19 天命の行方
観衆は息を呑み込んだ。
王が全身全霊で振り下ろした刃の下。
一ミリと離れずサントの顔がある。
まるで、国王に敬意を払うかのように、黒衣の従者が右手に持った剣を地に付け片膝を付いて頤を上げていた。
二人の影は静止したまま動かない。
しんと辺りが静まり返った。
勝負あった、王の勝ちだ、そういう歓声が上がりかけたその時、王の口から静かな声が落ちた。
「……どういうつもりだ?」
「?」
周囲の者達はその言葉に首を傾げる。
その中でジュリアが呟いた。
「……わざと、か?」
「……どういう意味です?」
側に居たダヤンの質問に、ドリスが代わりに答えた。
「……今のはわざとよけなかったんじゃないかってことだ」
「……そんなことがありえるか……?」
「でも、お前も見てただろ?」
「……」
ジュリアは押し黙る。
二人の上官の間で交わされる会話にダヤンはついてゆけずに口を挟んだ。
「あの、見たって、何を……」
「……王の剣が振り下ろされる瞬間、彼は瞬き一つしなかった」
ジュリアは言った。ドリスは付け足す。
「……しかも、予測できる衝撃に体を硬くする様子も見えなかった。こんなのは誰もがとっさに取る自己防衛の本能による習性だろう? 戦っている最中なんだから尚更だ。にもかかわらずそれさえしなかったてことは、意識的によけようとしなかったとしか考えられない。自分に向かって振り下ろされる刃を目の前に、な」
その言葉にぎょっとしたように、ダヤンは視線を転じる。
王と、王の持つ剣、そしてその前で跪く黒衣の姿が目に映る。
サントはじっと動かずに、目の前を覆い尽くす刃の光沢だけを、怯えることも、安堵する様子もなく、ただひたすらに見つめていた。
「まさか」
どんな人間でも自分に向かって振り下ろされようとしている凶器を目の前に、全くの無防備でいられるとは思えない。あんな近くで止まっている刃物に対して、顔を背けることも、腕でかばうこともせず、平然とその眼力だけで受け止めるなんて……。
それだけの反応をする余裕がなかったのならまだしも、二人の上司の話によるとそういう訳でもないらしい。とすると、本当にサントは剣撃を回避しようとしなかったということになる。
〝動けなかった〟ではなく〝動かなかった〟ということだ。
振り下ろされる王の厳しい剣筋をその直前まで平然と見上げていた。
しかも、騎士大国マダリアでも最強とされる国王の本気の剣なのである。
王が剣を止めるなどという保証はどこにもなかった。下手をすればそのまま顔面に鋭い刃が切り込んでいたはずだ。
ダヤンはそこまで考えてぞっとした。
自分には絶対真似できない。
†††
王は口を開いた。
刃と顔を付き合わせたまま微動だにせず、その光だけを一心に瞳に映している相手に尋ねる。
「……死ぬつもりか?」
サントは動かなかったが、おもむろに口を開いた。
「……いえ。でもこれで貴方にも、貴方の忠実な臣の皆様にも、分かっていただけたかと……」
「何をだ」
そして次の言葉に王は瞠目した。
「私があなたを狙う刺客ではない、ということをです」
そう言った表情は平淡で何の変化も見られなかった。
「……それを証明するために、わざわざ自分の命を懸けたと言うのか?」
サントは何も答えない。王はさらに言い募る。
「奇跡に近い。私は振り切るつもりだった。お前は身をかわすのはかなわず、剣で受け止めると確信していた。あと少し気がつくのが遅かったら、お前は私に斬り殺されていたのだぞ。私自身でさえ止められたことに驚いているというのに」
相手がユリウスでなかったら、サントは確実に死んでいただろう。
本気で打ち込んだ一閃だった。最初から寸止めするつもりだったならともかく、直前で完全に勢いを殺すなど人間業とは言いがたい。凡人なら剣の勢いを途中で止めることなどかなわず、最後まで振り下ろしてしまっている。
信じられない膂力と瞬時の判断力、恐るべき王の力量と言えた。
「……命を〝懸けた〟のではなく〝賭けた〟のです」
