15 血誠の誓い
「すまなかったな」
「何がです?」
王の御寝室。
ユリウスは革張りのソファーに腰を落ち着け、サントは背もたれのない腰掛に腰を下ろしていた。
今ここにはジュリアもドリスもいない。
窓の外には暗闇の中に円い月が浮かんでいる。
「いや、今日は余計な人間がついてきてしまっただろう。無礼もあった。詫びよう」
ユリウスは軽く頭を前方に傾けた。
「構いません。それより、頭を上げてください」
硬い声に顔を上げれば、困ったような娘の顔がある。
その左目は今、黒い眼帯で覆われているが、それ以外の部分は明らかだ。
明るい灯に照らされて、昨夜よりも血色がよく見えた。
その顔を、ユリウスはまじまじと観察した。
改めて見れば、彼の知っているラト族の娘とは違うことが分かった。何より、その表情が違う。
彼女の伯母はいつでも楽しそうに笑っている娘だった。対してこの娘には、静かな鋭さだけがある。譬えて言うのなら昼の顔と夜の顔、まるで太陽と月のようにその印象が違った。少年だと言われてもすんなりと納得してしまうだろう硬質で中性的な雰囲気を纏っている。
ユリウスが即座に彼女を女と断定できたのは、彼の知っている娘と同じ顔をしていたからだ。それがなければ、まずその性別を問いかけていたかもしれない。
「彼らがついてきたのは当然のことでしょう。特にあの金髪の騎士の方は、貴方と私を絶対二人きりにしたくなかったはずですが」
「……心配ないと言ったんだがな」
「彼らは貴方の意思にかかわりなく貴方の身を案じることを第一に存在する。その存在意義を主である貴方に否定されてしまったら立つ瀬がなくなってしまうのではないですか?」
ユリウスは目をぱちくりさせて彼女を見た。
「…何か」
「いや、やけに肩を持つと思ってな。……気を使う必要などないのだぞ? 貴公は私の賓客なのだから」
「……けれど、彼らの気持ちも分かる気がします」
「気持ち?」
「貴方は臣下に愛されている方だ。私のような得体の知れぬ輩が己の主の側にいると知って心配でない臣がいましょうか」
「……えらく高く評価してくれるのだな」
「……私は彼らが羨ましいのかもしれません」
「?」
「……自分にとって唯一の人のために、己の命を差し出せることは、幸福なことではないでしょうか」
その言葉に、少し瞠目してから、ユリウスは言った。
「……フィロラオスの話か」
†††
ディオニュシオスとフィロラオス。
二人きりの兄弟でありながら幼い頃から何かと疎遠だった兄と弟は、ある日を境にその関係を一変させた。
長い間通じ合えなかったその穴を埋めるかのように、フィロラオスはそれまでとは一線を画して、ディオニュシオスに従うようになる。
『貴方は多くの人間を支える人だ。私は貴方のように衆庶を導くことはできない。けれど、私のこの矮小な心でも一意専心、一人の人間のためならば己の命を懸けることができるだろう……。
私は貴方の剣になる。たった一人、貴方のためだけに尽力しよう。多くの命を背負う貴方を守る剣になることが、兄さん、貴方の言う他者のために生きる道につながると信じているから』
その言葉通り、フィロラオスはマダリア王国建国の時には、兄を助け、即位してからは軍の最高司令官、サンカレラ騎士団総監として兄王を支えた。
そして、いつしか信望篤い、王の第一の忠臣となり、彼の守り刀としてその命を全うした。
ディオニュシオスは情に厚い国王だった。
時には冷厳に徹しなければならない王様稼業において、彼は少し優しすぎる男だった。
その彼の甘さを臣である弟のフィロラオスはいつも案じていた。そしてその懸念が現実になって君臣の前に立ちはだかったそれが、彼ら兄弟の間に楔を打ち込む事件となった。
マダリア王国建国から十数年がたったある日、当時熟れすぎた果実が腐っていくように静かに荒廃に向かっていた隣国ロトルア帝国を頼りに、旧ストーンブール公国の生き残りが怨敵でもあるマダリアに牙を剥いた。
