15 種明かし
その場は驚愕で騒然となった。
目と目の間、鼻の真上の、ちょうど額の真ん中から、一筋の血がつーっと流れた。
顔をしかめて手の甲でそれを拭うと、両手を降参の形に挙げて、ジューク、否ドリスは言った。
「まぁまぁ、落ち着こうぜ、相棒」
ジュリアはピタリと剣を据えたまま、尚鋭い視線をドリスに送ってその言葉を黙殺した。
普段の柔らかい表情は完全に消え去っていた。というより、感情の一切が抜け落ちたような顔をしている。
あまりに激しすぎる感情は戦闘の際、邪魔になるだけだ。大きくなりすぎた怒りは、飽和状態からその臨界点を越えると、彼の中で一回爆発してしまう。これが俗に言う、〝ぶちギレる〟という現象であるのだが、そうすると、ジュリアの中で不思議なほどに怒りの熱が引いていく。穏やかになるという意味ではない。怒りで膨らんだ熱は爆発するとその反動で極寒の冷たさにまで達するのである。
氷点下の冷たい怒り。
今彼は、果てしない怒りに心を凍らせていた。
怒りに我を忘れるというのとはまた少し違った。彼は今常にないほど感情を抑制している。冷静を通り越して、冷酷なまでに。
それはもう、普段の彼とのギャップとあいまって底知れない恐怖を部下達に与えた。
〝普段穏やかな奴ほどキレると怖い〟という言葉を彼の部下は暗黙の了解で心得ている。
まずいな、完全にぶちギレてる、と引き攣った笑いをこらえてドリスは言った。
「……お前も大概嫌な性格してやがるぜ。何で分かった?」
「答える必要はない」
「……」
ドリスはジュリアの無表情をじっと見守った。
「……冗談だろ?」
喉元の刃に意識を集中して尋ねる。
だがジュリアは問答無用というばかりに、目を眇めただけだった。
親友同士でもある、親衛隊隊長副隊長の緊迫した空気に周囲は口を開くことができない。
息苦しかった。
空気が重い。
ダヤンなどは、顔を真っ青にして、今にも倒れそうな風情だ。
そんな中で、またもやこらえるような忍び笑いが沈黙を破った。
「……陛下、笑ってないで少しぐらい私の弁護をしてくれてもいいんじゃないんですか?」
「さてな。『金儲け』は私の与り知らぬところだが」
「……陛下はご存知だったのですか?」
ジュリアは少しも剣先を動かすことなく、目だけを主のほうに向けた。
「昨日、もしかしたらとはな。左を使っていなかったから最初は半信半疑だったが……。まぁ、とりあえず剣を納めろ、ジュリア」
ジュリアはその言葉に従順に剣を下ろした。
「潜入捜査というのもあながち嘘ではなかろう。少し気になる人物がいるとは、私にもにおわせていたからな」
王はそう言うともう一人の黒衣の人物にちらりと目をやってから続けた。
「……それに、不正行為を働いた者達を捕えたのだろう? ドリスの処分はお前に任せるが、まぁ、命だけは勘弁してやれ」
ジュリアは口ごたえすることなく、はっ、と返事を返したが、ドリスは心底嫌そうな顔をした。
「とりあえず戦利金は全額没収だ」
「ちょっ……」
その宣告に抗議の声を上げようとしたが、何か問題が?という視線で黙殺された。
『てめぇ、文句言える立場だと思ってんのか、コラ』
とブルーの瞳は雄弁に語っている。
「……何でもないですよ」
無言の圧力にしぶしぶそう言ったドリスに、よろしいと言って剣を納めジュリアはドリスに背を向けた。か、と思ったら彼は大きく体をひねっていた。
ほっ、と油断していたドリスは反応が遅れた。
振り向きざまの強烈な右フック。
横面に硬い拳が食い込んだ。
ばきっ、と派手な音を立てて大の男がぶっ飛ぶ。
ひぃぃぃぃぃ、という悲鳴は部下の心の中のもの。
