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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第二章 死者の残影
23/87

01 舞台裏での悲喜劇

 気持ちのいい早朝だった。

 白みかけた空は茫漠(ぼうばく)とした(ふところ)から一条の光の梯子(はしご)を投げかけていた。

 朝靄の中で反射する光の粒が、空中できらきらと輝き、静かに朝の訪れを告げている。

 未だ太陽の熱は地上にまで届ききらない。

 それでも大地に根を広げる青草達は、今日一日の天与(てんよ)を期待させるには十分な空の色に、満足げにあくびを漏らした。


 サジャンは大きく息を吸い込んだ。

 朝の冷気が肺を満たす。

 日課である早朝鍛錬を終えたばかりの(ほて)った体には、冷たい空気が心地よい。

 額から伝い落ちた汗がわずかな曙光(しょこう)に反射してきらりと光り、思春期特有の細面(ほそおもて)が風を受け若々しく輝いた。実に爽やかな光景だった。

「よし、今日も一日忠勤を励むか」

 次第に光度を増して色彩を帯びていく空に向かって、サジャンは微笑を浮かべた。




「あれ、副隊長? ……なにやってるんですか?」

 部屋に戻って着替える前に用を足そうと足を向けた先で、サジャンは己の上司を見つけて足を止めた。

 しゃがみこんだ背中にかけられた声に、ドリスは首だけひねって、背後にいる人物を睥睨(へいげい)する。

「……見て、分からないか」

 じっとりとした視線に突き上げられ、サジャンはごくりと唾を呑んだ。

 (たくま)しい背中越しに(うかが)える、ゴム手袋に覆われた手は、どうやらこびりついた水垢を落とすのに余念がないらしく、休む様子がない。

「あの、いや…トイレ掃除……?」

 顔を戻して、黙々と便器磨きを続けながらドリスは言った。

「清掃中につき使用禁止」

「えっ、あの、第一鍛練場脇も使用禁止になっていたんですが……」

 何故己の上司がこんなところで便器を磨いているのか――、という疑問を必死に避けて、サジャンは言った。

 最初に足を向けた場所は何故か『使用禁止』の立て札と共にロープまで張って封鎖されていたのだ。だが、次の言葉に全てを察したサジャンは眩暈を覚え、両手で顔を覆った。

「あそこはさっき終わったばかりだからな」

「……」

「未来永劫使用禁止」

 こうなったら全トイレを封鎖してやると陰気に笑った姿は精神病患者のそれだった。

 目も当てられず、両手で顔を隠したままサジャンの首は自然とうなだれる。先程までの爽快感がたちまちの内にどんよりと曇っていくのが分かって、危うく出かけた長嘆息を呑み込んだ。

 〝全トイレ〟ということは、〝兵舎のある敷地内全ての〟ということだろう。それを全部一人でやるとしたら、結構な肉体労働だ。いや、体力的な消耗より精神的な消耗の方が激しいかもしれない。誰が好き好んで男子便所の清掃をするというのだろう。少なくとも、聖騎士のやる仕事ではない。

 間違いない。

 サジャンは思った。

 今回の騒動に対する処罰として、副隊長は敷地内の便所掃除をシナモン隊長から命じられたのだろう、と。

 なんとも地味で地道な、いやだからこそドリスにとっては極刑と言えたが――、そうなったら自ずと彼が次に取りそうな行動は決まってくる。

 即ち、

 ――『親衛隊副隊長様自ら、精魂こめて磨き上げた便器をよもや汚すわけにはいかねぇよなぁ』

 と、いうことである。

 嫌がらせ確実の八つ当たりだった。本気で全トイレを占領してしまいかねない。だが。

「あの、自分はそろそろ限界なんですが……」

 情けない声音でそう言うと、ドリスの目が怪しく光った。

「いくら?」

「ご、五百?」

 何が要求されているのかを瞬時に理解してしまっている自分にほろ苦いものを感じながらも、強張った顔で恐る恐るそう言ったサジャンに、ドリスは首を振った。

「ゼロ一個足りない」

「ご、五千!?」

 無言で頷くと、それ以上はびた一文まけてやらんとばかりに、ドリスは顔を戻して今度は手馴れた様子でホース片手にブラッシングを始めた。

 トイレ一回で五千ダルとはぼったくりもいいところだ。

 横暴なことこの上なかったが、この上司に面と向かって文句を言ったところですげなく返されるのが分かっていたので、サジャン少年は深い深い溜息をつくと、切迫した尿意に促されて、しぶしぶ財布の紐を緩めたのだった。