マダリア王国の前史を築いたストーンブールと、その隣国だったロトルアは別段友好的な盟邦同士であった訳ではない。
むしろ二つの国は、国境で小競り合いを続けるような反りの合わない隣国同士だった。
そのロトルアが、ストーンブールの残党の求めに応じたのは、一つに、アストラハンの大地の守護者である騎士団の興した国に少なからず含むものがあったからだ。
ロトルアは黄金の海と謳われる豊かなその土地にずっと目をつけていた。
だが、隙を窺い侵略を試みる度、アストラリアである騎士達の働きによってことごとく阻止されてきた。
その彼らが興した国である。積年の恨みを晴らす好機でもあった。
そして、あわよくば今度こそその豊饒の地を掠め取ろうと思っていたのだ。
財政破綻の危機に瀕していたロトルアにとってその土地から上がる収益はのどから手が出るほど欲しいものだった。
それは、情の深さからフィロラオスの忠言に頷かず、ストーンブール公家の生き残りを殺さなかったディオニュシオスの甘さが招いた弊害とも言えた。
国外追放を言い渡された彼らは、亡国の民へと身をやつすことになった恨みを忘れることなく、死灰復燃せんと、反旗を翻す機会をずっと窺っていたのだ。
ロトルアが求めたのは、代々アストラリア達が守ってきたアストラハンの大地の割譲、あるいは、マダリア国王の死だった。
大地の守護者としての分限を超え、国を強奪したという理由を盾に、宣戦布告したのだ。
ストーンブール公家の唯一の生き残り、滅亡当時六歳だった直系の正統後継者を擁することで得た大義名分だった。
ロトルア帝国軍はストーンブールの残党達の助言のもと、二つの国の国境にあった、今はもうないサンクドリア領を襲撃し、その領主・領民を人質に取って、マダリアに返答を迫った。
だが、そんな要求に応えられる訳がない。マダリアが興ってから既に十年の年月が流れていた。民は平穏の中でそれぞれの幸せをつかんでいる。
何より、ロトルアの言う大義名分に含まれた、〝国の強奪〟。
これはそう主張する彼ら自身こそがそれを狙っているのが明白だった。
フィロラオスは嫌な予感がした。
その要求に、〝さもなければ国王の死〟が含まれていることにである。
国王は己の情が起こしたこの失態に責任を感じている。全面戦争を避けるために〝己の死〟を選ぶ可能性があった。
主の性格をよく理解した上でのその報復にフィロラオスははらわたが煮えくり返った。王に命を助けられた身でありながら、その温情を裏切り、あまつさえ罪悪感を植えつけるために王の誠実な心根までを利用したそのやり口にである。
ディオニュシオスはロトルアの求めた会談に応じた。
そこで、交渉決裂となれば戦争になる。
そして、主の眼差しに、何も聞かずともフィロラオスは悟った。
王は己の一命を賭して民の安全を購うつもりだと……。
「……本気ですか、陛下」
何も言わずとも己の心中を察している臣に、ディオニュシオス王は笑った。
「もともと私が蒔いた種だ。あの時私がかけた恩情が今この事態を招いた……。お前の言うとおり、私は少々甘すぎたようだな。虎を養って自ら患いを遺すな、とあれほど言われたのにもかかわらず。君主とは、フィロ、お前のような怜悧な者こそがふさわしいのかもしれない」
「おやめ下さい!」
「……すまぬ。だが、私のいなくなった後この国を任せられるのはお前だけだ」
「……残された御家族をどうするつもりです」
「お前になら任せられる……弟よ」
「!」
「あの子達は皆お前を慕っている。叔父として、そして最高の騎士として。あの子達が立派な大人になれるように見守ってやってくれまいか。お前の子と思ってくれていい…。王妃もお前になら任せられる。お前はずっと家族を作らず、私のために尽くしてくれた。もちろんお前は私の大事な家族ではあるが、いつの間にか主と臣下になってしまったからな…。