ジュリアはドリスを渾身の力で殴り飛ばし、吹っ飛んだ彼を冷然と見下ろしていた。
「……ってぇ……」
ドリスは手で口を覆う。
だらだらと赤い血が溢れ出して顎を伝った。口の中が切れたらしい。歯は折れていない。ラッキーだった。歯の欠けた色男など格好がつかない。ドリスは自分の鼻がいつもどおりまっすぐくっついていることも確かめると、ほっと息をつく。とりあえず、色男の体面は今後も保てそうだ。
(真正面じゃなくてよかった……)
だがもちろん、そんな軟派男の心中をドリスは口には出さない。いたずらにジュリアを刺激して後の惨劇を味わいたくはなかった。そんなドリスの心中など露知らず、
「陛下のご温情をもって、この場はこれで収めてやろう」
そう言うとジュリアは王に向き直り、臣下の礼をとる。
「とんだ醜態をさらしましたこと、深くお詫び申し上げます」
「よい。笑わせてもらった」
そう言ってまた笑ったが、あの状況を笑い飛ばして面白がることのできる人物など彼しかいなかっただろう。
ユリウスはちらりと壁際に立つ次の挑戦者を見遣った。
「そろそろ次の対戦に移らないか? 報告は後で聞こう」
その言葉でどうやら仕事モードに入ったジュリアを尻目に、口を押さえてドリスは立ち上がる。
黒衣の相棒の元へ近付いて行った。
「テテ、あの野郎、おもっくそ力いっぱい殴りやがって」
慌てて横から校尉士の一人がハンカチを差し出した。
「お、悪いな」
離れて行くこっちを、横目で睨む十数年来の相棒には、中指を突き立てて応じておく。
「あなたは、いったい、何を、やってるんですかっ……!!」
後ろから追いかけてきて、小声でそう怒鳴ったのはダヤンだ。
「ああ、まったくだ。こんなはずじゃなかったんだがな。何であいつ急に戻ってきたんだ? ダヤン、お前ちゃんと俺の伝言、伝えたんだろうな」
「そうじゃないでしょっ!? あのまま隊長が来なかったら、俺はあなたにギッタギタにやられてた訳ですか!?」
耳元で怒鳴るダヤンに片手を振った。
「ちゃんと右で相手するつもりだったさ。お前までごちゃごちゃ言うなよ。しゃべると口が痛いんだ」
「自業自得ですっ! あの人の怖さを知ってて怒らすなんて正気の沙汰じゃない!! こっちは何年寿命が縮まったと思ってんですか。慰謝料払って欲しいくらいです! しかも全然反省してないじゃないですか!!」
「へぇ、へぇ、もうしねぇよ。いいからお前は持ち場に戻れ。次の対戦だ」
「……っ!! 今後一切、あなたのアリバイ工作には加担しませんからっ! 金も貸しません!!」
片手でひらひらと厄介払いをする上司の胸元に、拾った剣を乱暴に押し付けると、憤然と捨てゼリフを吐いてダヤンは去っていった。
それはちと困るな、とドリスは独りごちる。サントの横に肩を並べた。
「まったく、こんな変装までしたっていうのに」
そう言うと懐から煙草を一本取り出し口にくわえてから、黒衣の装いを解いた。ふーっと、おいしそうに紫煙を吹き出したかと思うと顔をしかめる。
「ってぇ、やっぱ、傷口に響くな」
その隣でフッとサントは笑った。
「優秀な家臣を王はお持ちのようだ」
おや、という風に片眉を上げてドリスは煙草を口から離す。
「……あんま驚いてねぇな」
「……ただの酔狂な男かとも思ったが、それにしては詳しすぎると感じていた。急事の対応にも冷静だった。彼女を助けたのも貴方が手を回したんだろう」
〝彼女〟が〝シャルル〟を指していることはドリスにも分かった。
「なんだよ、気づいてたって?」
シャルルの件に関しては、ドリスはやっぱりなと思った。サントなら勘付いていそうだと思っていたからだ。
