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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
36/87

14 見えない不安

 ようやく辿り着いた最上階、階段を上がって突き当たりを左に曲がると辿り着く両開きの扉、その前の廊下でリリアは立ち止まって肩で息をした。

 長い長い階段を父に負ぶわれながら、マダリア王国を築いた二人の兄弟の話を何度もせがんだ。

 その度に父は笑いながら、彼女に語って聞かせてくれた。

 リリアはクスリと思い出し笑いをすると、息を整えてからゆっくりとその扉に向かって足を踏み出した。

 一つしかないその大扉の前まで来て、その取っ手に手をかける。

 キィと音がして前方に少しだけ厚い壁が動いた。

 やはり鍵はかかっていない。父はここにいる。

 図書館に行ったと言われて、真っ先に思い浮かんだのはここだった。

 意外に読書好きな父のお気に入りの場所の一つだということを、リリアは知っている。母がまだ生きていた時分には彼女の父は頻繁(ひんぱん)にこの場所へと足を運ばせていた。

 そっと重い扉を体重をかけながら前へと押し出す。

 ギギギと木が(きし)む音を立てて、ようやくリリアが通れそうなくらいの隙間ができた。そこに細い体を滑り込ませる。

 父を驚かせてやろうと、足音を立てないよう忍び足で館内を歩いた。


 古い書物の臭いが満ちたこの(ほこり)臭い空気が好きだと父は言っていた。

 王の代によっては、何年も開かずの間と化していたこの部屋で、その閉じ込められていた時間を静かに眠っていた本達と出会えることは彼にとって心を躍らせることだったらしい。

 国の歴史を感じると。

 古代の英雄達を回顧するにはぴったりの場所で、少年時代は祖父王の鍵を母から借りては入り浸っていたと言っていた。

 古い黒檀(こくたん)の書架は(いか)めしく(そび)え立ち、色褪せた書物達がその中で眠っている。長い時間をその本棚の中で、この部屋の所有者の手に取られることを待ち続けてきたのだ。

 リリアは昔、この古めかしい部屋が好きにはなれなかった。

 立ち並んで自分を見下ろす本棚達は幼い頃のリリアには息苦しく感じられたし、古臭い空気も静かなその空間も、いつも明るい日差しの下で多くの人間の笑い声に囲まれていたリリアにとっては異質なものだった。王が使わない普段は、分厚い窓掛(カーテン)で締め切られているため入ってくる時は決まって真っ暗で、光の当たらない本棚の陰には何かが潜んでいるようで不気味だった。しかも王城の北に位置するここは、陽が当たらず寒いのだ。何より、じっとしていることが苦手だった少女は静かに本を読むなど退屈でたまらなかった。

 中でもリリアにとって一番の天敵だったのはこの部屋の暖炉脇に置かれた振り子時計だ。

 静まり返った空間の中で秒針が時を刻む音はじりじりと何かを急き立てるようで、長針が文字盤の真上を指す度に(とどろ)く時鐘は静寂を引き裂いて恐ろしいほどだった。あまりにびっくりして泣いてしまった記憶は一度や二度では済まされない。短針が示す数字の分だけ空気を震わせ時を告げるその音を、身を竦ませながら、早く鳴り終わってしまえと祈るような気持ちで一つ二つと数えていた。

 かと言って、大人しく倦厭(けんえん)と秒を刻んでいる時の彼が平気だったかといえば、そうでもないのだ。ちゃんと時間通りに鳴り出すか、先走っててんで見当外れの時に鳴り出してこちらを驚かそうとするんじゃないかと、息を潜めて見張っておかないと何とはなしに不安だった。不意打ちのように(わめ)かれたらたまらない。

