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BLOODY CHAIN Ⅰ  作者:
第一章 黒衣の訪問者
2/87

01 王と騎士と姫

 マダリア王国。

 ピネレー山脈裾野(すその)から広がるその国は、〝アストラハン〟と古くから呼び慣わされてきた肥沃な大地に抱かれた、恵み豊かな国だ。

 養分を多く含んだ土壌は連なる山脈の一峰に(たん)を発する大河の恵みによるもので、遠い昔、雨季がくるたびに氾濫を繰り返してきたその川は、人々の脅威であると同時に豊かな土壌を運んできてくれる確かな恩恵でもあった。気候は一年を通じて温暖で雨季があり、植物はよく育つ。

 人口の大半を農耕に従事する民が占め、その人柄も気さくで朗らかな性質の者が多かった。

 彼らは大地の恵みを讃え、日々の(かて)に感謝と祈りを捧げる。マダリアに国教は存在しなかったが、アストラハンの大地に対する人々の畏愛を(もと)にした自然崇拝が土俗信仰として浸透していた。

 『アストラハン無くして国は建たず』――、そんな格言が生まれるほど、この地で多くの国が栄えてきた。

 大地の豊かさが人を育て、原史時代の始まりを促し、文明を開化させ、国を創ったのだ。アストラハン創成期から数千年たったとされている今でも、人々の畏敬は変わらず大地の上に注がれている。

 そしてマダリアは今、往年アストラハンの上に君臨してきたどの国のどの統治者よりも正統であると(うた)われる王を(いただ)いていた。




 王都アレスでは、年に一度の武闘大会が行われようとしていた。

 国の主宰で行われる一種の祭典のようなもので、王都はこの時期、年で一番の活気と賑わいを見せる。毎年この大会のために腕に覚えのある者達が各地から集うのだ。国にとって重要な観光資源としての役割も担っており、アレスの武闘大会と言えば他国でも有名だった。

 またこの大会で見事な戦歴を挙げれば、子供達皆の憧れの的である王騎士になることも、夢ではない。職の無いごろつきや騎士を夢見る若者達にとってはうってつけの試験場であり、武を志す者の登竜門ともされていた。

 一方大会見物客達の間では、当然のように対戦の勝敗をめぐっての賭博が成立し、楽して小金を稼げるこのチャンスの到来を心待ちにしていた者も少なくなかった。

 そして、それがもとで不正を行われることのないようこの武闘大会を取り仕切り取り締まるのが、大陸屈指の機動性と統率力を誇ると言われる、マダリア王国の由緒正しきサンカレラ騎士団である。


 城下の騒ぎを宮城の回廊から見下ろしながら、一人の青年がこめかみを軽く押さえて溜息をついた。

「まったく、この忙しい時にどこに行ったんだ、あいつは……」

 太陽の髪に空の瞳。

 甘い顔立ちに、すらりと伸びた長身、にじみ出る気品と、どこをとっても〝お姫様を助ける王子様〟の典型なこの青年は、「宮廷の貴公子」と名高いマダリア王国聖騎士、ジュリア=シナモン少将だった。

 彼はもう幾度となく落としている溜息をまた一つ吐き出した。

 もうすぐ始まる年に一度の祭典だという時に、彼の補佐を務めるべき立場にいる人間が、断りもなく行方を眩ましたのだ。

 毎年この時期になると彼らの所属するサンカレラ騎士団は武闘大会の準備や審査に追われることになる。今年、ジュリアはその総責任者に任じられており、そしてそれを知った彼の相棒は彼が忙殺されている隙に姿を消したのだった。

(……昔からそうだった。めんどくさくなると、いつも私に押しつける)

 相棒であり、親友――いや、悪友と言ったほうが妥当であろうか――の過去数々の悪行を思い出して、ジュリアは眉間にしわを寄せ忌々しげに息を吐いた。側に彼の熱狂的な女性支持者がいたのなら、その哀愁漂う横顔に頬を染めて、彼とはまた違った意味での溜息を落としたことだろう。