だが、実は自分が王騎士であったという衝撃(であるはず)の事実に対するサントの反応はいささか薄すぎるだろう。感情をめったに表に出さないサントの驚く気配を少しは拝めるかと期待していたドリスは少々不満だった。
口を尖らせて眉をひそめた相手にサントは沈黙する。そしておもむろに口を開いた。
「――『“俺達を”嗅ぎ回っている奴がいるって話だ。役人気質の人間らしい』」
「?」
「そう言っただろう」
その言葉に、ドリスは記憶を探り、ああ、そういえばと、夜の路地裏で消えたサントを探していて見つけた時に自分が言った言葉だと思い出す。あの時『どこへ行っていたんだ』と訊いた自分に対して、『王に挨拶してきた』と、目の前の彼は答えたのだ。
「……『“俺を”嗅ぎ回っているのはあんただろう』と、あの時は言わなかったが」
それを聞いて、一瞬目を大きくしてから、ふっと唇を緩めたかと思うとドリスは溜息をついた。
「……なるほど。〝役人気質〟発言が墓穴だったと。やっぱ、ただの親切心としては受け取ってもらえなかったのな。あの時から気がついてたのか? だとしたら何で今まで言わなかった」
あの時のその発言がかえって疑われる結果になってしまっていたらしい。
ドリスはやれやれと煙草をふかす。
「確信があった訳じゃない。はっきりそうと疑ったのは大会決勝のあの件でだ。だが、貴方が何者であろうと俺には関係ない」
「あら、つれない」
「……礼を言うべきか?」
「礼?」
「王にほのめかしておいてくれたのだろう。どうりで挨拶に行った時すんなり人払いして会ってくれた訳だ」
ドリスは驚いて煙草を口から離す。
「マジで会いに行ってたってのか?」
「王妃はダフネラの花が好きだったと教えてくれただろう。芳しい香りが道案内してくれたよ」
その言葉を聞いて、そういえばそんなことも言ったかもしれないと、脱力したように壁におっかかると、ドリスはまた煙草を口に戻した。煙が一筋天井へと昇っていく。
少し喋りすぎてしまったんだな、とドリスは反省した。
サントと行動を共にしてから、相手の反応を探るためにも、サントがどれだけの情報を有しているかを知ろうと、彼は積極的に話を振った。もし刺客であるのなら、ある程度標的に対する情報を得ていてもおかしくない。だが、彼は本当に国王に関して詳しいことは何も知らないようだった。マダリアの民なら普通に知っているようなことでさえも。だから口を滑らしすぎたのだろう。王妃の好きだった花の名や、国王は好んで妻の好きだった花をその部屋に飾っているらしい、などということまで。
亡くなった王妃がダフネラが好きだったというのは王都では知らない者はいない。葬礼式の際には献花として選ばれ、民はその花を胸に抱きながら黙祷を捧げたのだから。
だが、今でも王の私室にはその花が飾られているらしい、というところまでいくと、実際に部屋を訪ねてそれを確認したらしいサントには、その情報の確かさと合わせて、ドリスの話す内容はいささかか詳しすぎではないかと不審に思われても仕方がない。
「……何か公平じゃないよな」
ぽつりとドリスは零した。
「俺はまだお前さんの正体を知らない」
「……必要か?」
「そりゃあね。どこだかの組織が送り込んだ殺し屋だなんていったら洒落にならんからな」
「俺と組んだのは俺を排除するためではなかったのか」
「面白そうだからと言ったろ? お前個人に興味があったんだよ。ジュリアを謀ってがっぽり金を儲けたら、遊興に耽ろうと思ってたんだが。まぁ、正体を探ろうとしたってのは嘘じゃないがな」
「……王に害をなすつもりなぞ端から無い。証明してもいいが、仮に俺が刺客だったとして、貴方方の主は簡単にやられるようなタマなのか?」