 だが、物音一つしない静かな空間でカチコチと秒針の動く音だけをじっと耳にして文字盤を()めつけていると、だんだん自分が今どこに居るのか分からなくなってくる。

 不安になって周囲を見渡しても、誰もいない。

 静寂というよりは、冷たい虚無が広がっていて、不意に冷水を浴びせられたようにひやりとした直感を覚える。

 ――ひとりぼっち

 立ち並ぶ書架達は我関せずと、リリアを無視し続ける。

 外に出ても、自分の知っている人はもう誰一人としていないのではないか。

 まるで時間を逆行してしまったかのように。

 あの瞬間の胸が(ひし)ぐような絶望感は、いつ思い返しても気持ちいいものではない。

 時の狭間にうっかり迷い込んで独り置き去りにされてしまったような錯覚にたびたび襲われては、リリアは泣きながら父を探した。

 実際は立ち並ぶ書架の隙間にちゃんと彼はいて、号泣しながら己を呼ぶ娘の声に驚き苦笑しながらも、必死な形相で飛び込んでくる我が子をその胸に抱き止めてくれるのだが。

 そんなに怖いのなら遠ざけようとするのが普通だっただろうに、何故かリリアは父が図書館に足を向ける度に毎回くっついていった。

 政務で忙しい父と一緒にいられる時間は貴重だと、子供心に理解していたのだろう。

 一人でほったらかしておくと泣いてしまうと気づいてからは、母がリリアに付き添うようになった。リリアはそれが嬉しくて、さほどこの部屋を恐ろしいと感じなくなってからも、母甘えたさに怖がるそ振りをしたものだ。

 今では、何であんなにあの時計が恐ろしかったのはリリアにも分からない。背が伸び目線が変われば、自然威圧感は消え、過去の自分を思い返す度に、ただ忠実に勤めを果たしているだけなのに不当に敵意を突きつけられていた真面目な使用人に対する申し訳なさのようなものと、かつての自分の幼さに対する気恥ずかしさを感じるだけだ。

 それでもリリアにとってこの部屋は、足を踏み入れる時にいくばくかの緊張を強いられる場所だった。

 きっとこの部屋の古色蒼然(こしょくそうぜん)とした雰囲気が、居心地の悪さを感じさせるのだろう。

 一度、全部新しく改装してしまえばいいのにと言ったことがある。

 そしたら父は言った。

『ここは私の幼い頃の思い出の場所でもあってね。母とよくここに来ては、いろんなことを教えてもらったんだ。この本棚も、書机も、長椅子も、暖炉も、もちろんあの置時計も……、みんな昔のまま……。ここに来ると自分が何も知らぬ子供だったことを思い出す。ただ、昔の騎士達の偉業を知ることに夢中になっていた、あの頃の自分の夢や思いなんかをね。――私はここが好きなんだよ、リリア』


 リリアはその古臭い空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

 書物の紙の、独特の匂いがする。

 父は母がまだ生きていた頃、足(しげ)くこの図書館を訪れていたが、母が死んでからはぱったりとその出入りを止めていた。

 彼は、気づけば露台に出て一人で外の景色を眺めているようことがままあった。

 かまってくれない父にリリアが文句を言おうとすると、決まって母がそれを止めるのだ。

 邪魔をしてはいけないと、そう言って。

 その時の父は母も自分もろくに目に入っていないようで、リリアにはそれが毎回不満だった。

 確かに、北塔最上階から見下ろす景観は見ていて飽きるものではないかもしれないが、その後姿を見ているだけのこっちが同じとは限らない。それでも母は、

『お父様にも独りになりたい時があるのよ』

 そう言って、ただじっと、決して振り返られることのないその背を見守っていた。

 その度にリリアには母が不可解に感じられたものだ。

 ――広がるのは緑の丘と、蒼穹(そうきゅう)の天、なだらかな小道、鬱蒼(うっそう)たる森林、空を貫く連山の影

 国王として一国を治める父だ。

 自分が統治している土地を見たいと思うのは自然なことなのかもしれない。

 だが、そうするといつも人の気配に(さと)い父が、隙だらけになるということもリリアはちゃんと知っていた。


 いつかのように露台に出て外の景色を眺めているのならば後ろからこっそりと驚かしてやろう、そう思い、笑い含みに本棚の影からこっそりとバルコニーを覗いたリリアは、しかし予想外の光景を見つけて目を見開いた。

(アレ……?)

 見慣れた父の後ろ姿の、その横、真っ黒い外套(がいとう)にすっぽりと身を隠した人影があった。

 彼女の父は黒衣を(まと)ったその人物と何やら話をしていた。そして、おもむろにその視線を前方に向け、上空を指差す。

(空? ――ちがう……山?)