 ジュリアは垂れていた頭をぐっと上げた。

 愚痴っていても何にもならない、時間の無駄だ。ただでさえ忙しいという時に、これ以上無駄足を踏んではいられない。それが相手の思う壺なのだということは理解していたが、怒りをこらえもと来た道へと足を戻す。その時だ。

「ジュリア様!!」

 明るく色のある高い声が彼の足を止めた。

 振り返ったジュリアの目に飛び込んできたのは、宮殿の花園に咲き誇る花もかくやと言わんばかりの可憐な少女の姿だ。淡い桃色のドレスの裾を、それこそ花びらがそよ風に揺れるようにふわりふわりとひらめかせながら軽やかに駆け寄ってくる。

 彼女を知る者達は皆、〝花のような〟と少女を形容する。朗らかに笑うその笑顔は周囲の鬱気(うっき)まで晴らし、拗ねたように怒った顔さえ愛らしい。喜怒哀楽豊かな表情は百花繚乱とばかりに咲き乱れ、観ている者を惑わせ惹きつける。

 マダリア王国に咲く、ただ一輪の解語の花。

 一人で百花を表現するとまで言われる華やかなその少女は、マダリア王国王女殿下、リリア姫だ。

 高貴な娘、しかも一国の王女とあっては、髪を振り乱して殿方に走り寄るなど言語道断、はしたないと言われても文句の言えない振る舞いだったが、息を切らして自分のもとへ駆け寄って来た目の前の少女をしかしジュリアははしたないとは思わなかった。彼は彼の仕える主の気性と、目の前の少女のそれとがよく似通っているということを知っていた。気さくで溌剌とした娘だ。一所(ひとところ)にじっとしているのもその性分ではないだろう。事実、王女は何かとお付の侍女から逃げ回っては彼女達を困らせている。

 ジュリアは自分の肩にも満たない胡桃色の髪の少女を見下ろして笑った。

「またドミニカ殿を困らせておいでなのですか、リリア様?」

 非難というより、親愛の情の方が強い。

 優しげな瞳に見下ろされてリリアは頬を染めた。

 彼女はこの見目麗しい目の前の青年に微笑まれると、いつも少しまごついてしまう自分を自覚していた。だからそれをごまかそうと、わざと拗ねたように口を尖らせて見せる。

「だって、街の様子を見に行きたいって言っても、『危ないから駄目です!!』の一点張りなんだもの。年に一度のお祭りでしょう? 少しぐらい羽目をはずしたっていいじゃないって、逃げ出してきちゃった」

 ジュリアは思わず苦笑を返した。

「そうおっしゃられないで下さい。皆、貴女の身を案じている者達ばかりなのですから」

「……ジュリア様も私の心配をしてくださるの?」

「当然です」

 内心ドキドキしながら上目遣いで尋ねたリリアに対して、どこまでも真剣な面持ちでジュリアは即答した。誠実そのものの眼差しで見つめ返してくる瞳の色にリリアは誇らしげに微笑む。国王に仕え、その守護を自らの職分とする彼にとって、その一人娘の身を案ずるのは至極当然なことだと言えたが、あえてその点には目を(つむ)る。

「じゃあ、今から街に下りるのに付き合ってくださらない!? ジュリア様が一緒ならドミニカ達だって文句を言わないと思うの!!」

 王騎士である彼は父王の護衛を務める親衛隊の隊長だった。秀麗な容姿もさることながら、その剣技にも目を(みは)るものがある。事実、リリアは彼の鮮やかな剣捌きとその男ぶりに一目で釘付けになってしまったのだ。そのジュリアが一緒だと言えば、あの口うるさい侍女頭のドミニカも文句は言うまい。それどころか、主の恋心を応援しようと二つ返事で了承の意を返してくれるかもしれない。お祭り見学もできるし、大好きな人とデートもできる。一石二鳥ではないか、と、リリアはジュリアとここで会えた幸運に感謝した。

