02 下町騒動
一部、色っぽい表現や下品な表現があります。ご注意ください。
アレスの中央街道を下った場所。
道にはさまざまな露店が並び、それを見に来る客と客を捕まえようと躍起になった売り手の声で通りは熱気に包まれていた。
だふ屋は声高に叫ぶ。
「今年の武闘大会は白熱すること間違いないなし!! 数年振りに御前試合が行われるだろうって、もっぱらの噂だよ!! 男と男の熱い死闘をサンソビーノで見なきゃ損損!! さあ、買った買った。安くしとくよぉ!!」
城下町からずっと下って、飲み屋や宿屋が建ち並ぶ旧市街だった。
「お前は毎年そう言っているじゃないか、ダリ! お前がそう言って御前試合が行われたためしはねえぞ!」
「うるせぇな、ボイルのおやっさん!! 商売の邪魔すんじゃねぇよっ!!」
げらげら笑って横槍を入れた縦も横も大きな面長の大男も、それに元気よく言い返すひょろりと手足の長いそばかす顔のだふ屋も、どこか楽しげだ。
街は活気付いている。
その街中、宿の一室で男は目を覚ました。
「……んだぁ? 朝っぱらから、うるせえなあ……」
低音のしまりのない声が仄暗い室内に響く。寝台の上にいかにも億劫というように緩慢に身じろぐ人の気配があった。
からからと風に唆されて換気扇が空回りしている。外界の明るい日差しは鎧板の隙間から微かに漏れる程度で、その光の筋の中では埃さえ踊ることなく、静寂と冷たさを保っていた。窓際の卓上には短くなった煙草の吸殻が灰皿を飛び越えて散乱し、寝台脇の床には脱ぎっぱなしの衣服と長靴がぞんざいに投げ捨ててある。
外の様子とは対照的に、倦怠感がその部屋に充満していた。沈滞した空気は外界とは完全に遮断された空間のようだ。
昼は食堂、夜は飲み屋と、同時に宿をも兼ねた店の二階の一室、寝癖で爆発した頭を乱暴に掻きながら、一人の男がのっそりと身を起こした。すると、男の耳元でくすくすと密やかな笑い声が上がった。
「やあねぇ。もうお昼なのよ? 寝坊助さん」
男の隣に、あられもなく肌をさらした女がその身を預けて微笑んでいた。起き上がった男の厚い胸板にすべらかな頬を押し当てると、ほおっと溜息をつく。一定を保つ力強い鼓動にうっとりとして、しなやかな細い腕を男の体に絡めた。雑多な外の喧騒から目を逸らし、昼間から素肌をさらけ出し合って密着させている男女の姿が、ぼんやりとした薄明かりの中に浮かび上がる。ひどく淫蕩的でけだるげな絵だった。
男の乱れた黒髪と女の濃やかな赤茶の髪が交じり合い、戯れに毛先が触れ合ってはお互いの肌を刺激する。男は女の長い髪を、その骨ばった外見とは裏腹な指使いで弄びながら、そっとその耳元に口を寄せた。
「情熱的な夜だったからな。夜更かししすぎたみたいだ」
吐息交じりに告げられる低音は、先ほど起きぬけに出した寝ぼけたものとは百八十度違う、脳髄に響く甘い声だった。女は身震いしたが、しつこく息を吹きかけてくる男にくすぐったげな声を出して笑った。顔を上げて男の唇に自分のそれをゆっくりと重ね味わった後、甘えた声で問いかける。
「昨夜はステキだったわ、名無しさん。あなた、この辺りでは見かけない人だけど外から来たの? ねぇ、名前を教えて……」
男の首の付け根に頭を預けたまま人差し指が、せがむように逞しい胸をつっついた。おもむろにそこへ顔を寄せ厚い唇を厚い胸板に落としていく。
女の柔らかな髪の中に手を差し込んで優しく梳きながらされるがままになっていた男は、自分の体をなで回し唇を寄せ続ける女の手首をやおらつかむと、強引に体を回転させて彼女を組み伏せた。
「キャッ!!」
突然体位が変わったことに女は少なからず驚いて、上目遣いに抗議するような視線を送った。男は上からその上気した女の顔を見下ろして、危険な色の瞳で笑ってみせる。
「〝人にものを尋ねる時はまず自分から〟って、教わらなかったのかい? 子猫ちゃん」
素早く唇を奪った。
女は一瞬びくりと体をわななかせたが、すぐに熱くそれに応え始める。
けだるげに滞っていた空気が熱を帯びてしめやかに動き出す。
