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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
33/87

11 偉大な兄と弟・前編

 ある昼下がりの午後だった。

 リリアは()りもせず、――宣言どおり、ちゃんと書置きは残してきたが――、一人自室を抜け出して父王の元へと向かっていた。

 執務室に求める人の姿は既になく、書斎に行ったようだとの言を受け、階段を駆け上がる。


 広い王城にはいくつかの図書施設が存在する。

 別館で一般公開されている公営図書館と、宮廷に設けられた小規模な官用図書室が数室、そして宮城の辺境にあたる北塔最上階に位置する、国王のための専有図書館である。

 これは国王私有の書斎で普段は閉鎖されており、王だけがその扉を開く鍵を持っている。書斎というには少々規模が大きすぎるので、王族専用図書館となっていた。

 そこには代々の王達が趣味で集めた書籍が蔵書されており、専門書や画集、図鑑に小説、随筆、伝記と、その種類も多岐(たき)に渡っている。(こと)に、アストラハン創世記からの神話・伝説を含む古代史やマダリア王国の正史、王族の細かい系譜(けいふ)などが豊富に収められていた。

 リリアにとっても、アストラハンの大地を守ってきた多くの偉人に思いを馳せた、思い出深い場所である。

 幼い頃、父の口から語られるアストラリア達の活躍に耳を傾けては、何度も話をせがんだ。

 特に好きだったのは、このマダリアの祖である初代マダリア国王ディオニュシオスと、その弟初代サンカレラ騎士団創設者、聖騎士フィロラオスの二人の絆の物語だ。


 マダリア王国の創業と守成を共に(にな)った彼らは、偉大な王と忠実な臣としてその名を残すと同時に、兄と弟という絆を持っていた。

 主のためにその命を自ら捧げたフィロラオスは、後世に騎士の(かがみ)と賛嘆され人々の畏敬を集めるに至るが、中にはそれが血の(つな)がった兄弟だからこそなせる(わざ)だと、その兄弟愛を讃える者もいる。

 だが、彼らが幼少の頃より積み重ねてきた親密な時間の共有から、そのように深い絆で結ばれていたかというと、決してそうではない。むしろ彼らは、疎遠な兄と弟だった。

 この二人の物語は時を越えて多く人口に膾炙(かいしゃ)されてきたが、君臣時代の美しい兄弟愛ばかりが劇や小説の主題としてとりあげられてきたため、この事実を知る者は少ない。



†††



 ディオニュシオスとフィロラオス。

 彼らは元々腹違いの兄弟だった。

 正妻の子である兄と、妾腹(しょうふく)の子である弟。

 国と騎士団の命名の由来となっている二人の中間名(ミドルネーム)はそれぞれ、この母親の旧姓から来ている。

 ディオニュシオス=マダルソニア=リジューと、フィロラオス=サンカリナ=リジュー。

 マダリアの女性を尊び守るという精神風土が他国に比類しても高いのは、この二人の偉大な男達がそれぞれ母を敬うこと(あつ)かったからとされている。それは二人の母親が後世においても聖母として敬弔(けいちょう)されている点でも(うかが)い知れる。


 ディオニュシオスの母マダルソニアは良家の子女で、フィロラオスの母サンカリナは元々彼女に仕える召使だった。

 伝統ある名家に生まれた嫡出子(ちゃくしゅつし)庶子(しょし)、二人だけのこの兄弟は決して仲が悪かった訳でも、いがみ合い憎み合っていた訳でもない。

 ただ、妾腹の子である弟のフィロラオスは嫡腹の子である兄のディオニュシオスに対して、常にコンプレックスを捨てられなかった。

 (めかけ)の子として(さげす)まれ疎外(そがい)されてきた訳ではない。騎士団長だった父親は、正妻と第二夫人、分け隔てなく愛したし、同様に子も同じように愛した。

 ただ、それでも嫡出子と庶子の間で差は出てくる。何かと優先されるのは兄で、弟はいつも兄の日陰にいた。

 正妻であるマダルソニアは第二夫人サンカリナほどの若さはなかったが、聡明で美しい女性だった。そんな彼女をサンカリナは慕っていたし、マダルソニアもサンカリナを年の離れた妹のように可愛がっていた。サンカリナは控え目で、決してでしゃばらず、いつもマダルソニアを引き立てようとしていた。