 しかし当のジュリアは当惑を隠せないようだった。

「ですがリリア様、一国の王女であられる貴女を陛下に無断で軽々しく街にお連れする訳には……」

「平気よ、ほんの少しだけ。ばれなければ問題ないもの。お父様だって私ぐらいの時分にはしょっちゅう城を抜け出して城下まで遊びに行ったと言っていたわ。――それともジュリア様は、男はよくても女は駄目だ、なんて意地悪なこと言うの?」

「いえ、そうではありません。陛下の許可さえ下りるならいくらでもお供いたしましょう」

 ジュリアはこう言ったが、リリアは面白くなさそうに頬を膨らませた。父である国王の許可とは、つまりジュリアにとっては「娘の護衛をしろ」という主命に他ならない。〝王の命令〟という大義名分や〝王女の護衛〟という名目としてではなく、ジュリア自らの意思としてリリアは自分に付き合って欲しいのだ。だが、さすがの彼女でもそれをはっきりジュリアに告げるのは憚られる。

「こういうのは内緒で行くから面白いのでしょう? それに私だってもう十四です。外出するのにいちいちお父様の許可なんて必要ないわ!」

「ですがリリア様……、」

 その少女が一国の王女となれば話は全くの別問題だ。

 心底困りかけたジュリアの前に助け舟が現れたのはその時だった。

「――嫌なら嫌と、はっきり言っていいんだぞ」

 揶揄(やゆ)を潜ませた深みのある低音に、王女と騎士は慌てて振り返る。

「陛下!」「お父様!」

 臣と娘の驚いた声がほぼ同時に廊下に響いた。

 即座にジュリアはその場に片膝をつくと(こうべ)を垂れる。それを見て、マダリア王国の不動の地位を自ら築き上げた英傑の国王、ユリウス=シーザーは苦笑した。

「よいから立って(おもて)を上げよ。いちいちそんな事をせずとも私はお前の忠を疑ってはおらん」

 ジュリアは「ハッ」と短く答えてから立ち上がった。

 決して背の低いとは言えない彼よりもさらに背の高い、大きな男が目の前に立っていた。

 娘のそれよりも濃い、鳶色の髪と双眸。

 まばゆいほどに輝く黄金色の王冠、鮮やかに翻る真紅に染まった天鵞絨(ビロード)のマント、虹色を放つ七色の玉を散りばめた真鍮の宝杖――王の標識とも言えるそれら三種の姿はしかし、目の前の男のどこにも見受けられなかった。代わりとばかりに腰に提げられた一振りの剣は使い馴染んだ気配を漂わせるもので、華美というよりは瀟洒(しょうしゃ)な出立ちだ。生地自体は一般市民にはとても手の出せないような極上品なのであろうが、無駄な装飾の少ないその衣装は機能性重視を(うかが)わせ、豪奢といった観を寄せ付けない。実利を好む王の気性を如実に表していた。剣を()いた堂々とした丈姿(たけすがた)は、国王というより一国の将と言った方がよほど説得力があっただろう。だが、その一国の王にしては質素な身なりも、彼の威光を妨げるものではなかった。四十半ばの、壮年期も過ぎようかという(よわい)だったが、老いた印象はどこにもない。いかにも頼りがいのありそうな、筋骨逞しい偉丈夫の姿がそこにあった。

