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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
35/87

13 偉大な兄と弟・後編

 フィロラオスは走った。

 彼はずっと心の底では兄のことを(うと)ましく思っていた。

 兄がいなければ自分はこんなひねくれ者にはならなかっただろうとも。

 誰にでも優しく、公明正大(こうめいせいだい)で、その上何をやってもうまくできる兄だった。

 (うらや)ましかったのかと問われれば違うと答えた。

 羨ましくなかったのかと問われれば、返答に(きゅう)したかもしれない。

 ただ、悔しかった。

 何をしても(かな)わない。届かない。

 いつだって、兄の引き立て役だった。自分で自分を肯定することができずにいた。

 だからずっと、優しい兄が好きになれなかった。上からものを言う兄がうっとうしくてしょうがなかった。

 彼の好意を素直に受け止めることができなかったのは、自分の気持ちなど絶対に分からないだろうと思っていたから。

 (ひが)みといえばそうだろう。あまりに眩しすぎる兄に、いつからかフィロラオスは自らその影になることを望んだのだ。

 (かたくな)に兄を遠ざけて、自分とは違うのだと、呪詛(じゅそ)のように言い聞かせ続けた。

 だが、思えばいつだって兄は弟を気遣っていた。たった二人の兄弟じゃないかと言われる度に、こんなにも遠い兄弟がいるだろうかと思っていた自分はなんて浅はかな子供だったことだろうか。

 兄の気持ちに(こた)えようと、いやそれ以前に彼の気持ちを考えようとさえしてこなかった。ただ、己のことに必死だった。

 知らなかった。

 己の影でいつも独りでいる弟のことを、兄がどんな目で見つめていたかなど……


『剣は手段であって目的ではない』

 口を酸っぱくして言ったそれは、自分の身を案じての言葉だった。


『フィロラオスは人一倍矜持(きょうじ)が高く、人と協調することをしないために時には傲慢に見えるかもしないが、決して性根の卑しい人間ではない。むしろ、誰より気高く繊細で、決して妥協しない努力家で、しっかりと己を持った信頼できる人物だ』

『弟を同情する優しい兄を演じることに酔っているただの偽善者だ』

 兄の気持ちなど考えず、ただ己のプライドが傷つけられたとばかり感じて(いきどお)った。


『彼女はやめておけ』

『彼女への愛を証明するためにも、俺は貴方に勝ってみせる』

 真摯(しんし)な忠告に耳を傾けようとしたことなど、一度としてなかった。


『真剣勝負に手を抜くなんて、どれだけ俺を(おとし)めれば気が済むのか』

 母を庇って傷を負いながら、不甲斐ない弟の誇りのために無理をして戦った。

『これからはその剣を大切なものができた時それを守るために使うといい』

 自分勝手な弟に最後まで心を配って言葉をくれた。


『あの女はもうお前の前には現れないだろう』

『どういう意味だ』

『お前の女はなかなかにいい声で()いたぞ』

『最早、この家にお前はふさわしくない。この手で殺してやりたいぐらいだが、落ちぶれる前の貴方を尊重して、それはしない』

 どんな気持ちでこの言葉を吐いたのだろう。

 そしてどんな気持ちで自分の罵倒を聞いただろう。


『もう、貴方は俺には勝てない。あの試合で負けて以来貴方は己の誇りを自ら捨てた。あの時から貴方の剣は死んだのだ』

 その誇りを()てさせたのは自分だというのに、どの口がそれを吐いたのか。


『この女はお前にはやれない。……父と義母(はは)を頼む』

 最後の最後まで、家族の身を案じていた。


 ――すまない


『あの子は私達二人のために、誰にも言わないことを決めたの。全て己の心の内に止めておくことを……。私と、そしてあなたのために』

『あの子は私達二人を守るために自ら犠牲になった。あなたの名誉を守るため、わざと醜態を演じ、自分の評価を落とすことで、今まで自分の影に隠れていたあなたをみんなの前に出したのよ』