 ところで、とドリスはサジャンを見た。

 年若いサジャンは律儀に五千ダルを上官に払って用を済ませた後だった。

 ドリスは今、煙草を片手に小休止を取っている。

「ジュリアの奴どの時点で感づきやがったんだ? 俺の目算では昨日は一日取調べのはずだったんだけど」

「……本人に(うかが)っていないんですか?」

「恐ろしくて訊けるか」

「……」

 その判断は正しいのだろう。

 サジャン当人も、ジュリアがドリスの企みを知ることになった現場に居合わせた時、「副隊長は隊長に殺される」、そう思ったのだから。

 回想するとこうだ。


†††


 ジューク――その正体はドリスだったが――とサントが御前試合の為に城に招待されていた頃、〝大男におまかせ〟店内ではこんな会話がなされていた。

「今頃ジューク達、王様に会ってるかなぁ」

「そうだなぁ」

 カウンターに座って頬杖をついているダリに、グラスを磨きながらボイルが応じた。

 店内にはちらほらと客の姿があったが、皆ボイルの作った特大特盛りの料理を平らげようと必死になっている。

 この店では原則、食事を残すことは許されていない。食べ残した場合余分に支払いを求められるのだが、料理好きな店主の出す作品はどれもなかなかのもので、その量からしてみればかなりの安上がりということもあり文句を言う客はいなかった。

 腹をすかせた客が満腹になるために来る店だ、というのがボイルの主張である。

 そんなんでやっていけるのかと思われがちだが、本来この店は夜間のバーが本業なので、夜になればそれなりの儲けが出ていた。料理は店の主人であるボイルの趣味によるところが大きい。

 求める客には宿も提供するが、これは商売と言うよりも善意からきている。もちろん、その分の代金はきっちりと領収しているが、専門の宿屋より格段に安い。

 そんな良心的な店主の人柄ゆえか、馴染みが多く、店の経営が逼迫(ひっぱく)することはなかった。むしろ繁盛(はんじょう)していると言っても差し支えないだろう。採算が合わないのではないかという心配は今のところ無用のようである。

「なぁ、ジューク達が騎士になったらどうする?」

 果実水を飲みながらダリはシャルルを見たが、シャルルはどこか上の空で掃除用のモップを握り締めたままただ立っている。

「シャルル?」

「えっ、あっ、何? おかわり?」

「なに、ぼーっとしてんだよ。ジュークのことでも考えてたのか?」

「何で、私があんなやつのこと考えなきゃいけないのよ」

「じゃあ、何考えてたんだか言ってみろよ」

 赤くなって睨んでくる姉貴分をダリは尻目使いで見やる。ニヤニヤしながらこちらを窺うその視線にシャルルは顔をしかめた。

「私を助けてくれた人のことを考えてたの!」

「なんだ、またそれかよ。終わりよければ全てよしって言ったじゃん」

「だって、不思議じゃない。何で私が捕まってるって分かったんだろう、とか。お礼だって言いたいし。それに変なことも言ってたわ……」

「変なこと?」

 ボイルが口を挟んだ。

「その人、私の知り合いの知り合いなんですって。共通の知人を持った間接的な知り合いだって。なんだかおかしいでしょ? 彼の言ってた、私の知っている人って誰なのかしら。ジューク達に訊いても心当たりはないって言うし……」