これ以上重荷をお前に背負わせることは忍びないが、あの子達がお前に与えてくれるものもきっとある。今のお前ならそれが分かるはずだ。私の分まで彼らを愛してやってくれ……」
「やめてくれ、兄さん!!」
フィロラオスは眉間にしわを寄せて叫んだ。
「……懐かしいな、兄と呼ばれるのは。昔は、お前、兄と呼ぶどころかろくに目も合わせてくれなかった」
兄は苦笑した。
弟の顔は歪む。
死を決した者が、過去を振り返り、懐古の情に浸ろうとしている。
主は今、兄として弟に今生の別れを告げようとしているのだ。
「言っておくが責めている訳でないぞ。私はずっとお前に負い目を感じていたからな。嬉しいんだ……そう呼ばれることが。主従となってからは己の幸せも省みず、私のためだけに尽くしてくれた。こんな孝弟は世界中どこを探してもいないだろう。――感謝している」
兄がまだ王となる前、自分が〝兄さん〟と呼ぶたびに、嬉しそうに頬を緩ませていた主の顔をフィロラオスは思い出した。
その笑顔を見る度に今までどれだけ自分が荒んだ感情をぶつけていたかを自覚してフィロラオスは複雑な気持ちになったものだが、兄弟が君臣となってからは、フィロラオスは生来の一徹さから、たとえ二人きりの時でも己の主を兄と呼ぶことをしなくなった。その頑固さに、兄のディオニュシオスはしばしば苦笑したものだ。
だが、もともと言葉を弄することを得意としない弟は、口ではなく目で語るタイプだということを、――その瞳に宿る弟の、兄であり主である己に対する深い親愛と信頼の情を――、ディオニュシオスはちゃんと知っていた。
「……違います。私は貴方だったから……、私の兄が貴方だったから、貴方に尽くしてきた。己の主を貴方と、……己の意志で決めた」
フィロラオスは巧く回らぬ己の口をもどかしく思いながら、それでも想いの丈をぶつけるために、拙い己の舌を使った。
「臣を残して主が先に死ぬことを許すなど、陛下は本気で思っているのですか? 知っているはず……私は矜持の高い人間です。そんな恥辱には堪えられない」
「フィロ……」
「私は昔言いました。たった一人貴方だけのために尽くすと。私の命は貴方のもの。この流れる血は一適たりとも貴方以外の人間に所有されない。貴方の盾となり、剣となり、この命尽きるまで貴方に忠誠を誓うと……。兄さんは俺を嘘吐きにさせるつもりか」
「……だが、ここで拒否したら今までにない国と国との全面戦争になる。ロトルアはいまや、腐り落ちる前の果実。我らがアストラハンの大地を死に物狂いで欲してくるだろう。国の復興につながるこの道を一縷の望みとして、必死にしがみついてくる。
私はこのマダリア建国の折にも、少なからず血を流した。巻き込まれた民も中にはいよう。我らアストラリアは守護者だ。この土地でこれ以上の血を流させる訳にはいかない……。それを、私一人の命で購えるものなら安いものだ」
「ロトルアが本当に陛下一人の命で退くと思っているのですか! それこそ、これ幸いと従軍してくるに決まっている!!」
「……退かせてみせるさ。私を誰だと思っている?」
ディオニュシオスは不敵に笑った。
「国王だとて剣を扱えることをきっちりと教えてやろうではないか……」
「帝国と刺し違えるつもりですか」
「……いいや、目の前で腹を掻っ捌いて大往生してやろうと思ってな。『締約を破棄したりしたら末代まで呪ってやる』というのを決め台詞に死んでやろうと思っているんだが、私の覇気では止まらんと思うか? 一生安らかに眠れなくなるような、壮絶な死を演じてみせるつもりだが……」
めったに見ることができない、目に見えるほどに鬼気を立ち上らせている兄に、フィロラオスは顔を歪めた。
いつだって兄が怒るのは、自分の守るべき境界が侵されそうになった時だ。そしてその境界線は果てしないと思えるほど広かった。
自分の尊厳が傷つけられた時でも、自分の名誉が貶められた時でもない。
彼が怒りをあらわにするのは決まって他者のためなのだ。