王は怪訝そうに眉根を寄せる。
「言ったでしょう、天を相手に賭けをすると……。私が今生きているということは、私の勝ちです。これで晴れて私はあなたと話をする権利を得た」
慎重に剣を引くと、心底呆れてユリウスは言った。
「己の命を対価として差し出したというのか? とんだ博打だ。なぜそこまで己を試す。命まで賭す必要が?」
「ええ、そうです。少なくとも私にとっては……」
サントは続ける。
「……私はあなたと見えるべきか否かを確定する絶対の根拠が欲しかった。だから、その判定を天に任せた。
私が御前試合に召喚されなかったら、召喚されたとしてもザナス将軍に勝利できなかったら、無事勝利を収めたとしても貴方が〝諾〟と答えなかったら、貴方が応じたとしてもその剣を止め切れなかったなら……私が貴方にこの顔を明かす機会は、永遠に訪れなかったでしょう。ここまで段階を踏むことが私には必要だったのです。私個人の意思だけでは決めかねた。他者や天の意思にゆだねる必要があった。貴方の本気の剣の前で、生き残ることができるかどうか、もし、貴方が私を殺さずに生かしたのなら、その時こそ、天が私に貴方との対面を許可してくれたと信じようと……、だからこのような無礼を働きました。数々の礼を失した暴言、お許しください」
サントはそのまま頭を下げた。
「……死んだらどうするつもりだったんだ」
低い声が尋ねる。
「それで終わりです。縁がなかったということでしょう」
めちゃくちゃだ、とユリウスは思った。
「……幼い頃より夢見てきたという言葉は嘘か?」
「いいえ、それは本当です。……だから正直死ぬとは思っていませんでした」
「?」
「貴方の技量を信じていたということです。きっと貴方ならこれぐらいやってのけるだろうと……」
「もういい。分かった」
それには何の根拠もないだろう、とはあえて言わずに王は話を切り上げる。
そんなことは言った本人が一番分かっているはずだ。根拠が無いからこそ、正真正銘、運を天に任せた一か八かの〝大博打〟なのだ。まさに己の命を天運に任せ、天を相手に賭けをした。恐ろしいことである。
呆れたような溜息をついてから、ユリウスはサントに手を差し出した。
サントはその美しく鮮やかな目を見開く。
「危うく人一人殺めるところだったのだぞ、まったく。間に合ってよかった」
サントは恐縮して地面に頭をつけてそれに答えた。
「もったいないお言葉です」
王は苦笑する。
「次の満月の晩、お待ちしているよ」
叩頭する耳元にそっとささやいた。
それからは大騒ぎだった。
まず、王の手を借りて立ち上がったサント達に一番に駆け寄ったバルトークは、国王に跪いて敬意を表し、「見事な戦いでした」と一言告げると、いきなりサントの体を担ぎ上げた。
それと同時に先程まで場を支配していた緊張感が弾け跳び、王の不可解な呼びかけによって一度弾ける機会を逸したそれは、待ってましたとばかりに爆発した。
王に賞賛の声を上げる者多数。
中にはあまりの感動に感涙している者までいた。
王の剣を見たことのなかった年少者達は熱狂的なまでの尊敬の眼差しをその顔に浮かべている。これで騎士団内部に王の厚い信奉者倶楽部ができることが確定した。
バルトークは国王に失礼を告げると、サントを自分の肩に担ぎ上げたまま野郎共たむろす人垣の中に入っていく。そして突然彼の体を大きく中空に放り投げた。
いわゆる胴上げである。
歓声とともに皆が寄って集ってそれに参加したために、サントは彼らのなすがまま、長蛇の列になった男達の上空を移動して鍛練場の周りを一周するはめになった。礼節を尊ぶ騎士にあるまじき、市井の群集のような振る舞いだったが、それはそれ、土民出身のザナスの性格を色濃く宿してしまったのだからしょうがない。
曰く、抑えるときは抑え、弾けるときは思いっきり弾けよ、とのことである。
それだけ直前までの二人の戦いは賞賛に値したということだろう。記憶に残る名戦と言えた。見ている側まで疲れさせてしまったほどに。