 フィロラオスは母親思いであったが、彼はそんな母の姿に正妻に対する阿諛(あゆ)と遠慮を感じ取り、それが余計に三つ違いの兄に対する引け目に(つな)がった。


 武芸に秀で何でもよくできる兄の周りにはいつも人が絶えなかった。

 対して弟はいつも人を避け、大勢の人間に囲まれて談笑している兄を尻目に、一人で剣を振っているような少年だった。

 おおらかで情に篤く、ユーモアのセンスにも(あふ)れていた兄は、無口で陰気な弟にとって決して身近に感じられる存在ではなかった。

 いがみ合い嫌い合っていた訳ではない。だが何でも腹を割って話し合えるような特別仲のよい兄弟という訳でもなかった。


 ディオニュシオスは人が好きだった。彼の周りにはいつも人が集まったし、笑い声が絶えなかった。

 フィロラオスは剣が好きだった。ただ孤独に、己の技を高めることだけを望んだ。

 いつも独りで剣の鍛錬ばかりしている弟を、兄はよく(たしな)めた。

『剣は手段であって、目的ではない』

 だが、弟はその忠告に耳を傾けることはなかった。

 周囲の人間がフィロラオスは尊大で狷介(けんかい)な人物だと批評すると、その度に兄は弟を(かば)った。

『フィロラオスは人一倍矜持(きょうじ)が高く人と協調することをしないために時には傲慢に見えるかもしない。だが、決して性根の卑しい人間ではない。むしろ、誰より気高く繊細で、妥協を知らない努力家であり、しっかりと己を持った、信頼に足る人物だ』

 だが、兄のその弁護を弟は喜ばなかった。

『弟を同情して優しい兄を演じることに酔っている、ただの偽善者だ』

 弟は兄を(ののし)った。

 周囲は弟思いのディオニュシオスを褒め、思いやりのないフィロラオスを益々()(ざま)に言うようになった。兄を称賛しては必ず弟を引き合いに出して、「それに比べて弟は」と、誰もがフィロラオスを()き下ろす。

 そんな周りの人間に振り回されて、兄弟の溝は深まり、フィロラオスは兄を敬遠するばかりか益々他人と交わることをしなくなっていった。


 そんな二人が少年から青年へと成長したある日、騎士団長の息子として一人前になったディオニュシオスは副団長を任されることになった。

 だがこれに対し、剣の腕なら己とて引けを取らないとフィロラオスは主張した。

 多くの批判が上がった中、やりたいものがやればいいとディオニュシオスは言ったが、フィロラオスは納得しなかった。

 兄の後塵(こうじん)を拝してばかりいた自分に決着をつける時だ。

 フィロラオスは互いの誇りを懸けて戦うことをディオニュシオスに誓わせた。

 ちょうどこの頃フィロラオスの隣には一人の女性の姿があった。

 人との関わりを避けてきた彼の孤独な心に、優しく愛をささやいてくれた(ひと)だった。

 初めて誰かを愛しいと思った彼は愛する彼女のためにも、兄に勝つと宣言したのだ。

 彼女との付き合いに難色を示していた兄に、己は心配され庇護される存在ではないと証明するためにも、彼は勝たなくてはならなかった。

 仕合い当日、本調子ではない兄の剣に、彼の強さを誰より知っていたフィロラオスはそれを敏感に感じ取って(いきどお)った。

 互いの名誉と誇りを懸けての戦いだ。兄弟の情があろうがなかろうが、手加減されるなど彼のプライドが許すはずがなかった。

『真剣勝負に手を抜くなんて、どれだけ俺を(おとし)めれば気が済むのか』

 弟のその言葉に、ディオニュシオスは険しい表情で彼を攻めた。

 フィロラオスは兄の猛攻を(から)くも(しの)ぎ、長い攻防の末、一瞬の隙を逃さず払った刃の一閃が兄の剣を弾き飛ばし、ついにフィロラオスはディオニュシオスに勝利した。弟が兄を負かした瞬間だった。

 周囲は二人の熱戦を褒め讃えた。

 兄だけではなく、弟も衆目を集めるようになった。フィロラオスは愛する人のおかげで、ずっと(かたくな)だった心がいくらか綻びていたので、素直にそれらの賛辞を受け取った。