「……だから甘いというのです。どうして、そう他人のためにばかり命を投げ出す。……貴方は王でしょう」
「それは違うぞ、フィロ。王だからこそ、だ。時には守るべきもののために己の命を懸ける。それが王たる者の務めだろう」
「……ちがう。貴方はいつだって己の守りたいもののためにその身を差し出してきた。“王だからこそ”じゃない、“王でなくたって”だろう? 王でなくとも、兄さんはきっと同じ選択をしたじゃないか」
「……」
「だからこそ民は貴方を支持した。この国の王は貴方でなければならない」
「フィロ……」
「私にとってこの国の民は〝護るべきもの〟です。だが、貴方にとってこの国の民は、〝守りたいもの〟だ。だから私は言った。私は貴方のように衆庶を導く人にはなれないと。貴方のようにどこまでも深く広く篤い心で、人を愛することなどできないことを知っていたから……」
フィロラオスにとって民を護ることは騎士としての〝義務〟であり〝責任〟だ。
だが兄にとって、それは〝希望〟であり〝願い〟だということを、フィロラオスは知っていた。
兄は、誰よりも人を愛する人だから。
それが、自分と兄、臣下と王の違いだと、フィロラオスは理解している。
「俺にとっての〝守りたいもの〟は民じゃない、――兄さん、貴方なんだ」
この一言に、己の全てを懸けることが、自分にはできる。
だから。
フィロラオスは挑むように兄を見つめ、続けた。
「陛下、私は貴方を護る者として貴方の自刃を認める訳には参りません」
「フィロ……、分かってくれ」
王は難しい顔をして言った。
「だめです」
臣は断固として否を唱えた。
「兄の頼みだぞ」
「弟のお願いです」
兄弟の情に訴えたところで、それと同じく返される。
「……埒が明かぬな」
「……いいえ、陛下。あります、方をつける方法が」
「なに…?」
「命じてください。私の命は貴方のもの。私は貴方のために生き、貴方のために死にましょう」
「!!?」
「貴方の代わりに私が死にます」
「だめだっ!!」
「貴方には妻子がある。背負うべき民もいる。それらを全て捨てると貴方は言いますが、そうするくらいなら私を切り捨てることを選んでください」
「フィロラオス!!」
「……私が今まで家族を作らなかったのは、いつか貴方のために死のうと思ったからです。言ったはずです、貴方のためだけに生きると……」
「……できぬ。己の過失を、お前が諌めてくれたにもかかわらず、お前に背負わせることなど……。これは私がけじめをつけるべき事柄だ」
「……いいえ、貴方はそれでいい。その甘さこそが、かつて私を救った。貴方が変わらないでいられるよう、周囲の者達は貴方のために尽くすでしょう。それが貴方の強みだ。だが、その甘さが時には命取りになるということを忘れないで下さい。私の死をその教訓として、胸に刻み込んでもらえれば、もう何も言うことはない。……できればずっとお側で忠言して差し上げたかったが」
「フィロラオス……」
フィロラオスはおもむろに、己の左胸の服の裏に縫い付けられるようにしてあった、短刀を取り出した。
「それは……」
「士は己を知る者の為に死すと言います。私は、この懐刀を貴方から賜った時、いつかこの刃で、貴方への私の《誠を尽くす心》を証明しようと思っていました」
それはいつか、ディオニュシオスがフィロラオスを国王の守り刀と称し、百官の前でその証として与えたもの。
シンプルで飾り気のないそれは、フィロラオスの剛毅木訥の人柄を巧妙に喩えた代物だった。
鞘にも柄にも特別な意匠は施されておらず、鍔もない。
ただ、研ぎ澄まされただけの鋼が鞘の中で静かに眠っている。
華美を好まず、ただ精一して己の剣を磨いてきたフィロラオスにこそふさわしいものと言えた。
我を誇らず、寡黙を愛し、だが、いざという時には誰よりも強く鋭い意思の煌めきを発する、と。
