12 偉大な兄と弟・中編
その女は線の細い、いかにも頼りなさげな雰囲気を纏っていた。
ディオニュシオスは初めてその女を見た時、確言できない、小さな違和感を覚えた。
いつもフィロラオスの陰に隠れるようにしながら微笑を絶やさない彼女に、奥ゆかしさを感じながらも好感を持つことができなかった。決して自己主張しないにもかかわらず己の意を通す彼女の、一つ一つの仕草や口ぶりに潜む老獪さを、敏感にも感じ取ったからだ。
とても女自身の主張する年相応には思えない。可憐な外見にそぐわないそのアンバランスさが彼の不信感を募らせた。
だから彼は弟に言った。
『彼女は止めておけ』
だが、フィロラオスは聞く耳など持たなかった。
『彼女への想いを証明するためにも、俺は貴方に勝ってみせる』
女の言葉を信じ、彼女を本気で愛そうとしていた。
ディオニュシオスは口をつぐんだ。
これ以上弟に好かれていない自分が反対すれば、それはかえって逆効果にしかならないということを彼は知っていたからだ。
そして、ディオニュシオスはもう一つ不審なことに気がついていた。
それは義母でもあるサンカリナの態度である。妙によそよそしい様子に、自分の息子が取られるようで複雑な心境なんだろうと父は笑いながら言っていたが、ディオニュシオスは疑念を拭えなかった。
もちろん、サンカリナはその女のことを息子に紹介される前から知っていた。
女は彼女の昔の仕事の同僚だった。
まだ十代の頃、サンカリナには病弱な父が一人いた。
彼女が生まれてすぐ妻を流行病で亡くし、それ以来ずっと一人で頑張ってきてくれた大切な父親だった。
その薬代と生活費を稼ぐために彼女は春をひさぐ仕事をしていたのだ。
だが、その仕事を始めて三年ほどすると、彼女の父はこの世を去った。
扶養すべき家族を亡くして負担が減ったサンカリナは仕事をやめることができたが、唯一の家族を喪ってしまった彼女の悲しみは大きかった。
途方に暮れ、独りでいることに堪えられなくなった彼女が己の汚れた体を橋の上から捨ててしまおうとしたちょうどその時。通りかかったのがディオニュシオスの母だった。
マダルソニアはまだ子供といっても差し支えない年齢だった彼女から事情を聞くと、自分の召使として彼女をリジュー家に招き入れた。
己の連れてきた少女が当主に見初められ彼との間に一子を儲けても、嫉妬に狂うことなく、新しい家族としてサンカリナを迎え入れた。
それは幸せな生活だった。
二人はまるで姉妹のように、互いの息子を一緒に育てた。
サンカリナは慈悲深いマダルソニアを尊敬し、彼女もまたマダルソニアから信頼されていた。
そして、マダルソニアが病に儚くなった時、彼女は残された家族、二人の息子のことを託されたのだ。
だが、そんな彼女の前に女は現れた。
驚くべきことに衰えを知らないと見える容姿のままで。
女は家族に昔の仕事をばらされたくなかったら、まとまった金を寄越せと彼女をゆすった。
サンカリナは自分の過去の露見を恐れた。
何も自分の名誉のためばかりではない。名家として知れたこの家の第二夫人がその昔娼婦として働いていたなど、家名を汚す最大級の醜聞だ。
家族にまで害が及ぶことを、彼女は恐れた。
彼女の過去を知る者は、既に亡くなった彼女の恩人であるマダルソニアだけ。誰にも相談することができず、彼女は孤独だった。
思い悩むサンカリナに、痺れを切らした女は彼女の息子に目をつける。
いつも一人でいるフィロラオスに近づき、彼の孤独な心の隙間に狡猾にも滑り込んだ。女は優しく愛の言葉をささやき、フィロラオスの心を手に入れた。
サンカリナはそれを知ると血相を変えた。
息子に近づくのだけはやめてくれと、女に哀願した。
女は笑って、それならさっさと出すものを出せと言う。
苦渋の結果、サンカリナはその求めに応じた。
だが、女はフィロラオスと別れようとはしなかった。あろうことか、息子が会わせたい人がいると言って家にまで連れてきたのだ。
サンカリナは話が違うじゃないかと女を責めたが、女はこれくらいのはした金じゃ全然足りないと、更に金額を要求してきた。
母は語った。
『ディオニュシオスは私達の密会現場に現れたわ。あの人と私が会う約束をしていたのを聞いていたのでしょう。私が彼女にお金を渡そうとした時、後ろから現れたの。そして、あの子は私が昔何をしていたかも知ってしまった。それを隠そうとして、あの人に脅迫されていることも。だけど、彼は私を蔑むような目で見たりしなかったわ。それどころか、私を庇って怪我をしたの。あの人には取り巻きがいて、取引の場所にいつも数人の男を連れて来ていた。突然の闖入者に襲い掛かってきた男達から私を守ろうとして、あの子は右腕に怪我を負ってしまった。多勢に無勢で、それでもあなたの兄は負けなかった。そして、二度と私とあなたに近づくなと彼女に言ったの。彼女は恐れをなして私達の前から姿を消した……』
『待ってくれ、母さん。そんな話急に言われても信じられないよ』
『……フィロ、あなたはあなたの兄だけは信じなくてはいけない。あなたの兄は、彼女があなたのことを侮辱したら、烈火のごとくに怒ったのよ』
――お前が弟の何を知っている。気安くあいつを語るな!