 もちろんそれはジューク、もといドリスの虚言であったが、そんなことをシャルルは知る(よし)もない。

「なぁ、それってどんな奴だったんだよ」

「どんなって、普通の人よ。アンタと同じくらいの年の。目尻の下がった善良そうな一般市民って感じの……」


「――それって、僕のことでしょうか」


 カランカランという鐘の音と共にいきなり会話に入ってきた声に、三人は驚いて店の入り口を振り返った。

「あ、あなた……」

「よかった。無事だったんですね。ちゃんと逃げられたか心配だったんです。ドリスさんは大丈夫だと言っておられたけれど……」

 店の入り口に、青いマントを身に付けた若者が立っていた。

 シャルルの言ったとおり、少し垂れ目の一見軟弱そうな少年だ。

「実は少し伺いたいことがあってお邪魔したんですが、よろしいでしょうか」

「え、ええ、どうぞどうぞ。汚い店だけど。私もあなたに訊きたいことがあったの。お礼も言いたかったし。あなたが私を助けてくれたのよね?」

 汚い店、と言われてボイルは顔をしかめたが、頓着することなくシャルルは空席に少年を案内しようとする。

「ええ、まぁ。僕一人じゃありませんでしたけど……」

 それを聞いて、やっぱり、とシャルルは思った。

「どうぞ。とりあえず座ってくださいな。何かご馳走するわ」

 にっこり笑ってシャルルがそう言うと、垂れ目の少年、サジャンは手を上げてそれを制した。

「あ、どうそ、おかまいなく。お話を聞いたらすぐ帰りますから。ちょっと待ってください。もう一人いるんです」

 そう言って、サジャンは店の外に向かって、隊長、と呼びかけた。

(隊長?)

 疑問に思ったシャルルだが、純朴そうな少年に呼ばれて入ってきた背の高い男が、かぶっていたフードを脱いだ時、彼女は言葉を失って立ち(すく)んだ。

「あなたが、助けられたという女性ですか?」

 そう真摯(しんし)な瞳で尋ねてきたのは、男であるボイルやダリでさえ目を(みは)るほどの美青年だった。

 太陽の光を受けた髪に、空を映した瞳。

 絵本の中から抜け出てきた王子様かと思うほどその典型だったが、ありきたりな描写どおりのその容姿が実在するとなれば、その存在は最早ありきたりとは言えないだろう。

「大丈夫ですか?」

 固まってしまったシャルルの顔を心配そうに(のぞ)いてくる男に、彼女は顔を真っ赤にして頭を縦に振った。

「あの、失礼ですが、あなたは一体……」

 幾分落ち着きを取り戻した年長者のボイルがおずおずと尋ねると、場違いな王子様は生真面目に頭を下げた。

「失礼しました。いきなり訪ねてきておいて無作法でしたね。私はジュリア=シナモン。こちらは部下のサジャン=アルモントと言います。王宮からの使者(つかい)で来ました」

 サジャンが後方に控えながら礼儀正しく頭を下げるのを呆然と見つめていたボイル達三人は、〝王宮の使者〟の言葉に、思考のついていかない頭を勢いよく膝にくっつけた。

 こんな下町にどう考えても上流に属するだろう、目の前のような男が降りてくることなどめったにあることだとは思われない。

 同じ王都内といっても、ボイルの店のあるそこは旧市街とされ、王城のあるそことではかけ離れたものがあった。寂れたとまではいかないが、少し道を間違えれば風体(ふうてい)の怪しい店も少なくない界隈(かいわい)である。狭くて雑多な道も多く、城下の整備された街路とは比べるまでもない。このような場所にジュリアのような男が来れば、目立ってしょうがなかっただろう。

 案の定、店の中にいた数人の客達は、口の中に詰め込んだ肉やら野菜やらを咀嚼(そしゃく)することも忘れて、ナイフとフォークを両手に持ったまま目を丸くして突如やってきた来客者を見つめている。頬いっぱいに木の実を溜め込んだリスが集団で食中りを起こして硬直している姿を髣髴(ほうふつ)とさせる風情だった。

 平凡な少年の上司は、少しも平凡ではなかった。

 まずその容姿からして突出している。洗練された物腰、丁寧な言葉遣い、優美な立ち回り、どこぞの王子様だと言われても誰も疑問に思わなかったにちがいない。

 こんなきれいな男性がこの世に存在するなんて到底信じられない、ジュークとはまるで対極だ、と、的を射すぎている感想がシャルルの頭の中にフッと浮かび上がって消えた。

 「お名前をお尋ねしてもよろしいでしょうか?」丁寧にそう訊かれ、シャルルは震える声で自分の名を名乗った。ジュリアはそれにありがとうございます、と礼を言ってから、続ける。