諸臣は第一の腹心と言ってもいい弟でもあるフィロラオスに下賜するには、質素すぎる代物のではないかと噂し合ったが、フィロラオスはどんな宝石を散りばめた豪華な飾太刀よりも、実用性を重視したその素朴な短刀を喜んだ。
刀身には〝兄、ディオニュシオス王から弟、王騎士フィロラオスへ〟という簡潔な銘文と年月日、それからその刀匠の名が刻まれているだけだ。
それは超一流と名高い名匠によって打ち鍛えられた物だった。職人らしく偏屈な性分で、己の気が向かなければ絶対にその手に槌を握らないことで有名な、狷介な老人によって丁寧に作られたものである。
決して、安い代物ではない。
分かる者にはその短刀がどれだけ秀逸な作品かが分かるだろう。
『……分かる者には、お前がどれだけ優れた人物かが分かるだろう。得てして、そういう〝分かる者にしか分からないもの〟にこそ、超一流と呼ばれるものが多い』
それはかつて、まだ兄が王となる前に弟に言った言葉だった。
誰より自分を理解し高く評価してくれている兄の趣向を凝らした賜り物に、フィロラオスは感動した。
「これを誓いの証といたしましょう」
フィロラオスは鞘から刀身を抜くと、その刃で己の手の平の肉を切り、鋭く光るその剣文の上に、己の血を垂らした。
「……臣の血は主の血と混じわり、臣死すとも主の血の中で共に生きるであろう。
我ら兄弟の血は何人にも分かつこと能わず」
そう言ってその刀身を水平にして両手で捧げ持ち、主の前に跪く。
静かに誓詞の言葉を紡ぎ始めた。
「マダリアのマダルソニアにサンカレラのサンカリナが今、宣誓す。
我、この命尽くるまで、主の剣となり、御身を護る盾とならん。
我の体に流るる血の一滴たりとも主のために流れぬことなく、主のために脈打たぬことなし。
我、常に主と意を同じくし、我の魂常に主の傍らに在らん。
この血と魂を以って、永遠なる忠誠と献身を、今、ここに誓約する」
無言で立ち尽くす主に、フィロラオスもまた無言で顔を上げて、その目をひたりと見つめた。
揺るがない意志を宿した瞳と、揺らめいて懊悩を隠せない瞳がぶつかった。
(……何故だ)
何故そこまでして私に尽くそうとする。
問うこともせずに、その瞳を見つめる。
言葉にせずとも、その瞳の色だけで、心が通じ合った。
私はかつて貴方に救われた。
貴方がいなければ私はただ己のためだけに強さを求める心の貧しい人間になっていただろう。
誰も信じず、誰も愛さず、ただ孤独に歩み、己の力だけを恃みにして。
己のちっぽけなプライドに縋り、本当の強さが何かも知らず、己の虚栄心にさえ気付かないまま、愚かにも自分で自分を陥れながら、きっと、己の力に滅ぼされる道を歩んでいた。
私は貴方に教わった。
自分が誰かの剣になれることを。
人のために生きることの喜びを。
誰かを信じ、また信じられることの心の安らぎを。
心を開き、心を許し、心を預け、心を尽くし、心を傾け、心を託すことの充足を。
そして、私は自ら貴方の剣になることを望んだ。
貴方のために剣を持つことを私は誇りに思う。
これほど幸福な事などない。
かつて思った。
他の誰が信じられなくとも、この兄だけは信じようと。
それは今も変わらない。
兄さんのために死ぬことが、俺の誇りであり幸福なんだ。
俺を犠牲にして、貴方の命と、それによって救われる多くの人を生かしてほしい。
それは、貴方にしかできないことだから。
――心を以って、心に伝う
ディオニュシオスはフィロラオスの思いと願いを理解した。
互いに見つめ合い、心を通わせることしばし、ディオニュシオスはゆっくりとその血の滴る短刀を手に取ると、歯を食いしばり、己の手を刺し貫く勢いでその刃を衝き立てた。
右手に持った短刀を左手に突き刺した状態で空に掲げるようにすると、そのままくるりと回転させ、左手を上に右手を下に持ってくる。
穂先を上に盾のように立てられた刀身に、王の玉の血が伝って、ポタポタと地に落ちた。
威厳ある声が、頭を垂れた臣の頭上に落ちる。