それを聞いて、ドリスは軽く目を見開いてから苦笑した。
「確かに、あの人が誰かにやられるのなんて想像できねぇが……」
……楽しみだな。小さくサントは呟いた。
聞きとがめたドリスが眉をひそめると、サントは「準備ができたようだ」と言ってさっさと行ってしまった。代わりに何やら用談を終えたらしいジュリアがやってくる。
サントとジュリアがすれ違う瞬間、二人の視線が交わった。
とは言っても、ジュリアの目には異形の姿のその顔までは見えない。だが、フードの下の視線をジュリアは敏感に感じ取った。
黒い布地が嘲笑するように翻り、ジュリアの横を通りすぎて行く。
「……」
「どうした?」
ドリスの立つ壁際まで来ても、振り返ってサントを見つめたままのジュリアにドリスは尋ねた。
「……彼は、何者だ?」
「さぁ、それは俺にも分からん」
据わった目がドリスを捉え、ドリスは手を横に振った。
「まじめだよ。そんな青筋立てるな」
そう言うと血のにじむ唇をわざとらしくさすった。それを無視してジュリアは尋ねる。
「王に漏らしていたという、気になる人物とは彼のことか?」
「まぁ、な。どうやら直接部屋まで会いに行ったみたいだけど? 顔まで見せたかどうかは知らんがな」
その言葉にジュリアは驚いたようにドリスを見た後、サントのいる方を振り返った。
「……まさか」
「何だ、人払いされたってのはもしかしてお前か?」
「!」
「図星か」
「……話の途中で陛下が急に退室を命じられたことがあった。あの時私も不審に思ったんだ。外で待機していたんだが……」
「それだな、きっと」
「……分かっていることは?」
「さぁ、この数週間一緒にいて分かったのは、謎だらけってことくらい?」
「それは分かったとは言わない」
「だってほんとのことだもん!!」
「……まだ殴られ足りないか?」
ふざけきったドリスの態度にジュリアは剣呑な声で言ったが、ドリスはまあまあと手を振って不意に真剣な顔つきになる。
「只者じゃないってのは確かだけどな」
「強いのか?」
「まぁ、弱くはないだろう」
「曖昧だな」
「本気でやってるところを見たことがないんだよ。よけてばっかで全然自分から攻めようとしないし」
「……どこで見つけてきたんだ?」
その質問にドリスは思い出し笑いをしながら答えた。
「あいつが王に会いたいと言うから、確実に会える方法があると俺が誘った」
「王に会いたい? あからさまじゃないか!」
「だろ? 怪しさ満点だったんでな。でも嘘言ってる感じじゃなかったぜ。希代の英主と謳われる王に会ってみたかったんだと」
「本気か?」
「さぁ、その真意までは分からんよ。でも、そんなに悪い奴じゃあ、ないと思うけど?」
「なぜ分かる」
ドリスはそっと自身の右腕をさすった。そして笑う。
「勘だよ」
溜息をついたジュリアにドリスは言う。
「得体は知れんが、今のところ明らかな害意は感じられない。本人もそう言ってたぜ? 王を害するつもりはないってさ」
「ますます怪しいじゃないか。目的が分からない者ほど用心すべきだ。それに、あんなふうに顔を隠している者の言葉を信用できると思うのか?」
「自分の顔は好きじゃないんだと言ってたよ。よっぽどの不細工なのかねぇ」
思案げに言ったドリスに対して、ジュリアも考え事をするようにぽつりと漏らす。
「……陛下は全てご承知なのだろうか」
「……さてな。ところで奴の相手は誰がするんだ?」
「ザナス将軍だ」
ドリスは眉をひそめる。
「ザナスのとっつぁんか。こりゃ軽くあしらえるような相手じゃねぇな」
「どんな戦いをするか……」
ジュリアは離れたところに一人立つ黒衣の人物に厳しい視線を送った。