『彼女の裏切りがあなたを傷つけることを恐れて、あえて憎まれ役を買って出た。あなたと私の名誉を守るために、己の名誉を捨てて、あの子は自ら泥をかぶったの』

『何度本当のことを言ってしまおうと思ったか分からない。でも、その度にディオはそれを止めた。私とあなたが傷付くだけだからと。特にプライドの高いあなたは絶対耐えられない、と。フィロラオスがこのまま誰も信じることができず、心に癒えることのない傷を負ったまま孤独に生きることになってもいいのかと訊かれたら、私には何も言えなかった……』

『フィロ、あなたを誰よりも理解していたのは、あなたのたった一人の兄なのよ。あの子はあなたの名誉と誇りを、あなたの心を守りたかった。たとえ自分のそれに代えようとも……』


 ――お前が弟の何を知っている。気安くあいつを語るな!

 ――初めて心を開き、本気で愛した女性に裏切られたと知ったら、あいつは二度と、人を信じられなくなる……

 ――今までフィロラオスは俺のせいでずっと孤独だった。だから、あんな女に引っかかってしまったんだ。俺はあいつが皆に正当に評価されず悪し様に言われるのが我慢ならない。だから、今度は俺があいつの影になろう。……あいつには、誰かを守る剣になって欲しい。それだけの技量もある。そのためには、俺は邪魔なんだ……


 ――『あんなにも弟思いの兄は、世界中探してもどこにもいない……』


(貴方(あなた)は馬鹿だ!)

 母の口から聞いた真実は今、狂おしいほどにフィロラオスの心をかき乱していた。

(俺は自分の気持ちなど分かるはずがないと思うばかりで、一度として貴方の気持ちを考えようとしなかった。貴方が、こんなにも俺を思っていたなど知らなかった。いや、知ろうとしなかったんだ。自分のちっぽけなプライドを守るために……)

 兄を遠ざけたのは、自分の(ねた)みを自覚したくなかったからだ。

 嫌いになることさえ、許してくれない兄だった。兄は弟にとっても非の打ち所のない、いい兄だったのだから。

 そんな兄を嫌うことはフィロラオスの矜持(きょうじ)が許さなかった。

 己は誰かを妬むような小さい人間ではないと信じたかったからだ。

 己の矜持を守ることで必死だった。

 それだけが唯一自分の支えだと思っていた。

 だから最後まで気がつけなかった。

 兄が最初から最後までずっと自分の味方だったということに……。

(こんな俺を守るために、捨て身で演技をしていたなんて……)

 心が(はや)る。

 血がドクドクと脈打っている。

(貴方は馬鹿だ……)

 鋭い刃物で突き刺されたかのように、胸が痛かった。


†††


「兄さん!!!!」


 フィロラオスが初めてまともに兄のことを兄と呼んだのはこの時だった。

「フィロラオス!?」

 男と女、二人分の声が重なった。

 一人は嬉しそうに、いま一人はにじみ出る痛みと悔悟(かいご)を驚きで塗り潰して。

 だが、フィロラオスは女には見向きもせず、ただひたすら兄の顔を見つめた。

「……今、兄さんと言ったか……?」

 信じられないというように、ディオニュシオスは呟いた。

「……にい、さん……」

 その声に、その顔に、ディオニュシオスは全てを悟った。

「……義母(かあ)さんが話してしまったんだな」

「もういい、もういいんだ。全部俺が悪かった……何て()びればいい。……俺が至らないばかりに……もう、これ以上自分を犠牲にするのは止めてくれ……」

「……フィロラオス……」

「フィロラオスッ!!」

 ようやく心を通い合わせようとしている兄弟の会話を遮って、女は金切り声を上げた。

「あなた、私のこと愛してるって言ったじゃない! 騙されないでっ! あなたのお母さんもお兄さんも、私のことが気に入らないから私達を別れさせようとしているのよっ!! 私達のために戦って!!」