「実はお尋ねしたいことがあるのですが」

「は、はい! なんでしょう!」

 声が裏返ってしまっていた。

 ここにきてダリもそろそろと緊張を解くと、落ち着けよ、とそっとシャルルを励ましてみたのだが、そんな彼の優しさはあまり効果がなかった。

 「あまり、緊張なさらないで下さい」そう慰めるように優しく微笑まれてしまえば、もう何も考えられない。

「ドリスのことについて少し訊きたいことがあるんですが……」

「ど、ドリス?」

 いきなり美貌の青年が訪ねてきたかと思えば、聞き覚えのない字面(じづら)を聞かされ、訳が分からなくなったシャルルは頭が真っ白になった。

 見かねたダリは助け舟を出す。(シャルルを助けるためと言うより、己の好奇心を満たすためだったが)彼は物怖じせずに尋ねた。

「その前にさ、シャルルと、そっちのサジャンさんでしたっけ? の共通の知人って誰のこと?」

「ドリス=サラミアです。ご存知でしょう?」

 ダリが首を傾げて伺うように振り返ると、シャルルはこれ以上ないという程勢いよく首を振った。

「知らないみたいですけど?」

 ダリの言葉に、今度はジュリアがサジャンを振り返る。

「そんなはずはありませんよ。自分は副隊長に彼女を助けるよう頼まれたんです」

「わ、私、ドリスなんて人知りません!」

 思わず叫んだものの、顔を戻して己の瞳を直視してきたジュリアに、シャルルの心臓は激しく震えた。じっとりと服が肌に張り付くのを感じながら、無言の視線に彼女は耐える。

「どうやら、本当に知らないようだ」

「そんなはずは……」

 反論しようとする部下の声を、手を上げて制し、ジュリアは目を逸らさず、おもむろに口を開いた。

「――すみません、シャルルさん。これから少し答えづらい質問をしますが、よろしいですか?」

「は、はい! お役に立てるなら」

 寸秒も逸らされない視線の強さに、顔に熱がたまっていくのを感じながら、何とかシャルルは答えたが。

「単刀直入にお伺いします。この一月(ひとつき)の間にベッドを共にした男性はいらっしゃいますか?」

 全く躊躇を見せず、しかもあまりに丁寧な物言いだったので、最初何を訊かれているのか分からなかった。

 だが、無言で質問の答えを待ち続けている瞳の強さに聞き返すこともためらわれ、何度も反芻(はんすう)し意味を把握した途端、――シャルルはもちろん、ボイルもダリも、後ろに控えていたサジャンでさえ固まった。

「た、隊長……」

 いくらなんでも不躾(ぶしつけ)すぎるのではと諫言(かんげん)したくなったが、上司の横顔に言葉は口内へと消えていく。ジュリアは何か確信が欲しくて急いでいるようだ。

「答えてください。真剣な話なんです」

 冗談を挟みこめる余地が欠片も見当たらない真摯な瞳に問いかけられ、シャルルは混乱の極地に至った。

 そこに少しでも卑しい色があったなら、その美しい頬を張ることだってできたかもしれない。けれども、青い瞳は一瞬たりとも揺らがず、怖いくらいに真剣だった。

 シャルルは体中の血液が顔に上ってしまったかのような錯覚を覚え、あわあわと口を開閉し、ついに耐えられなくて真っ赤な顔を伏せた。辛うじて頷いたものの、いっそ死んでしまいたい心境だった。

「その男性の名前は?」

「……ジューク」

 顔をうつむけたまま消え入りそうな声で呟くと、シャルルはふらりと体を傾けた。

 とっさにジュリアの手がその腰を捉える。

「大丈夫ですか?」

 己の体を支える確かな感触に、驚いたような整った顔がすぐ目の前にあり、シャルルはそのまま意識を手放した。

 慌てたボイルがジュリアの腕からシャルルを預かる。びっくりするほど熱を持った頬を軽く叩いてみたが、どうやら完全に気を失ってしまったらしい。

 呆れたダリがやれやれと首を振って、心配げにシャルルを見やるジュリアの興味を元に戻す。

「ジュークがどうかしたの?」

「その人のこと、知っている?」

 頷くダリに、申し訳ないがシャルルはボイルに任せることにして、ジュリアはダリに向き直った。

「彼の特徴や性格なんかは……」

「女たらしの、色男だよ」

 その一言に、はっとしてサジャンはジュリアを見た。

 これ以上とないほど的確にドリスの特徴を言い当てた。

 心なしか険しくなった上司の目に、サジャンは肝を冷やした。

「だらしない黒髪に浅黒い肌で、口の達者な?」

「それそれ。何だ、知ってるじゃん」

「彼が今どこにいるかは知っているかな」

「それは今頃王城にいるさ! なんてたって、御前試合に召喚されたんだからね。女にだらしないけど、剣の腕は確かだよ」

「……今、何て?」

 ジュリアの異変にダリは気がつかなかった。

「なんだ、知らなかったの? 昨日、武闘大会で優勝した黒衣の二人組みの片割れだよ。自分が御前試合に招待されるのに賭けて、万馬券獲得しやがった。今年の賭けはアイツの一人勝ちだったってもっぱらの噂さ」