 マダリア王国国王、ユリウス=シーザー。

 二十八の年に即位して以来十八年間、一国を支え続けてきた英主である。

「いつからそこにいらっしゃったのですか?」

「ん? 私のかわいいお姫様が王子様のもとへ一心不乱に駆け寄って行った辺りから、かな」

 ジュリアの質問に笑って答えた父王に、リリアは目を剥き顔を真っ赤に染め上げた。

「最初から聞いていらしたのね!! ひどいわっ!!」

「そんなに怒らないでおくれ、お姫様。私としては姫に迫られた幸運な騎士が一体どう対応するか、興味深かったものだからついつい、な」

 「お人が悪い」とジュリアは呟き、「それは盗み聞きと言うのよっ、お父様っ!!」とリリアは背後から突如現れた父に詰め寄る。

「どうせなら最後まで隠れていて欲しかったわ!!」

 真っ赤になってそう言う娘の頬を、ユリウスはなでた。

 うっすらと目元に涙までにじませている彼女の額に、ごめんよと言って唇を寄せると、リリアはふくれっ面のままプイッと顔を逸らした。

「もういいです!!」

 そう言うとジュリアの方を恨めしげに一瞥(いちべつ)して走って逃げてしまう。

 ジュリアは一瞬追いかけて引き止めるべきなのかと迷ったが、主一人を置き去りにしていく訳にもいかず、離れていく少女に向かって伸ばされた右手が空しく宙をさまようだけだった。

「――どうやら可愛い娘に恥をかかせてくれたようだ」

 諧謔(かいぎゃく)を隠さないからかうような声音だったが、王の言葉にジュリアは素直に恐縮して頭を下げた。その形のよい後頭部を見て、ユリウスは苦笑まじりの溜息をつく。

 ――実のところ、彼が快くリリアの申し出を受けていたのなら、ユリウスとしても邪魔だてする気はさらさら無かった。己の近臣であるジュリアの人柄は熟知していたし、その彼が一緒なら娘に危害が及ぶようなことはないだろうということも分かっていた。だから、娘の愛しい王子様がもし〝(イエス)〟と応じていたのなら、知らぬ振りをしておいてやろうと思っていたのだ。ユーモアを解するこの王にとっては、何より、事後に二人をからかった方が面白いに決まっている。

 とはいうものの、娘の恋路を邪魔する趣味の無い鷹揚(おうよう)な王ではあったのだが、(こと)、臣下としての自己の立場に頭の固い生真面目な目の前の青年が、自分に無許可で娘を連れ出すとも、正直のところ、ユリウスには考えられなかったのだった。そして予想に反せず、眉目秀麗な好青年は答えに窮した。見るに見かねて舞台裏から登場した、という訳だ。

 娘当人ではなく娘の恋する憎いはずの男の方に助け舟を出す父親とは――と、己の配役にユリウスは一人苦笑したが。

「さて……」

 表情を引き締めて向き直った主の気配にジュリアも威儀を正して王を見る。

「少しいいか?」


 二人が向かったのは、王の住まう宮殿と王が出仕する宮廷との中間に位置する日当たりのいい庭園だった。

 花々の香りが辺りに漂い、日に照らされて緑の芝生がきらきら輝いている。どうやら、数分前に専属の庭師によって水がまかれたばかりらしい。

 真っ直ぐ射るような日差しの鋭さに、眼球を貫かれたような錯覚に陥り、ジュリアは腕を(かざ)してその空と同じ色の目を細めた。

 空中に張り出すように造られているその庭の際涯(さいがい)まで来て、ユリウスはジュリアを振り返る。

 そこからは王都の様子が一望できた。

 指先よりも小さな人々が細かく動き回っており、賑やかな街の喧騒の様子が窺える。その人の波でごった返す街道の向こうには円形の建造物が見えた。武闘大会の舞台となる闘技場である。

 武闘大会は基本的に出場自由とされていた。年齢も職業も問わない。武器の種類、その有無さえも問わなかった。

 そのせいなのか、毎年出場希望者はごまんとおり、当然全員があの円形闘技場で戦う事はできなかった。その中でも予選を勝ち抜いた者達だけが、四万人の観衆の中で手に汗握る死闘を繰り広げることができるのだ。