熱い吐息が密閉した空間に漏れ出し、ぎしりとベッドが軋んだ音を立てた。
――己の下で喘ぐ女に目を眇めながら、男は胸中でしめしめと舌なめずりをしていた。
昨日会ったばかりだが、なかなかの上玉だ。このままもう一ラウンドへともつれ込むのも悪くない。
男は自分の幸運に感謝すると共に、心の中で行儀よく合掌した。
だがその時、外から聴こえてきた一際大きな怒声と漣のように上がった悲鳴とに、ゴングの鳴った直後だというのに男はその動きを止めた。
なぁに?と、途中でやめてしまった事を責めるように濡れた瞳で睨み上げてくる女をよそに、のっそりと立ち上がって窓際に近付く。
「…ケンカか?」
鎧板越しに窓の外を覗けば、階下の街路に赤い果実が散乱していた。
背中に大剣を背負って仁王立ちするがたいのいい男と背中に大きな籠を背負って腰を抜かした背の低い男が人だかりの中で衆目を集めていた。
後者の人物に背負われている籠の中には、道路に散らばっているのと同じ赤い実が入っている。
人垣がこの事件の当事者であるらしい二人を取り囲んでいた。
窓を開けてその下を覗き込みそれらの様子を観察し始めた男に痺れを切らした女は、男に倣って顔を出す。下で対峙している二人の男のやり取りが彼らの耳にも聞こえてきた。
「きさまあ、よくも俺の一張羅を汚してくれたなっ!!」
「す、すみません、旦那。人ごみの中で押し合い圧し合いされて、勢いあまってぶつかってしまったしだいでして、決して悪気があった訳じゃ……」
小男の方が、どうやら剣士らしい男に粗相をしてしまったらしい。息巻く男の服の袖には赤い染みがべったりと付着していた。
「お詫びに私が丹精込めて育てたケチャの実を差し上げます。今年は特に熟れておいしいんですよ。私の自慢の子供達です」
籠を背負った四十がらみの男はにこにこ笑って、ケチャと呼ばれた掌大の赤い実を籠の中から一つ差し出した。
試しに食べてみろ、ということだろう。見るからに田舎者の人の好さそうなこのおじさんは、外地からアレスに出稼ぎに来ている農夫に違いない。この時期、人の集まるアレスでは地方の領地から自分の作った作物を売りに来る。大会期間が市日となって毎年広場には大きな市が立った。
だが愛想のいい男の謝罪は、相手の神経を逆なでにしただけだったらしい。
「この百姓風情がっ!! 俺を馬鹿にしているのかっ!!?」
ぐちゃっという音がして次の瞬間には頭をケチャ色に染めたおじさんは、何をされたのか分からず唖然とするしかない。
怒れる男は差し出された実を投げつけてから、相手の胸倉をつかみ上げた。苦しそうに足をばたつかせるケチャ売りを馬鹿にしたように睨めつけて、そのまま矮躯をケチャの散らばる地面に叩きつけようとする。が、それを見ていた一人の男が慌てたように止めに入った。
「旦那、旦那! そのくらいにしてください。見たところ他国の剣士さんのようだが、武闘大会に参加しに来たクチでしょう? この国のもんはお気楽者ばかりなんですよ。特に地方の人間なんかは諍いなんかとはとんと無縁な人種でして。彼らは自分の育てた作物の出来がよければ概ね幸せで、それをおいしいと言って食べてくれる人間がいれば概ね満足なんです。決して旦那を馬鹿にしようとした訳じゃありません。勘弁してやってください。旦那にぶつかったのだって決してわざとじゃない。不可抗力ってやつですよ」
「ボイルのおやっさんだわ」
二階から顔を出して先ほどから事の成り行きを見守っていた女は、剣士の前に立ち塞がった大男を見て驚いたようにそう呟いた。隣にいた男は片眉を上げて訊き返す。
「知り合いか?」
「やあねぇ、ここの主人よ。覚えてないの?」
「あいにくと、いかつい男の顔を覚える趣味はないんでね」
その言葉に女は呆れたように溜息をつくと、窓の外を見下ろした。あれだけの大男ならば普通は記憶に残っていてもよさそうなものなのだが。
「なんだ、お前は」
大剣男はまるで物のようにつかんでいた男を地面に落とすと、今度はボイルのおやっさんに食って掛かる。自分より大きな相手に向かっても怯むどころか、その胸倉を引き寄せた。だが、そんな緊迫した空気の中で大男のボイルは呆れたような声を上げた。