 若干悔しそうにダリは言った。

 それを最後まで聞かぬうちに、ジュリアは無言で(きびす)を返す。

「シ、シナモン隊長!?」

 部下の制止も聞かず、外に(つな)いであった馬に飛び乗ると、猛然と城に向かって疾走し始めた。

 (まろ)ぶように店を飛び出てジュリアを追ったサジャンは、狭い街路をものすごい勢いで遠ざかっていく後姿に、顔を真っ青にして呟いた。

「何をやっているんだ、あの人は……」

 もちろん、あの人とはドリスのことである。

 彼がすれ違いざまに見た上司の瞳には、冷たい青い光が凝結していた。

「あ、あの、俺、何か気に障ること言いました?」

 慌てて店の外に出てきたダリも顔を青くしている。ボイルは、シャルルを抱えたまま唖然としていた。

「すみません、そうじゃないんです。あなた方の言っていた〝ジューク〟という人と、僕達が探していた〝ドリス〟という人は、同一人物だったようです」

「え?」

「どうりで見かけないと思ったら、武闘大会に出場してたのか……」

 しかも名誉職の色が濃い王の私兵である聖騎士が、金を賭けてである。

 サジャンはまずいな、と冷や汗を流した。下手すりゃ殺されるぞ、ドリスさん。

「あ、あの、それって、ジュークが、貴方の言っていたシャルルとの共通の知人ということですか」

「…本当はドリスと言うんですけど」

「偽名?」

「…そうなりますね」

「あの、つかぬ事を伺いますが貴方とさっきの人、それからジュ、じゃなかった、ドリス…さんて一体……」

「すいません。このことはできれば内密にしてもらえませんか? 僕も城に戻らなくては……」

 ボイルの疑問に答えることをせず、既に見えなくなった上司の馬影をサジャンも馬で追う。


 呆然と、後塵(こうじん)の向こうに消えていく馬の尾を見送りながらが、ボイルは呟いた。

「隊長とか、部下とか……言ってたよな」

「……王宮の使者っていうのは……」

「……」

 二人は沈黙した。

「……なぁ、〝ジューク〟と〝ドリス〟が同一人物ならさ……」

 ダリは言ったがその後が出てこない。

 ボイルがぽつりと漏らした。

「……副隊長って言ってたな、確か……」

「……」

 二人は再度同時に黙り込む。

 あるひとつの可能性が先ほどから脳裏を行ったり来たりしているのだが、それを口に出す勇気は彼らには無かった。

 シャルルに金的を蹴り上げられて悶絶する男の姿が目に浮かぶ。

「いやいやいや、ないないない」

 示し合わせたかのように手を振って二人一斉にそう言ったが、その顔は誰が見ても引き()っていた。シャルルが意識を失くしていて良かった、と二人が心底そう思ったのは想像に難くない。

 目を閉じながらも頬を染めて薄く微笑む女の顔を見て、このことは一切口外するまい、そしてこの記憶は脳内から抹殺してしまおう――、とその日男二人は無言で互いの目を見詰め合って心に誓い合ったのだった。


†††


「これじゃあ、もうあそこには行けねぇなぁ」

 一部始終を聞いてドリスは溜息をついた。

 それを見て溜息つきたいのはこっちだとサジャンは思ったが、口には出さなかった。

 どう考えても自業自得だ。百パーセント、ドリスが悪い。

 まあ、彼のおかげで捕らえる事ができた人間もいるが。このトイレ掃除の刑にも多少同情はするが。それでも自分が五千ダルもかつあげされて良しと思えるほど、彼はお人好しでも馬鹿でもなかった。

 どうせこの人は他の団員にもこうやって(たか)るに決まっているのだ。

 転んでもただでは起きない男、それがドリス=サラミアである。

 隊長に密告してやろうかと思ったら、

「サジャン、自分がかわいかったら器用に生きるすべを覚えろよ」

 にこやかな顔で脅され、サジャンは力なく笑ってそれを断念した。

茫漠【ぼうばく】…広くて、とりとめのないさま。また、ぼうっとしてはきりしないさま。

天与【てんよ】…天の与えるもの。天の与え。

曙光【しょこう】…夜明けの光。

忠勤【ちゅうきん】…忠義を尽くして勤めること。忠実に勤めること。

後塵【こうじん】…人や馬車の走ったあとにたつちり。

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