 リリアもまたその指の先を追った。

 遥か高くに空を貫く雲峰。

 ピネレー山脈の霊峰とされるゴンドカ高山。

 天を()するその頂に雪化粧を施し、雲をも見下ろすその崇高な出で立ちは神仙が住む山と古くから言われている。

 ピネレーとは古い言葉で〝神々の座〟、ゴンドカは〝眠れる竜の棲宿(せいしゅく)〟を意味するそうだ。

 黒衣の人物も王の指の先に視線を移し、その山を瞳に映した。

 その隣で、ユリウスが小さな笑みを零す。

 彼は山の頂を仰ぐ、その隣の人物を見つめていた。

 まるで二度と戻らない大切な思い出を慈しむような眼差しで。

 リリアは父を驚かしてやろうといういたずら心が急速に(しぼ)んでいくのを感じた。

(……なんか、イヤダ……)

 何故だか分からないが、己の父親が全然知らない人に見えたのだ。


 その時、背後からポンッと肩を叩かれたリリアは、驚きのあまり叫び声を上げた。

「キャ――!!」

 その悲鳴に露台の二人は振り返る。

「ちょ、ちょっと、姫さま! 俺ですよ、俺!!」

 慌てたように言う男の声に、リリアは後ろを振り返った。

「……ドリス?」

「ジュリアもいますよ?」

「驚かせてしまって申し訳ありません、リリア様」

 ドリスの後ろから現れたジュリアはドリスの代わりに謝ると、彼女の前に膝を折ってその顔を覗き込んだ。

「少し顔色が悪いようですが大丈夫ですか?」

 案じるように言いながら、失礼、と言って手を伸ばし、彼女の髪に付いていた糸くずを摘み上げる。ジュリアの長い指に挟まれたそれを見て、リリアはむしろその行為に真っ赤になって首を振った。

「だっ、大丈夫よ。どこも悪くないわ」

 そうですか? と気がかりそうに言うジュリアを見て、後ろにいたドリスはやれやれと肩を(すく)めた。ジュリアの女性への態度には毎度のことながら感心させられる。無自覚で猫を(かぶ)っているのだから、始末が悪い。

 婦女子の前では声を荒げない、馴れ馴れしく触れない・近寄らない、常に心を尽くして紳士的な対応を。

 女性への奉仕も騎士としての務めなのだと(かたくな)に信じている彼は、ある意味至極単純な人間なのではないかとドリスは思っている。

「陛下に御用ですか?」

「用というほどのものではないのだけど……」

 幾分かまごついてリリアがジュリアにそう答えた時、

「リリア」

 ユリウスが露台から室内へと戻ってきた。

「父様…」

「また一人で部屋を抜け出してきたな?」

 彼は眉尻を下げて苦笑していた。

 いつもと変わらないその様子にリリアはほっとして側に寄る。そしてその服の裾先をつかんで彼の横に来ると、ためらいがちに黒衣の人物を見上げた。

 ジュリアやドリスならまだしも、この噂の人物がここにいようとは思ってもみなかった。

 ここは図書館とはいえ、王の私室であり、規模の大きな個人の書斎のようなものだ。本来なら王族しか入ることはできないし、王に許された数少ない者達だけが足を踏み入れることができる場所とされていた。この部屋の鍵を持つのは、代々の王達だけである。

 黒衣の人物は不審げに己を見上げてくる少女に、先程ジュリアがやったのと同じように、ゆっくりと膝を着いた。

 ユリウスはそっと娘の背を押し出した。

「お初にお目にかかります、殿下」

 静かで硬質な声が落ちた。

 頭を下げたまま己の声を待つ彼にリリアは声をかける。

「顔をお上げなさい」

 ゆっくりとその顔を、彼は上げた。

「……名は?」

「〝サント〟とお呼びください」

「……顔を見せてはくれないの?」

 その問いにわずかに体を緊張させたのはリリアの後ろにいた王臣の二人だ。そして、ユリウスもまたその例外ではなかった。

 だが、サントは周囲の予想を裏切り、ゆっくりとその被っていたフードに手をかける。

 あっさり王女の要望に応えたサントにドリスは目を(みは)った。

 フードの下から現れたのは、長い睫毛の下に隠され不思議に澄んだ碧玉(へきぎょく)の隻眼。

 リリアは一瞬その瞳の色に息を止めた。

 フードの下にあってもなお秘されているその様に驚くよりも、その瞳の美しさに魅入られていた。

 凪いだ湖水の水面(みなも)のように静かに(たた)えられているみどりは、揺るぐことなくリリアを見つめている。

 真っ直ぐ見上げてくるその瞳には、殉教者のような敬虔(けいけん)な色があった。

 許しを待っているかのような、どんな言葉でも甘受するというような、じっと見つめていると吸い込まれてしまいそうな深い深い瞳の色。不純物を交えず、どこまでも澄んでいて、底が(うかが)えない。

