12 決勝戦・後編
「ふむ」
ユリウスは小さく身じろぎした。
「何か、妙だな」
片方は相手の攻撃をただよけるばかり。片方は倦厭とするような小競り合いを続けている。黒衣の二人組みは勝負を決しようとはしていないように見える。それを不審に思ったのだ。
(それに、あの男……)
ユリウスはジュークに目を凝らした。
「あの何か?」
側に控えていた、親衛隊員が王の言葉を聞き咎める。
「……ダンカン、ジュリアは何をしている?」
「はい。隊長は少し、気になることがあると……」
「では、ドリスの居所を知っているか?」
「あの、いいえ……」
ダンカンは言葉を濁した。
親衛隊の隊長と副隊長が二人そろって行方知らずか、とユリウスは苦笑した。普通なら咎めてもいい所だが、ユリウスは楽しそうに微笑む。自分の判断で動ける有能な家臣は重宝すべきだ。
「今年はいろいろと面白いことになりそうだな」
独りごちる主に、ダンカンは不思議そうに首を傾げた。
†††
ジュークは違和感を抱き始めていた。
様子見ばかりでなかなか本気で攻めてこない相手に眉をひそめる。
攻め込む機会を窺えずにいるのかとは思ったが、そうでもないらしい。実際、ジュークは先ほどから何度も故意に隙を見せているというのに、その誘いにも乗らなかった。用心深いだけなのか、それとも……
――何かを待っている?
ここにきて、自分が何か重要な事を見落していないか、とジュークは疑問に思い始めていた。
このまま場が膠着すれば、有利なのはこちらの筈である。だが、
(何だ? 何を狙っている)
考えることが面倒くさくなった彼は、試しに自分から相手の懐に踏み込んだ。
敵の得物だった刀を正面から振り下ろす。
男は剣を頭上に翳して、それを遮った。
歪んだ笑みを崩さない。
本来自分の得物であったジュークの刀を払うと、がら空きになった相手の胴体に対して自分の剣を掠めさせるように突き出してから後ろに跳び退った。
ジュークは訝しむ。動きがどうもおかしい。
(何で誘ってやってんのにもっと大胆に攻めてこない。びびってんのか?)
ジュークはもう一度様子を見ようと、刀を持つ右手に力を入れた。
その時だった。
キンと、やけに澄んだ音を立てて、持っていたはずの柄の感触が手の中から抜け落ちた。
(……何だ?)
石畳の上に青龍刀が倒れている。
それを確認して、それでも訳が分からず、ジュークは自身の右手の手の平をまじまじと見つめた。
その光景に、男はにやりと笑みを浮かべた。
ジュークの右手は小刻みに震えていた。
「……なるほど」
彼はそっと呟いた。
相手に対する怒りはない。女を楯に取るような輩に道理を求める方が馬鹿なのだ。
まったく、とジュークは自分自身の迂闊さに苦笑した。
これは自身の過信が招いたものだ。力の差は歴然。その事実に少しも変わりはなかったが、それ故に相手が潔く屈することに疑問を持たなかったのがいけなかった。
爪が甘かったのは自分の方で、相手の方が一枚上手だったと、そう認めざるを得ない。
相手がその場しのぎの嘘をつく可能性も考えてはいたのだが、武器の携帯を見抜けなかった時点で、不意を衝かれたことは否めない。そしてその結果、自身の右腕を掠めていった刃がこの場合ネックだった。
たいした傷ではないと甘く見ていたら、実は毒刃だったという訳だ。
おそらく、右腕を掠めていった剣の刃先に何らかの薬が塗ってあった。しかも、時間差で効いてくる遅効性の代物だ。これなら審判の目もうまくごまかせる。有毒な劇薬には即効性のものが多いので、そうそう危険なものではないとは思うが、この戦いで苦戦を強いられることは避けられない。誘いに乗らず、ちまちまと体の局部ばかりを狙って攻撃してきたのも、危険を冒してまで正面から攻める必要が無かったからだ。少しでも掠れば、体の中に毒は回って、時間がたてばたつほど身動きが取れなくなる。相手はこれを待っていた。
(こういう場合は申告したところで、反則にはならないのかね)
そうは思ったが、そうする訳にもいかない。シャルルの命がかかっている。軽率な行動はすべきではない。それも敵の計算のうちだろう。
たぶん死に至るような毒薬ではない。ジュークは冷静になって考えた。