文官に身を置く者達はよほどの緊張感を強いられたのか、皆一様に疲れた体を弛緩させていた。普段から体を鍛えている騎士団員の者達とは違って、深い疲労は隠せない。彼らはさすがに胴上げには加わらず呆れ顔で溜息をついていたが、顔を見合わせて苦笑するだけで嫌な顔をする者はいなかった。彼らとしても、その前の戦いは興奮するものだったのだ。今は隣の者と熱く語り合っている。
いや、若干一命、大老大臣のパジェスが面白くなさそうにそっぽを向いていた。
これが彼の最大の譲歩だったのだろう。
目にしてしまえば、愚痴や叱責を飛ばさずにいられなくなる。それでも彼が我慢しているのは、王がそういった振る舞いを容認して、いや、推奨してさえいるからだ。
彼らが主は存外に陽気なお祭り騒ぎが好きだった。
時に変装までして城下に下り、民に交じってあちこち放浪するような御仁である。ばれたりしたら、思慮分別を弁えた叡智ある賢王の顔が台無しだ、と、毎回そのような行いを他の家臣にばれないよう必死になって工作している自分の身にもなって欲しいものだと常々パジェスは思っていた。その度、貴族である不良息子の素行を心配する口うるさい老執事のような気分になって、彼は人知れず落ち込んでいたりする。
自分は一国の大臣であるはずだ。何故、良家の坊ちゃんの放蕩に日々頭を悩まされている、躾係のような気分にならねばならぬのか。
それをついうっかり主にこぼしてしまった時、当の本人は腹を抱えて大笑いした。
断じて、笑い事ではない。だが、
『お前のような小言を言うものがいるから、お忍びもやりがいがある。愛ある小言は大歓迎だ。――励んでくれ、じい』
などと嬉しそうにほざかれてしまえば、怒りを通り越して呆れが礼に来たことに脱力してしまうよりしょうがない。しかもその後、あの奥深い眼差しで、
『私はお前のそういうところを買っているのだ。主の勘気を恐れず忠言してくれる存在は貴重だからな』
などと必殺の殺し文句まで言われてしまえば、どんな反論もする気が失せてしまったのだ。
結局いつも最終的には主の意向には逆らえない自分を自覚するたび、パジェスのストレスはたまる一方だ。今回の手合わせもまた然り。
そんなことを考えながら、今日は一体どんな小言を披露してやろうか、と、嬉しそうに胴上げに参加している一団を眺めている主に近づいていった。
愛ある小言は大歓迎だというのなら、存分の愛を込めて、王の尊厳の何たるかを、語らせてもらおうではないか。このくらいのストスレ発散は日々自分が受けているものに比べれば可愛いものに違いない。
ユリウスはそんな気配を察したのか、背後を振り返る。そして、パジェスのそのこの上なく渋い顔を見て苦笑しながら、みなまで言われてしまう前に先手を打った。
「パジェス、小言なら後でいくらでも聞く。だが、その前にあの者を私の客人として城に迎えたいのだが」
あれだけ一国の王に対して無礼な真似を働いた者を招きたいと言う。
王の御前で勝負を挑むなど、ある意味度胸があるとはいえるが、素性の全く知れない輩なのだ。
「……それはご命令でしょうか。私個人としては賛成しかねますが」
「いや。これはただの私のわがままだ。だから命令じゃない。〝お願い〟だよ」
眉を下げながら爽やかに笑ってそう言った主に、そしてそれをきっと断れないだろう自分に、本気で退職を考えたほうが良いかもしれないとパジェスは思った。
「まったく、お前には驚かされる」
やっとのことで男達から開放されたサントの背後に近付いてそう言ったのはドリスだった。
サントは振り返る。
黒髪の色男と金髪の美青年が肩を並べて立っていた。
「王に害なす者でないと分かっていただけましたか」
サントの言葉にドリスとジュリアは顔を見合わせた。
証明してもいい、と言ったサントの言葉をドリスは思い出した。
「……なるほど。それでわざとよけなかったのか。敵意のないことを証明するために、――命がけで」
ドリスの言葉に隣にいたジュリアは瞠目した。