 ここまで来てよくそんなことが言えるものだと呆れて女を見下ろしたのは隣にいたディオニュシオスだ。

 向かいにいるフィロラオスはといえば、彼女の望みどおり剣を抜いた。

 だが、それは彼の兄に向けられたものではない。

「フィ、フィロラオス……?」

 女は己の目の前に突きつけられた光に、信じられないというように声を引き()らせた。

「フィロラオス、よせ」

 兄の制止が入ったが、弟は躊躇なく白刃を(ひらめ)かせる。

「……俺は兄と違ってお前を殺せる。去れ。次に会ったら命はない」

 氷のように冷たい眼差しでそう告げると同時に、女の前髪がパラリと切れ落ち、額に入ったきれいな横線から一筋の血が女の鼻梁を伝って流れ落ちた。

「ひっ、ひいいいいいいいい……!!!!」

 女は恐怖のあまり顔を醜く引き攣らせて腰を抜かしたかと思うと、這うようにしてその場から逃げ去った。

 後には兄と弟の二人が残される。

「……よかったのか」

「いいんだ」

 母から真実を聞かされた今、女に対する情は不思議なくらいフィロラオスの中から消え去っていた。彼女は、自分を欺いていただけではなく、母まで苦しめていたのだ。

 顔をきつくしかめた弟に兄は言った。

「……すまなかった」

「……何で、貴方が謝る」

「……俺はずっとお前に対する罪悪感を捨てられなかった。(おご)った考え方かもしれないが、俺さえいなくなれば、お前は本来の自分に生まれ変われるだろうと思ったんだ……」

 兄の裏切りと、恋人の裏切り、どちらがショックが少ないかと考えてディオニュシオスは迷わず前者を取った。初めから好かれていなかった兄と、初めて愛した女性だ。(はかり)にかけるまでもない。 そしてどうせ恨まれるのなら、弁解の余地がないほど徹底的にやらなくてはならなかった。親しい者から擁護される可能性をも排除して。そのぐらいやらなければ、フィロラオスの痛みには変えられないと。どんな形にせよ弟から愛する女を奪うのだから。

 そうしてその代わりに、彼に新しい世界を与えようと思った。そこで彼が大切な人を作ってくれればいいと願って……。

「だが、こんな庇われ方はお前が一番嫌うものだろう」

「……本当によく知っている」

 フィロラオスは苦く笑った。

「俺はずっと貴方のことを知ろうとしてこなかった。……でも今分かったことがある」

「……何だ?」

「兄さんは馬鹿だ」

 真正面から言われたその言葉に、兄は面食らって目をしばたたかせた。

「何故、自分に敵愾心(てきがいしん)しか向けてこない自分勝手な弟のために、己を捨てるような真似ができるんだ」

 顔を歪める弟に、兄はポリポリと頬を掻いた。

「それは、お前が俺の弟だからだろう?」

「……答えになってない」

 渋面で返してきた弟に兄は苦笑する。

「俺はお前が思うほど複雑な思考なんて持ち合わせていない。自分の弟が難儀(なんぎ)していたら助けたいと思うのが兄じゃないのか? それだけだよ。単純明快だろう?」

 その言葉にフィロラオスは息を呑み込みうつむいた。

 当然のように返されたその言葉が、胸に痛い。

 自分が今まで兄に返したものは、憎悪と侮蔑、怒りだけだった。

「……こんな、愚かな弟でも、か……?」

 絞り出された声は小さく、震えていた。

 だが、拳を痛いほどに握り締めて歯を食いしばってうつむいている弟を見て、ディオニュシオスはひどく安堵していた。

 口元は自然に綻ぶ。

 こんなふうに、彼が自分の前で弱さを見せてくれるのは、初めてのことなのだ。

 ディオニュシオスは嬉しかった。

「フィロラオス、俺はお前を愚かだと思ったことなんて一度もない。言っておくが、お前のことを誰よりも高く評価してるのは、この俺だぞ? ……お前はきっと多くの人を守る剣になれるだろう」

 お前は世界で一番の弟だよ

 肩に手を置かれて言われたその言葉に顔を上げた時、どこか誇らしげに温かく笑う兄の顔を見つけて、フィロラオスは初めて兄の前で涙を流した。

公明正大【こうめいせいだい】…心が公明で少しも私心のないこと。

悔悟【かいご】…是非を悔い悟ること。

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