 今はその本戦出場者の選定の段階だった。いわば予選会である。

 サンカレラ騎士団はまず、人数を大幅に削減する為にこの予選会を執り行い、本戦出場者を厳選しなくてはいけない。これが結構に骨の折れる仕事で、この時期大会運営に当たった者達は鬼のように忙殺されること必定となっていた。そして、その予選会が明後日から始まる。

「準備の方はどうだ」

 何の話をされるのか、先程の王女に対する態度への叱責だろうかと思案していたジュリアは、幾分ほっとしたようにその問いに答えた。

「はい。今のところはつつがなく。今日で出場申請の締め切りです。明後日から選別に入りますが、例年に照らし合わせてみても今年は人数が多いようですし、久方ぶりの御前試合になるかもしれません」

「ほぉ、それは楽しみだな」

 不敵に笑ったその横顔に、ジュリアは眩しげに目を細める。だが、

「――それで、相棒の行方は?」

 次の言葉には完全に意表を()かれ、細めた目を見開いた。

「……ずいぶん前からあの場にいらしたと?」

 まぁな、と忍び笑う主に、この人にはかなわないとジュリアは胸の中で独りごちる。

「返す言葉もありません。私の監督不行き届きです。今日中に見つけ出して罰則を……」

「責めている訳ではない。大会管理などあやつにとっては煩わしいだけなのだろう。わがままの許されない小臣な訳でもなし、好きにさせておけ」

「しかし、それでは下の者に示しがつきません。上に立つ人間だからこそ、規矩準縄(きくじゅんじょう)が求められる。親衛隊副隊長ともあろう者が、軍規を乱した行為に走るなど言語道断です。あの者はすでに陛下に忠誠を誓った身の上、その陛下の信頼を裏切るなどあってはなりません!」

 憤りあらわなその怒声に、ユリウスは大きく笑い出した。ジュリアは驚いて主を見る。

「――いや、すまぬ。お前達ほど対照的な二人も珍しい、と改めて実感したまでだ。足して二で割れば理想的なのになあ」

 感慨深げに頷く主に、ジュリアは居心地悪そうに目を伏せた。

「ふ、まぁ、他のところできっちりこき使ってやるつもりだから心配するな。適材適所というやつだ。あいつは型にはまるタイプではないからな。――そんなことはお前の方が知っているだろう?」

「嫌というほど……」

 ジュリアは本気で嫌そうな顔をした。それを見て王はまた笑う。

「お前こそ、忠義に篤いのは結構だが生真面目すぎるのも考えものだぞ?

 ドリスを見習えとは言わぬ。だが、もう少し肩の力を抜く方法を覚えろ。私はお前をただの石頭だとは思っていないが、そういう一面があることもまた、否めない」

「……すみません」

 先程の王女への対応の事を言っているのだと悟ってジュリアは頭を下げる。王は苦笑してから、そっと息を吐いた。

「……アレの母が死んでからもう三年たつ」

 ぽつりと呟き、ユリウスは隣に咲くダフネラの葉にそっと触れた。甘やかな香りが鼻孔を突き、同時に胸をも突かれた思いで、ジュリアはつい頭を上げた。

 主の視線の先に咲く、白い花。

 その香りが今は亡き王妃の姿を甦らせた。慎ましやかで、美しく、目の前でひっそり咲く花と同様に清楚な女性だった。

 生来あまり丈夫な方ではなかったのか、王妃は今のリリアのように頻繁に廷臣の前に姿を現すことはなかった。ユリウス達家族がこの庭園で談笑している姿を遠目に見つける度、ジュリアは僥倖(ぎょうこう)に目を細めたものだ。