あの時、王が剣を止め切れるかどうかはサントにも、誰にも分からなかったはずだ。王自身でさえ、そう告白している。下手したら本当に死んでいた。わざとよけないなど、そんな危険を、王の殺害をもくろむ者が冒すはずはなかった。
サントは正体も得体も知れない自分が信用を得るために自分の命を賭けたのだ。
己の命を危険にさらすことで王に対する誠意を見せた。
大勢の前で害意のないことを証明するために、命懸けの賭けをした。並みの度胸ではない。
「天晴れだが無茶苦茶な賭けだ。とんだバカがいたもんだな」
ドリスは呆れてそう言ったがその顔は笑っている。
「……サント様」
サントはその声につられて、金髪の青年を見上げた。
「陛下が貴方を賓客としてこの城に招くよう申されました。つきましては、当城に御滞在願います。荷物が城下にあるようでしたら取りに行かせますが?」
サントはその端整な青年の顔をじっと見つめた。
努めて冷静を装っている無表情の中で、目だけは彼の警戒心を伝えていた。
「自身の主に素性の知れぬ輩を近づけたいと思う臣はいないでしょう。貴方の危惧は正当だ」
ジュリアはそう言い放った黒衣の人物を見た。
率直なものいいだ。
その変わった色の目も真っ直ぐに彼のブルーの瞳を射抜いている。
嘘がない。
確かにジュリアもそう感じた。
「……私は陛下の命に背くことはありません。貴方が御自分で我を曲者と言うのなら、私は陛下の命に背かぬ範囲で貴方に目を光らせておくことにいたしましょう」
「……王はいい臣をお持ちだ。うらやましいことです」
最後のほうはなぜか自嘲するように右目を伏せる。
「……御言葉有り難く」
「着の身着のままでこれという荷物はないので、ご足労には及ばぬとは思うが、王の御言葉に甘えることにいたしましょう」
サントの言葉にジュリアは分かりましたと一言答えて一揖した。
「どうだ?」
「何がだ」
「何がって、陛下のお客様だよ。お前はどう思う?」
「……」
ジュリアは考え込むように押し黙った。その顔をドリスは煙草をふかしながら、横目で見守っていた。
人気のない回廊。
夜空の月が、円柱に寄りかかるように立つ二人の姿を映し出していた。
遠くで城下の灯りが燃えている。
夜風が吹いて、二人の頬を優しくなでていった。
ジュリアは思い出していた。
人を嘲笑うかのような身のこなしに、見るからに怪しい黒衣の様相と顔を隠す覆面。
それでいて、率直で丁寧な言葉遣いとその態度、公衆の面前で王に勝負を挑むその度胸。
そして、人を惹きつけて離さない不思議な瞳と、真っ直ぐに人の心まで射抜いてしまいそうな、その視線。
それがサントに対するジュリアの印象の全てだ。
極悪非道の人間とは感じない。むしろ、その衒いのない率直さには好感さえ覚えられるかもしれない。
事実、王の彼に対する好感度は悪くないようだ。
だが、だからといって気を許す訳にはいかなかった。主が心を許していたとしたら尚更だ。
サントの素性が分からないということは事実であり、それは警戒するには十分な理由だった。
分かっているのは、その名と、目の色、そして只者でないということぐらい。たとえ、王に対して害意がないと分かったとしても、信用を置いてしまうのはためらわれる。
目的の分からない人間はそれだけで危険だ。警戒しなくてはならない。
ジュリアはそこまで考えて、そっと口を開いた。
「……正直言ってまだよく分からん。ただ……」
「ただ?」
「ただ、陛下が彼を気に入るのは、……分かる気がする」
ぽつりと呟かれたそれに、ふーんと言ってドリスは笑う。
「やっぱ、お前もそう思った?」
ニヤニヤ笑うドリスをジュリアは見た。
「何だ?」
「陛下があいつを気に入っちゃった、ってところさ。ジェラシー?」
ジュリアは顔をしかめてドリスを見てから、おもむろに口を開いた。
「……そう言えば、私はまだお前から今回の行動に対して何の弁明も聞いていないな」
ドリスは藪蛇だったと顔を強張らせる。