 最後に握手し、兄は弟にこう言った。

『これからはその剣を大切なものを守るために使うといい』


 フィロラオスは変わった。

 今まで何一つ勝つことのできなかった兄に、初めて剣で勝利したことが彼を変えた。

 長い間抑圧されてきた強い劣等感から解放され、ようやく彼は心にゆとりを持つことを知った。

 少しずつではあるが、無闇に人を避けることをしなくなり、人々の間に入るようになっていった。

 そんな中でフィロラオスは副団長としての信頼を順調に築いていく。とっつきにくい面もあるものの、付き合ってみれば信頼できる人物だという評価が高まった。

 自分に厳しく、理想は高く、口に出さず行動で示す。たとえ辛くても決してそれを周囲に悟らせない。他人に何と言われようと、己の信じる道を貫く。――そんな彼の孤高の姿に、尊敬の念を抱く者は増えていった。

 だが、それと併行(へいこう)して、兄のディオニュシオスもまた変わった。

 弟に負けて以来、あんなに賢明だった彼が酒と女に溺れるようになったのだ。

 弟の評価と反比例するように、兄のディオニュシオスは急激に落ちぶれていった。

 態度は横柄になり、平気で人を傷つけた。暴言を吐き散らし、傲慢に他人を見下し、虚栄心を育て、弟の謗言(ざんげん)を平気で人前に吹聴(ふいちょう)して、乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を働いた。

 親しかった者達は、ディオニュシオスのあまりの激変に彼を敬遠し始め、最初はその豹変ぶりに驚き何かあったのかと心配した周囲も、ディオニュシオスのその素行が悪化していくと、今度は彼を弟と比べて扱き下ろすようになった。

『弟に負けたことがそんなにショックだったのか』

『自身の評判を傷つけられたことがそんなに気に障ったのか』

 弟の出世を祝ってやれない器の小さな兄を嘲弄(ちょうろう)した。

 フィロラオスは長い間人々から(うと)まれても決して己を曲げることはしなかったのに、弟の名声が高まり、少しでも己の自尊心が傷つけられたからと言って、そのような浅慮(せんりょ)な振る舞いをするのかと人々は彼を軽蔑した。自分の陰にいた弟を高いところから見下ろし同情する振りをして、自分の優位に酔っていただけだったのだと、化けの皮が剥がれ見せ掛けだけの男だった彼を罵倒し、弟のフィロラオスこそが人の上に立つべき人間だったと、評価を丸ごと(くつがえ)した。

 そして、そんな兄の影で長いこと日の目を見ることができなかった弟に同情が集まった。

 兄の陰に隠れながらも、周囲の中傷にも屈せず、己の剣を極め続けたフィロラオスに対する畏敬は益々高まっていった。

  だがそんな兄の変貌に一番戸惑ったのはフィロラオスだった。彼は情に訴えて兄を弁護することはしなかったが、周囲に便乗して兄を悪し様に言うこともしなかった。むしろ、兄の醜態を恥じ、迷惑をかけた者達に頭を下げて回った。