 目にすることさえ憚られてしまうような、幸福に彩られた家族の絵がそこにはあった。

 優しい父と母に囲まれて、幼い王女は本当に幸せそうだった。あの時、自分に気がついてそっと微笑を返してくれた王妃の優しげな眼差しを、ジュリアは忘れない。

 王妃が病に倒れたのはその数年後だった。

 今から(さかのぼ)ること四年前、リリアがようやく十歳になった頃だ。そしてその一年後には帰らぬ人となった王妃に、街中の民は喪に服し、幼い王女を哀れんだ。

 臨終の床で泣きじゃくる娘を前に、王妃の顔はとても安らかなものだったという。息を引き取る間際、苦痛に歪む表情を一切見せずに自分は幸せだったと微笑んだ。

 それを聞いた時、たおやかで繊細、どちらかといえば儚げな印象が先立つ王妃の、芯の強さを見た思いだった。

 享年三十九歳。娘の成長もまだまだこれからが楽しみという時に逝ってしまった。わずか十一歳の一人娘を置いてこの世を去ってしまうという現実に、どれほど彼女は(さいな)まれただろうか。そして……

 ジュリアは目の前に立つ主君の横顔をじっと見つめた。

 二十八の年に即位して以来、十数年を共にしてきた妻の死に、今、目の前の主はいったい何を思うのか。

 ジュリアには分からなかった。

「……私はいい夫ではなかった」

「そんなことはありません」

 一瞬の瞠目の後、即座にジュリアは王の言葉を否定した。

「私のような若輩者が無礼を承知で申し上げさせていただけるのであれば――、陛下の亡き王妃様に対する愛を疑う者などこの国にはおりません」

 事実彼は結婚して以来ただ一人の女性、リリアの母だけを愛しぬいている。

 国王ともなれば、側室や愛妾の存在も容認あるいは黙認されるのが世の習いだ。世継ぎを産む必要性を考えれば一人の妻だけでは足りないと、愛人が奨励されることも決して珍しいことではない。ただでさえ、体の弱い王妃を持つ国王にとっては、対岸の問題事ではなかったはずだ。

 だが、ユリウスはそう言って第二・第三夫人を持つようしきりに勧める大臣の言に耳を貸そうとはしなかった。自分の妻は一人で十分だ、と。

 国王が王妃を大事にして守ってきたというのは誰の目から見ても明らかだった。彼のその愛を嘘だと言う者は、この城にはいない。そして二人の愛の結晶がリリアだ。国王の子は現在彼女しかいなかった。王妃は子供を一人しか生まなかったのだ。

「――私はステラを愛していた。だが、それでも彼女に対する一己(いっこ)の深謝の念は決して消えることがない。本当に幸せだったのか、と、いつも惑う」

 王の言葉に、ジュリアは何も言えず口を閉じる。妻を(めと)ったことのない彼が、妻を亡くした主に言える言葉など一つもなかった。

「男と女のことなど、その当人達にしか分からんものだ。とやかく口を出して無粋な真似はしたくない。だが、私も人の親だ。早くに亡くなったステラの分まで、リリアには幸せになってもらいたい」

 ひたりと見据えてくる王の視線から目を逸らす術を、ジュリアは持たない。

「私はどうこうしろとは言わない。私に強制された答えをリリアは喜ばないだろう。だが、これだけは言っておくぞ」

 ジュリアはごくりと息を呑んだ。

「……女を真実幸せにできるのは、その者を同じく真実心底から愛している男だけだ」

 拳を作ってジュリアの胸を軽く押すと、

「覚えとけよ、色男」

 ユリウスはにやりと笑った。

 どう返していいか分からず曖昧に頷くのが精一杯の彼に笑って、すれ違いざまに肩を叩くと、そのまま行ってしまう。

 背中越しに右手をひらひらと振って去って行く主の後姿を、ジュリアは見送ることしかできなかった。






挿絵(By みてみん)

解語の花【かいごのはな】…人間の言葉を解する花の意。美人の称。

諧謔【かいぎゃく】…おどけ。しゃれ。滑稽。ユーモア。

際涯【さいがい】…はて。かぎり。きわ。

規矩準縄【きくじゅんじょう】…物事の基準となるもの。規則。手本。法則。のり。

僥倖【ぎょうこう】…思いがけない幸せ。偶然の幸運。

一己【いっこ】…自分ひとり。

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