「弁明って……」
「まさか、一発殴れらたくらいで許されたなんて思っていないよな」
「あ、あれでチャラだって言ったじゃねぇか」
「『この場はこれで収めてやろう』と言ったんだ。陛下の御前でお前を長々と責め苛む訳にもいかないだろう」
「……」
不意にその顔から表情を消してジュリアは言った。
「今回、俺がどれだけお前一人のために走り回されたと思っている」
急激に気配が冷たくなった。
ドリスは背に嫌な汗がにじみ出したのを感じながら、取り落としそうになった煙草を一度深く吸い込んで吐き出す。努めてそれとなく返した。
「……娼館に行ったって?」
「ああ」
「……そりゃあ、いろいろな情報が仕入れられただろうな」
「そうだな」
「き、気に入った女はいなかったのか?」
「……」
眉根を寄せてジュリアは忌々しげに溜息をついた。畳み掛けるようにドリスは続ける。
「まさか、娼館行って話だけ聞いて帰ってきたなんてことはないだろ?」
「話だけ聞いて帰ってきた」
「……ただで話を聞かせてくれたって言うのか?」
「快く話してくれたが? お前が私をうるさい小舅呼ばわりしているところまでな」
ジュリアは女子供には無条件で優しい男だ。
どんな女性でも区別することなく紳士的に対応する。そんな扱いを受けたことのなかった女達なら、その美しい顔に優しく話しかけられただけで何でもしゃべってしまうことだろう。
「……一人も、指一本たりとも、触れなかったて?」
「ああ」
信じられないというようにドリス大げさに頭を振った。
「……それじゃあ、ますます誤解を招くばっかじゃねぇか」
「……なんのことだ?」
今度はジュリアが怪訝そうに尋ね、ドリスはそっと溜息を一つ落とした。
「単刀直入に聞くけど、お前、どっかおかしいの? 娼館行って何もしないで帰ってくるなんて健全な男子とは言えないぜ?」
「お前が節操なさすぎなんだ」
憮然と答えたジュリアにドリスは首を振る。
「いーや、違うね。お前が潔癖すぎなんだよ。お前がそんなんだから俺まで迷惑する」
「だから、さっきから何を言っている」
「俺がお前を一人で独占してるから、自分達が相手にされないんだと。この前なんか『貴方なんて女の人がたくさんいるくせに、ジュリア様にまで手をださないでっ!!』って、おまえのファンにわめかれたんだからな」
「それは……」
「ようするに、一部の御婦人方の間で、俺たちがデキているという恐ろしい噂がそれはそれはまことしやかに語られているらしい」
ジュリアは満遍なく女に優しかったが、特別に親しくするような特定の個人はいなかった。自分から時間を作って女性に会いに行くようなことも、ない。
この容姿で不思議なほど異性の影がなかった。あるとすれば、王国の娘であるリリアくらいであるが、それさえもたかが知れていた。
二人がただならぬ関係なのではないかと彼女達が邪推するのも、彼らの関係やそのルックスを考えれば無理からぬことと言えたかもしれない。
幼い頃からの腐れ縁で繋がっている二人は、女の入り込めないものを感じさせる時が確かにあった。だが、それはあくまで男同士の友情から来るものであると当人たちは豪語して憚らないだろう。 ドリスからしてみれば、そんなことで女に責められるのは心底心外だった。彼がダヤンにこぼしていた、〝いらぬ嫌疑〟とはこのことである。
「私にそんな趣味はない!!」
ジュリアはこれ以上ないというほどに深いしわを眉間に寄せて吐き捨てた。彼はこの手の話題が一番嫌いなのだ。
「んなこと、言われなくても分かってる。気に入らないのが、どうやら俺がお前を唆していることになってるらしいところなんだが……」
ドリスはジュリアの男にしては繊細なその容貌の中身が男以外の何者でもないということを誰よりも知っていた。
だが、女に対して無条件に優しい相棒のそんな一面を女性陣が知るはずもなく、皆騙されているのだと彼は思っている。そういう意味では自分と大差ないとドリスは思っていたが、そんなことを言おうものなら目の前の相棒がどんな恐ろしい行動に出るか、なんとなく想像できるので決して口にしてはいけないことだと自身を戒めていたりする。