「そう、かっかしなさんなよ。短気な人だなあ」
その言い方が鼻についたのか、男は一瞬で逆上したらしい。顔面に向かって飛んできた拳を避けることも防ぐこともかなわず、ボイルは後ろへ派手に倒れる羽目になった。図体のでかいおやっさんが倒れるだけで辺りは大惨事だ。簡易に作られていた露店は軒並み倒れて崩れ落ちる。
「うわぁあああああ!!」
「きゃぁあああああ!!」
人の悲鳴でいっそう辺りは騒然となった。
「おやっさん!!」
だふ屋のダリが、慌てたように殴り飛ばされたおやっさんの許に駆け寄り、元凶の男に向かって大声で怒鳴った。
「何てことしやがんだ、てめぇっ!!」
「頭にきたんなら、お前がおやっさんの敵討ちでもするか? そんなひょろひょろした体じゃあ肩慣らしにもならんだろうがな」
ダリはその言葉に憤慨しながらも詰まらざるをえなかった。相手は大男のおやっさんを吹っ飛ばした男だ。ただでさえ体重の軽い自分が腕力でかなうはずがない。
「向かってくる度胸もないか。とんだ腑抜けだ」
「なっ、なんだとおっ!!」
だが、生来気の短い彼はほとんど考えなしに飛び出した。
「…っつ……、よせっ!!」
ボイルはとっさに制止の声を放ったが、ダリの耳には届かない。
「――安い挑発に乗りやがって、あのバカ……」
身を起こそうとしたが、足に力が入らなかった。顎にヒットしたのだろう。脳震盪でしばらくは起き上がれそうにない。
倒れたままの視界には、街路の両脇を埋める建物の上からこちらを見下ろす悠々とした青が映った。地面に背中をへばりつかせた状態から見上げる空の色は、皮肉にもこちらを突き放すような蒼天だ。雲ひとつない。
――ああ、空が青い
現実逃避しかけた思考は意味もなくそんな今更な感想を思い起こさせる。だが、ふと、その空から声が降ってくるのに気付いて、ボイルは視線をさまよわせた。自分の店の二階の窓から身を乗り出すようにしている男女の姿を捉える。
「ちょっとあなた、見てないで助けてきてよ」
「俺が? 冗談よせよ、あんな大剣しょってる奴相手に」
「でも、いい体してるじゃないっ!!」
そう言って女は男の太い腕を思いきりつねった。昨夜、彼女の体を組み敷いた力強い腕だ。
軽々と彼女の体を抱き上げて易々とベッドの中に閉じ込めてしまった。その力強さとは反対に男の愛撫は繊細かつ絶妙。長く太い指が紡ぎだす魔法に翻弄され、何度男の下で意識を飛ばしてしまったか分からない。そしてその後の、前戯とは対照的な激しく雄々しい……
だが、そんな昨夜の甘い情事に頬を染めてついうっとりとしてしまった乙女の回想は予想外に軽薄な声にぶち壊された。
「そりゃお前、自分より腕の細い男に抱かれたいと思う女がいると思う?」
「…何よ、それじゃあ、とんだ見かけ倒しってこと?」
「見かけは大事よ? 貧相で弱そうな男に女は寄ってこないだろ。例え内実が伴っていないところでそれを判断することなんて容易にできんし、ベッドの中で戦う男なら女はそれだけで満足する」
うんうんと真剣に頷きながら、臆面もなくそう言い放った男の頬を強烈な平手が襲った。思わず、見ていたボイルも顔を歪める。あれは痛い。
「いってぇ――……」
「最低ねっ!! それでも男なのっ!?」
「何だよぉ、昨日は抱き合って一緒に寝た仲じゃないか、さっきだってあんなに熱く……」
「……あんたみたいなフニャチン野郎に抱かれたなんてねぇ、一生の不覚だわよっ!!!」
「ふ、フニャチン!!? 『すごい立派だわ』って褒めてたくせにっ!!」
傍で聞いていた二人の会話に呆れ返ったボイルは女に向かって声を張り上げた。
「なんて痴話喧嘩してるんだ!! シャルルっ!」
「!」
はっ、として、胸の前をシーツで隠しながら――情事の痕の色濃い艶かしい肌を覆いきることはできなかったが――、女、シャルルは身を乗り出した。
「おやっさん、大丈夫!?」
そんなシャルルに顔をしかめてみせてから、その横で不満そうに片頬を押さえている男の顔にボイルは視線を走らせた。