フィロラオスは顔を歪めた。
『……もし、それが本当に事実なら、どうして、今まで言ってくれなかったんだ……』
『私は泣きながら全てをあの子に話そうと言ったわ。そうしたら、ディオニュシオスがそれを止めたの……』
――過去は過去だ。昔貴女に何があったのか俺は知らない。だけど母がよく貴女を褒めていたことを俺は覚えているし、母が死んでからも家族のために尽力してきた貴女を俺は知っている。……きっと何かそうせざるをえない事情があったのだろう。思い出したくない昔を無理に振り返る必要はない。俺は誰にも言わないから、貴女も忘れてしまえばいい。
『それから、フィロラオスにだけは絶対言ってはならないと……』
『なぜっ!!』
――初めて心を開き、本気で愛した女性に裏切られたと知ったら、あいつは二度と、人を信じられなくなる……
母の告げた兄のその言葉に、フィロラオスは呼吸を止めた。
『あの子は私達二人のために、誰にも言わないことを決めたの。全て己の心の内に止めておくことを……。私と、そしてあなたのために。そして、何事もなかったかのように、あの子はあなたとの試合に臨んだわ。右腕に怪我を負った状態で……』
そんな、とフィロラオスは呻いた。
確かに勝負の前半、兄の反応が鈍かった。
それは彼が手加減している所為だとフィロラオスは思ったのだ。
だが、違った。
彼は利き腕を負傷していて、自分が馬鹿にするなと怒ったから必死の形相で攻めてきた。
怪我がばれる訳にはいかなかったから。
それは母を守ろうとして、負った傷だった。
あの時彼は、自分と母のために戦っていたのだ。
『……そして、あの子は私達二人を守るために自ら犠牲になった。あなたの名誉を守るため、わざと醜態を演じ、自分の評価を落とすことで、今まで自分の影に隠れていたあなたをみんなの前にひっぱり出したのよ。私は言ったわ。そんなことをしてはダメだと。でもあの子は――』
――今までフィロラオスは俺のせいでずっと孤独だった。だから、あんな女に引っかかってしまったんだ。俺はあいつが周囲から正当な評価をされず、悪し様に言われるのが我慢ならない。だから、今度は俺があいつの影になろう。……あいつには、誰かを守る剣になって欲しい。それだけの技量もある。そのためには、俺は邪魔なんだ……
『じゃあ…、じゃあ、今までのは全部演技で……?』
『そうよ、あの人をあなたから無理矢理奪ったというのも嘘だわ。彼女の裏切りがあなたを傷つけることを恐れて、憎まれ役を買って出た。あなたと私の名誉を守るために、己の名誉を捨てて、あの子は自ら泥をかぶったの。
だから、あなたがあの子にこの家から出て行けと言った時、私は必死になって止めたわ。何度本当のことを言ってしまおうと思ったか分からない。でも、その度にディオはそれを止めた。私とあなたが傷付くだけだから。特にプライドの高いあなたは絶対耐えられない、と。
フィロラオスがこのまま誰も信じることができず、心に癒えることのない傷を負ったまま孤独に生きることになってもいいのかと訊かれたら、私には何も言えなかった……。
フィロ、あなたを誰よりも理解していたのは、あなたのたった一人の兄なのよ。あの子はあなたの名誉と誇りを、あなたの心を守りたかった。たとえ自分のそれに代えようとも……』
『嘘だ……そんな……』
フィロラオスの脳裏に、最後に見せた兄の瞳がよみがえる。
初めてその瞳の意味を見つけた気がして、フィロラオスはぞっとした。
――胸に重い何かを秘め湛えながらも揺るがない深遠な眼差し
『嘘ではないわ。きっとあの人は私達に内緒であなたに会いに来たんでしょう。だけど、その前にディオに見つかってしまった。そして、完全にあなたと決裂した彼はもう二度とここに戻ろうとは思わない。早く彼を追って。私はあの子のお母様に命を救われたの。これ以上あの子に犠牲を強いてはならない……』