「許す。
マダリアのマダルソニアはサンカレラのサンカリナの宣誓を今ここに承諾する。
汝の体に流れる血の一滴たりとも我以外の者のために流れることなく、我以外の者のために脈打つことなし。
我ら兄弟の血を分かつは何人も得可からず。
汝、我の血となり肉となり、我、汝の意志に報い、汝の意となり心とならん。
我のために生き、我のために死ね」
「立て」
主の言葉に臣は立つ。
王はその血刃を、騎士の心臓に向けて言った。
「主のために死ぬ栄誉をお前に許す。……王のために生き、王のために死ね」
――王のために生き、王のために死ね
それは偽りない、血誠の誓い。
「謹んで、拝命いたします」
そう答えて、自身の心臓の上にあてがわれたその懐刀を、フィロラオスは恭しく掲げ戴いた。
フィロラオスは兄王の変わり身となって、王から戴いた二人の誓いの証の懐刀で、不敵に笑いながら、己の心臓を貫いた。
己の心に二心のないことを、自らの心臓を貫くことで、王に証明して見せたのだ。
ロトルアは退き、捕われていたサンクドリアの領民達は救われた。
ロトルア帝国はこの騒動による失態が原因で瓦解、崩壊の一途を辿ることになる。
マダリア王国の王廟には、兄弟であり君臣であった二人の墓が二つ並んでいる。
ディオニュシオスの遺言通り、墓石の傍にはアストランティルと呼ばれる蔓草が植えられた。
まるで二人の結びつきを示すかのように、剣を模した二つの墓石に絡み合って、アストランティルが小さな白い花を咲かせている。
花言葉は〝断たれぬ契り〟〝深い絆〟〝兄弟愛〟〝変わらぬ忠誠〟……。
マダリア王国の始祖と言ってもいいこの兄弟は、千年以上の歴史を誇るアストラハンの守護者、アストラリア武勇百偉人伝の中に選ばれる英雄となった。
たった二人で、自国の民を傷つけることなく国を守り通したこの兄弟は、騎士大国としての王国マダリアの礎を築いた。
兄弟は理想の君臣像として後世に崇められ、兄弟であり主従であった二人の話を聞いて育った数々の英雄達が後に輩出されることになる。
二人の墓石の前の石碑にはこうある。
〝マダリア王国を興し、その危機を救った二人の兄弟は、死して尚、分かたぬ契りをもって、アストランティルの花言葉と共に、今ここに永眠す〟
衆庶【しゅうしょ】…もろもろの人。人民。庶民。
一意専心【いちいせんしん】…他に心を向けず、その事のみに心を用いること。
楔を打ち込む【くさびをうちこむ】…仲を裂こうと、邪魔立てをする。
盟邦【めいほう】…同盟国。
弊害【へいがい】…害となる悪いこと。
死灰復燃【しかいふくねん】…火の気がなくなった灰が、再び燃え始める。勢力を失った者が、力を盛り返すことのたとえ。
購う【あがなう】…買い求める。
虎を養いて自ら患いを遺す【とらをやしないてみずからうれいをのこす】…虎の子を殺さずに育てると凶暴な猛虎になってしまうように、後日の禍根となるものを温存しておくことのたとえ。
怜悧【れいり】…かしこいこと。りこうなこと。
懐古【かいこ】…昔のことを懐かしく思うこと。
孝弟【こうてい】…父母に孝行をつくし、よく兄につかえて従順であること。
鬼気【きき】…ぞっとするような恐ろしいけはい。
士は己を知る者の為に死す【しはおのれをしるもののためにしす】…心ある男子は、自分のねうちを理解してくれる人のためなら、命を捨てることさえ惜しまないということ。
剛毅木訥【ごうきぼくとつ】…強い意志をもち、飾り気がなく、口数が少ないこと。
意匠【いしょう】…美術・工芸・工業品などの形・模様・色またはその構成について、工夫を凝らすこと。また、その装飾的考案。デザイン。
精一【せいいつ】…心が純粋で一途なこと。誠実で純一なこと。
趣向【しゅこう】…おもむきを出すための工夫。また、そのおもむき。
懊悩【おうのう】…なやみもだえること。また、そのさま。
王廟【おうびょう】…王族の霊を祭る所。