とにかく、どんなに美しい容姿だろうと、自分と同じモノを股にぶら下げている人種など生理的に受け付けない。絶対にお断りだ。
「誤解を解かねば」
思案気に言う相棒にドリスは言った。
「ばーか。一人一人言って聞かせる気か? 止めとけよ」
「だが…」
「だから手っ取り早く気に入った女を一人作ればいいだろうが。そうすりゃ、少なくとも俺に見当外れな言いがかりをしに来る女はいなくなるからな。なんなら姫様でもいいんだぜ? 王女なら文句を言う女はいないだろうよ」
ジュリアはしかつめらしく顔をしかめた。
「ドリス! お前の発言は不敬に過ぎるぞ! リリア様は仕えるべき人間だ。ありえない。無礼な発言はよせ」
「お前、それ本人の前で言うなよ」
心底リリアに同情しながら、ドリスは続ける。
「そんな顔して、昔からお前はそういうとこ頑固なんだよな」
「顔は関係ない」
「はいはい。んじゃ、早いとこ、俺は女好きの正常者だって皆に告知してやってくれ」
ドリスは内心話を逸らすことに成功してホッとしながら、うまそうに煙草を吸い始めた。
一方、しばらくはドリスの言ったことを反芻して真剣に考え込んでいたジュリアだったが、ふと自分がうまくのせらてしまったことに気付き、苦々しげに眉間にしわを刻んだ。
改めて話を戻そうとしても隣の男はきっと、
『なんだ、間違いは早いとこ訂正しといたほうがいいんじゃないのか? こんなところで俺にかまってる暇は無いだろう。俺も多大な迷惑を被っているんだからな。何ならいい女、俺が紹介してやるぞ。どんなのがいいんだ?』
とかなんとか言って取り合おうとはしないだろう。
相手は自分がこの手の話題を好まないことを熟知している。それに、まんまとドリスの策にはまってしまったと気がついた今、慌てて話を戻すのも業腹だ。きっとそこまで計算に入っているに違いない。主導権はいまやドリスが握っている。
だが、このまま引き下がるのはとてつもなく癪だったので、ジュリアは新たな話題をドリスに振ることにした。
「そういえば」
「ん?」
気の抜けた返事を気の抜けた顔で返すドリスは、すでに安心しきっているようだ。
「なんと言った?」
「……?」
何のことだと、と片眉を上げて見せたドリスに、振り返ったジュリアが笑顔を見せる。
ドリスは顔を引き攣らせた。
「陛下のことを、だ」
分かってるだろ?
青い目がそう言っていた。
〝おっさん〟
その一言を指しているのだと不幸にもとっさに気がついてしまったドリスは苦しそうに軽く咳払いをすると、
「あー、俺ちょっと小便」
みなまで言われてしまう前に、すたこらさっさと逃げようとした。
その背中にあえて追及はせずに、ジュリアは声をかける。
「明日は四時起きだ。お前にはやってもらう仕事が腐るほどあるからな。逃げたりしたら今度こそ地獄の果てまででも追いかけて、陛下の御前で……」
「……陛下の御前で?」
振り返ったドリスはジュリアの顔を見てごくりと息を呑み込んだ。
「――そのだらしない頭を髪の毛一本残らず剃り上げて、軍紀違反者更生収容所の禁欲生活の中で、一からその腐った根性を叩きなおしてやる」
その夜ドリスは、両手に剃刀を持ったジュリアに延々と追い掛け回される悪夢で、安らかに眠ることができなかった。
第一章 黒衣の訪問者 完
頤【おとがい】…下あご。
膂力【りょりょく】…筋肉の力。腕力。
放蕩【ほうとう】…ほしいままに振舞うこと。特に、酒色にふけって品行が修まらないこと。
呆れが礼にくる【あきれがれいにくる】…ひどく呆れかえるようす。
勘気【かんき】…主君や父からのとがめ。
一揖【いちゆう】…ちょっとおじぎをすること。
衒い【てらい】…見せびらかすこと。ひけらかすこと。誇示すること。
業腹【ごうはら】…非常に腹の立つこと。怒りにたえないこと。しゃくにさわること。いまいましいこと。