 そんな彼の態度を見て、周囲は更に弟はよくできた人間だと、彼を褒めるようになった。

 だが、そんな弟もついに兄を憎む時が来る。


 ある日突然何も言わずにフィロラオスの前から恋人がいなくなった。

 慌てて彼女を探す弟の前に現れた兄は、こう言った。

『あの女はもうお前の前には現れないだろう』

『どういう意味だ』

 問い(ただ)した弟に、兄は何も言わず服の袖に手を入れ取り出したものを宙に放る。

 己の足元に落ちてきたそれにフィロラオスは顔色を変えた。

 それは彼が愛しい人に贈ったはずの(かんざし)だった。

 フィロラオスは思い出す。

 兄が彼女との付き合いに反対していたことを。

 何かとお節介な兄がよくする年長者としての忠告の一つだろうと、フィロラオスは勝手に思っていた。

 だが、この時彼は(さと)った。

 それは弟を案じての言葉ではなく、兄自身が彼女を手に入れたいと思っての讒言だったのだと。

『お前の女はなかなかにいい声で()いたぞ』

 酒臭い息を吐き出しながら、卑しい笑みを浮かべてディオニュシオスが言った時、弟は兄に殴りかかっていた。


 フィロラオスは必死になって恋人を探した。

 だが、どれだけ探しても彼女は見つからなかった。

 激昂(げっこう)したフィロラオスはディオニュシオスに家を出て行けと言った。

『最早、この家にお前はふさわしくない。この手で殺してやりたいぐらいだが、落ちぶれる前の貴方を尊重して、それはしない』

 ディオニュシオスは嘲るように笑ってそれを快諾した。

 だが、それに断固反対した人物がいた。

 フィロラオスの母サンカリナだった。

 ディオニュシオスの母マダルソニアは既に他界していたために、彼を擁護するのは義理の母でもある彼女だけだった。

 父親は息子のあまりの堕落振りに彼を庇うことはできなかった。それでもサンカリナは涙を流しながら、ディオニュシオスを庇った。

 乱暴に振り切って出て行こうとするディオニュシオスを必死に引き止め、『亡くなられた後を私にお任せになっていった貴方のお母様に申し訳が立たない』そう言って、せめて、もう一度再起するチャンスを与えてやってくれと、夫と息子の前で低頭した。

 彼らは彼女のあまりの必死さに、しぶしぶそれを受け容れた。

 ディオニュシオスはそれ以来、黙々と独りで剣を振るうようになった。態度を改め夜遊びに興じることもなくなった。

 だが、フィロラオスは決して兄を許さなかった。

 そして、一年が過ぎた頃、フィロラオスは真実を知ることになる。


 フィロラオスの友人が彼の下を訪ねた時、ディオニュシオスが女と会っているところを見たと言う。 その女が、君が昔付き合っていた女性と似ていたと言われたフィロラオスは、急いで現場へと駆けつけた。

 そこには一年前彼の前から姿を消した、ずっと探していた彼の恋人がいた。

 彼女はフィロラオスの姿を認めると、安心したように微笑んで駆け寄ろうとしたが、その腕をディオニュシオスが険しい顔でつかんだ。

 彼女は怯えていた。

 フィロラオスは腰に下げていた剣を抜き、彼女を放せと兄に詰め寄った。

 ディオニュシオスは苦しそうに顔を歪めた。

 だが、彼は彼女の腕を離そうとしなかった。女を自分の背後に押しやると、彼もまた剣を抜いた。

 フィロラオスは言った。

『もう、貴方は俺に勝てない。あの試合で負けて以来貴方は己の誇りを自ら捨てた。あの時から貴方の剣は死んだのだ』

 ディオニュシオスは何も言わなかった。静かに剣を構えた。

 フィロラオスはディオニュシオスに切りかかる。

 剣と剣を挟んで、二人は至近距離で睨み合った。

 その時、向かい合う兄の瞳の中に深い憂いの色を見つけ、弟は眉をひそめた。

 兄は言った。

『この女はお前にはやれない。……父と義母(はは)を頼む』

 その言葉に虚を()かれた瞬間、激しい力で押し返され、一瞬で手元から剣を跳ね上げられた。

 驚きに瞠目する前に、がら空きになった鳩尾(みぞおち)に拳が入る。

 崩れゆく意識の中でフィロラオスはすまない、という兄の声を聞いた。


 目覚めた時、フィロラオスは家の寝台に横たわっていた。傍らに心配顔で見下ろす母が、いったい何があったのかと息子に詰め寄る。

 フィロラオスは自分の恋人をかどわかしたと兄を罵った。

 だが、それを聞くと母は顔を真っ青にして号泣し始めた。

『何故母さんがそんなに泣くんだ』

 驚いたフィロラオスが母を(なだ)めようとすると、彼女は答えた。

『貴方は勘違いしている。あんなにも弟思いの兄は世界中探してもどこにもいない。貴方は貴方の兄を罵倒することなどできない』

 そして、全部自分が悪いんだと彼女は全てを告白し始めた。

膾炙【かいしゃ】…広く世人に好まれ、話題に上って知れわたること。

敬弔【けいちょう】…つつしんでとむらうこと。

嫡出子【ちゃくしゅつし】…正妻から出生した子。

庶子【しょし】…妾腹の子。

阿諛【あゆ】…おもねりへつらこと。

狷介【けんかい】…固く自分の意志をまもって人と妥協しないこと。

後塵を拝す【こうじんをはいす】…人に先んじられる。おくれをとる。

讒言【ざんげん】…人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわって、その人を悪く言うこと。また、その言葉。

嘲弄【ちょうろう】…あざけりなぶること。ばかにすること

浅慮【せんりょ】…思慮の浅いこと。浅はかな考え。

激昂【げっこう】…激して感情が高ぶること。いきり立つこと。

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