――たしかあの男は……
「……おいっ、あんたっ!!」
おや、という顔をして、俺のことか? と自身を指差す男にボイルは頷く。
「そう、あんただ、あんた! 俺からも頼むからあの馬鹿を止めてくれないか!? あんたも武闘大会に参加しに来たクチだろう!?」
「おいおい、吹かすなよ。何でそんなことが分かるんだ」
「帯剣してた」
ぽつりと、しかしはっきりとボイルは言った。聞き捨てならないというように睥睨するシャルルの横で男は迷惑そうに顔をしかめる。
ボイルの店には毎年、大会に出場しに来た男達がひっきりなしに出たり入ったりする。この時期になると都門近くの彼の店は武器を携えた輩でごった返すのが常なのだ。
ボイルはシャルルと一緒にいる男もそんな中の一人だろうと見当をつけていた。確かに男の腰には一振りの剣があったし、この時期に帯剣して彼の店を訪れる者は十中八九、大会参加者と決まっていた。
だがしかし、窓の桟に肘を付き、頬をその掌で支えながら首を傾けて男は宣った。
「そりゃあ、この街じゃあ、剣を持ってた方が何かと注目されるだろう? アレスの騎士様は女に大人気だからな」
鼻の下を伸ばしてにやけ面でそう言い切った男に、今度こそシャルルとボイルは言葉を失った。
マダリアは大地の豊かさと同時に、騎士の国としても名高い国だ。
豊かな土地を多く有するがゆえに侵略の危機にさらされることもまた多く、その環境こそがこの地に屈強な戦士を作り上げたといっても過言ではない。それが現在のサンカレラ騎士団の濫觴とされている。初代マダリア国王もまた民に愛された武人であり、騎士に対する民の尊崇の念は古来より深い。
人々はアストラハンの守護者としての戦士をアストラリアと呼び、騎士業は一種の聖職とまでされていた。自国の守護者が愚弄されたと感じたら怒り、勲功を得たと聞いた時は身内のことのように喜ぶ。男の子は騎士になることを当然のように夢見て、女の子も当たり前のように彼らとの甘い空想に心をときめかせた。
特にここ王都アレスではそれらの傾向が著しい。決して簡単に騙っていい代物ではないのだ。女の気を引くために騎士を詐称するような言動をとるなど言語道断、この街に生きる民にとって最大級の侮辱だった。
「このっ、役立たずの倒錯野郎っ!! あんたみたいなのは男なんてやめちまえっ!!」
自国の騎士を愚弄されたも同然の発言に激怒したシャルルは男の背中を勢いよく押した。
「――え?」
世界が急に反転した不思議に、男は目を見開く。
その漆瞳と、不幸なことに目が合ってしまったおやっさんもまた、ただでさえ大きな目をさらに大きく見開いた。
「うっ……、うわあああああああっ――!!!」
男二人の絶叫が見事な協和音となって辺りに響き渡った。
二階の窓からボイル目がけて男が落ちてきたのだ。
「――――……ってぇ!! なに、するん、だっ!!! ……シャルルっ!!!」
最初に怒鳴ったのはおやっさんだった。さすがの彼もこれには黙っていられない。男のクッションになったその衝撃は筆舌に尽くしがたかった。
「危ねぇなっ!! 殺す気かよっ!!」
次にそう怒鳴ったのは、ボイルのおかげで潰れたヒキガエルのような間抜けな姿をさらさずに済んだ男だ。
自分の上で怒鳴り散らしているその男をボイルは涙のにじむ血走った目で睨んだ。落っこちてきた男は決して小柄ではなかったのだ。
「あ、いや、すまん。……そんなに睨むなよ、俺のせいじゃないだろっ」
と謝りつつ、こいつが下にいてくれてよかったと内心ほっとする。が、もちろん口には出さない。
「それにしても、下ははいといてよかったぜ。危うく往来で見世物になるところだった。まぁ、俺の一物はどこに出しても恥ずかしくない逸物ではあるがな」
そうにやりと不敵に笑った男はファスナーを上げてズボンの乱れを整えた。
最低だ。どうやら全然懲りていないらしい。だが、その前半の言葉には、おやっさんも全くの同感だった。全裸の男が自分目がけて落っこちてくるなんて想像もしたくない。吐き気をもよおす悪夢である。
髪をかき上げて立ち上がった半裸の男は、浅黒い肌の引き締まった体をしていた。