「……きれいな瞳…」

 そう言って、リリアは無意識にその手を伸ばしていた。

 自分に向かって差し伸べられたその手を、サントは遮ることをしなかった。その手が布地の上からその顔に触れても、王女に()されるがまま、その片方の目だけでリリアの双眸を静かに見つめる。

「……いいえ、殿下。貴女の麗しさに勝るものはない。まさに、閉月羞花(へいげつしゅうか)の美しさでいらっしゃる」

「へいげつしゅうか……?」

 聞き慣れない言葉にリリアが繰り返すと、横でユリウスが面白そうに笑いながら、口を挟んだ。

「魚は沈み、(かり)は落ち、月は光を閉ざし、花は恥らう……」

「?」

 リリアは父を仰ぎ見た。

「あまりの美しさに川の魚は気を失って水底に沈み、空飛ぶ雁は目が(くら)んで地に落ちる。美の代名詞である月花でさえも、月は怖じけて雲間に姿を閉ざし、花は己の身を恥じて萎んでしまう……。そういう意味だよ」

 ――月でさえその光を閉ざし、花を()えさせてしまうほどに、美しい…

 その言葉の意味を理解した途端、リリアは自分を湛然(たんぜん)と見つめ返してくるその瞳を、虚を()かれたかのように見返した。

 どこかの三文小説の文句にでも出てきそうな、回りくどく気障(きざ)ったらしい台詞(せりふ)だ。

 だが、そんな口説き文句的な台詞を十四歳のリリアは言われ慣れていない。

 何の躊躇もなく言ってのけられて、彼女は軽口で返すこともできず、熱湯にでも触れてしまったかのように伸ばしていた手をバッと離した。

 動揺して、ほんのりと顔を赤く染める彼女を見て、サントは隻眼を(やわ)らげた。

 笑われたことを(さと)ったリリアは益々頬を赤くしてサントを睨む。

「そっ……、そんなふうに隠してないで貴方も顔を見せなさい!!」

 若干混乱気味に発せられたその言葉に、便乗したのはドリスだ。

「えこひいきだぜ、サント。姫様には随分と従順じゃないか、俺らにも見せてくれよ」

 そう言ってドリスはサントに近づくと、(ひざまず)いている彼の、その面布(めんぷ)へと手を伸ばしかける。

 だが、


「――ドリス!!」


 鋭い叱咤の声を発した王に、ジュリアとドリス、リリアまでもが驚きに身を竦めた。

「……父様?」

 めったに聞くことのない王の怒声にドリスはその体勢のまま固まった。

 ユリウスはその眼力でドリスを押し止めたまま、静かに命じた。

「…離れろ」

 ドリスは驚いたようにバッとその両手を万歳の形に挙げると、サントから離れる。

「も、申し訳ありません」

「……彼は私の客人だ。礼を失することは許さん」

「はい……」

 まだ目を丸くしたまま(ほう)けたように両手を挙げているドリスの後頭部を、ジュリアがポカンと殴った。

〈馬鹿者〉

〈……まさか、あんなに怒るとは思わなかったんだよ……〉

〈……〉

 サントはゆっくりと立ち上がると、再びフードを元に戻して、リリアに頭を下げる。

「申し訳ありません。この顔は人前に出せるような代物ではないゆえ、ご寛恕(かんじょ)ください」

「え……」

「……この顔には醜い罪過の痕が刻まれている。か弱き姫君のお目を汚す訳には参りません……」

「罪過……?」

 ユリウスの眉間も微かに寄せられたが、リリアがぽつりと呟くと、彼はそっとその頭の上に手を置いた。

「父様……?」

 自分の頭をなでるその手の心地にリリアはためらいがちに父を見上げる。

「……さっきまで、ここで初代マダリア国王とその弟についての話をしていたんだ。覚えているだろう? 昔はお前にもよくしてやった……」

「……ディオニュシオス王と聖騎士フィロラオスの話?」

「ああ」

 だが、二人で山の頂を眺めていた先程の光景が、リリアの目に焼きついている。

 胸騒ぎがした。

 紹介されたはずがかえって、黒衣の人物に対する不審感が募った。

 それは正体の知れないおぼろげな不安となって、これからリリアを悩ませることになるのだった。

拉ぐ【ひしぐ】…おしつけてつぶす。おしつぶす。

古色蒼然【こしょくそうぜん】…いかにも古びて見えるさま。

蒼穹【そうきゅう】…あおぞら。おおぞら。

摩する【まする】…近づく。せまる。

湛然【たんぜん】…水などを十分にたたえたさま。また、静かで、動かないさま。

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