中の酒を呷った。その実、サントのその反応をじっと窺っている。
「正攻法で会うつもりはない」
「城に忍び込むつもりだったとでも?」
静かに頷かれ、これにはジュークは声を出して笑った。ただの世間知らずか馬鹿なのか。
「それじゃあ、まんま侵入者じゃねぇか。守衛に捕まっちまうぜ。大体そんなこと俺に言っていいのか? 怪しい奴が城に忍び込んで王と面会しようとしているって、お前さんを売払っちまうかもしれねぇ」
言ったその瞳の奥が光った。サントは、その目は見ずに真正面を向いたまま尋ねる。
「言うつもりなのか?」
「言ったらどうする?」
質問に質問で返されてサントは押し黙る。ゆっくりと口を開けた。
「どうもしない」
「捕まらない自信があると?」
「そういう噂があったほうが、突然会いに行くより、王も会おうと思ってくれるかもしれない」
「……いい根性だ。無事に会える保証でもあるのか?」
「…ないな」
「……」
そこで会話が途切れた。
仮に誰とも会わずに王のところまで行けたとして、王が人を呼んだらすぐに捕まってしまうだろうに。本気で言っているのか、とジュークは見えないフードの下を窺った。
嘘にしては下手すぎる。自分で自分を怪しいといっているようなもんだし、国王に会う理由が〝会いたい〟というただの好奇心だけだなんて、少しももっともらしくない。得体が知れないという印象が強まっただけだ。
だが、その淡々としたしゃべりように嘘はないように思えた。そもそもこんな無意味な嘘をつくメリットが分からない。嘘をついていないとすれば、ますます不審人物だと言わざるを得ないのだが、奇人変人の類か、それとも……
そこまで考えてから、ジュークは何か面白いことでも思いついたかのように、にやりと笑った。