黒い革のズボンに包まれた長い脚と筋肉を纏った逞しい上半身。上背は高く、裸足で地面に足をつけた姿からは野生じみた剽悍な気配まで伝わってくる。
ぽきぽきと音を鳴らしながら首の座りを確かめ、肩をほぐすように回すと、あちらこちらから女の溜息のようなものが聞こえきて、男は軽くウインクを返した。――あの体は女を釣るためのものなのか、とボイルは盛大に顔をしかめた。
そこへ、大剣を背負った騒動の元凶が立ちはだかる。
「何だ? お前は」
落下してきた男は、うっ、と後退すると、やっとのことで立ち上がったボイルの陰に隠れた。
「……お前な」
心底呆れ果てたようなボイルの声に半裸男は言う。
「……だって、あいつあんなでっけー剣持ってんだぜ。こっちはパンツ一丁も同然だ。どうやって立ち向かえって言うんだよ。……まぁ、心配すんな。おっさんの体は凶器とまではいかずとも、盾には十分そうだ」
「……」
この行動には女性陣は幻滅だったが、男は一向に気にしない。
「何ごちゃごちゃ言ってやがる!!」
すっかり存在を忘れられていた男は苛立たしげに怒鳴った。
「……いったい、どう落とし前をつけてくれるんだ?」
睨む相手にボイルは尋ねる。
「それより、ダリをどうした」
「あの小僧ならあっちで伸びてるさ」
男の示す方を見やれば、最初にからまれていたおじさんが慌てたように倒れたダリを介抱していた。
顔をしかめたボイルが男に何か言おうとしたその時、それを遮って甲高い女の声が耳をつんざいた。
「ちょっと、あんた! いい加減にしなさいよ!!」
着替えを済ませたシャルルがボイルの店から飛び出てきたのだ。気風のいい女のはり声に周囲は目を丸くする。
「どこの誰かは知らないけどね、余所者が人様の街で勝手に暴れるんじゃないわよっ! 他国から来たっていうんならそれなりに礼儀があるでしょっ!? ここはあんたの国じゃないのよ!!」
「ばか、よせっ! お前まで…」
ボイルの制止にシャルルはキッ、と背後を振り返った。彼の後ろに隠れている、さっきまで自分と一緒にベッドの中にいた男を認めると、取り殺しそうな勢いで睨みつけた。
「男のくせに情けないったらありゃしない! 本当に金玉ついてんの!?」
「……知ってるくせに」
ぼそっと呟かれた声にはボイルもキッと後ろを振り返った。
「……俺を睨むより、あっちを止めたほうがいいんじゃないかな?」
シャルルは腕を組み、仁王立ちで男の前に立っている。その姿に大剣男はニヤニヤと笑った。
「なんだぁ、姉ちゃん、ずいぶん威勢がいいなぁ」
「あたしはあんたなんてちっとも怖くないわ! 自分より明らかに弱い相手をつかまえて! 器の小さい証拠でしょう!!」
だが、この啖呵には顔色を変えた。
「んだとぉ、この女」
背から大剣を抜いた男に、周囲の者達は色を失う。
場は凍りついた。
顔を強張らせたシャルルを見て、男は愉快そうに口角を上げた。
だが――、
「……おいおい、本当に器の小せえ野郎だな」
皆が皆息を呑んでいた中で、その音は誰の耳にもはっきりと届いた。冷たい空気に少しも臆することなく発せられたそれは、相手の神経を逆なでせずにはおけないような軽薄さを伴っている。
大剣男は顔を真っ赤にして、ボイルの後ろに隠れている男を見据えた。
「……ふん、お前は女の陰に隠れてる最低野郎だろっ!!」
怒りの赴くままに振り上げられた剣の先は――、予想に反してシャルルに絞られていた。
舌打ちを漏らし、ボイルの影から男は飛び出した。
自分に向かって振り上げられた刃に、シャルルは逃げることも出来ずただ目を見開く。
――斬られる
そう思った時だった。
淫蕩【いんとう】…みだらな享楽にふけるさま。
矮躯【わいく】…たけの低いからだ。
睥睨【へいげい】…横目で見ること。流し目に見ること。
濫觴【らんしょう】…物の始まり。物事の起源。おこり。もと。
漆瞳【しつどう】…黒い瞳。
一物【いちもつ】…男根の隠語。
逸物【いちもつ】…群をぬいてすぐれているもの。
剽悍【ひょうかん】…すばやくて強いこと。荒々しく強いこと。