たいした怪我も負っていない状態で、対戦者が死んだりしたら、怪しまれることになる。そんなリスクは犯すまい。今現れている症状は右手の痙攣。それ以外にそれらしい兆候がないということは痺れ薬か何かなのだろう。幸い、相手の刃が接触したのは不意を衝かれた一度だけ。まだ全身に回ってはいない。だが、時間がたてば動きにくくなるだろうことは目に見えていた。現に右腕を自由に動かすには、既に難儀しそうだ。
(ここは早めに応急処置をすべきだな)
ジュークは苦笑と共に溜息をつくと、くるりと背中を向けた。
「何だ? 降参か?」
男は既に余裕を隠さずに笑っている。
それにジュークは背中越しに手を振って、ちょっと待ってろ、と答えた。
「じゃあ、後十秒待ってやる」
ここまでくれば、彼は寛大な気分になっている。相手はその内、立って歩くことさえできなくなるはずなのだ。それまで、自分の剣でいたぶってやればいいだけのこと。あたかも自分の攻撃が相手に痛手を負わせているかのように見せかけて。
倒す必要はない。勝手に自滅するのを待つだけでいい。
男は唇をひん曲げると、今日一番の嘲笑を浮かべた。
†††
(ああ、何でこんなことになったのかしら)
女は両手を後ろ手に縛られたまま、背後にいる男をちらりと盗み見た。背には刃が当てられている。
「おい、変なこと考えるんじゃねぇぜ」
隣にいる小柄な男は、顔を近づけ臭い息を吹きかけながら下卑た笑いを浮かべた。
もし、自分の手が自由ならその顔をひっぱたいてやるのに。きっ、とシャルルは男を睨んだ。
「何度も言ってるが、声は出すなよ。死にたくなかったらな」
背後の男は、シャルルの耳元でささやく。彼女の周りはむさい男達で固められていた。周りにはこんなに人がたくさんいるのに、誰かに助けを求めることもできない。
「おーい、なにちんたらやってんだぁっ!!」
「いつもみたいにさっさと、倒しちまえよぉ。俺達はそれを見に来てんだ! がっかりさせんなぁ!!」
苛立ち始めた客席からは野次に近い声援が飛び始める。
「そうは、問屋が卸しませんぜ」
シャルルの周りの男達は笑った。
「何せ、こっちには勝利の女神様がついてるからな」
何て卑怯な男達だと、シャルルは唇をかみ締めた。この連中に比べればジュークの方がよっぽどマシだ。
シャルルは円壇上で戦う黒衣の姿に苦しそうな視線を送った。
自分の身が危険にさらされている事よりも、自分のせいでジューク達が苦戦を強いられている事の方が、よっぽどシャルルには辛かった。本当ならあんな奴ら一瞬で倒せるのに。自分が足手纏いになっている。それが悔しくてしょうがない。
誰かに助けを求めるように周囲を窺ってみても、周りはがっちりと男達でガードされている。声も出すなと言われているし、例え出したところで周りの声援で、自分の声が届くとも思えなかった。助けの求めようがない。せいぜい縋るような視線を周囲に送ることしかできないが、シャルルのその視線に気が付く者はいなかった。観客達は皆、試合観戦に熱中しているのだ。傍目には観戦に来ている一行にしか見えず、真ん中の女が囚われの身であることに気が付くのは難しい。
「あの、すいません」
その時声を掛けられた。
ハッとして、声のしたほうを見遣る。
今のは自分に言ったのではなかろうか。シャルルの胸は期待と緊張の合間で高鳴った。
「何だ? あんた」
シャルルの隣にいた男が訝しげに顔を歪めた。
背後の男はシャルルの腕をきつくつかみナイフを突きつける。わかってるよな。しゃがれた声が低くささやいた。シャルルは背中を滑り落ちる汗を感じながら慎重に声の主を窺った。
声を掛けてきたのは年若い男だった。少年と言っても差し支えないくらいの年齢に見える。垂れ目がちの、どこにでもいそうな平凡な少年だ。少しも強そうには見えない。それでも贅沢は言っていられなかった。チャンスはここしかない。
だが、シャルルの前に立ち塞がった男が、彼女を背後に隠してしまう。
「どうしたんだ、兄ちゃん?」
なるべく怪しまれないようにだろう、男は愛想よく尋ねた。
「あの、いえ、貴方の後ろの彼女が知っている人に似ていた気がしたので……」
少年のその言葉に、対応していた男は眉間にしわを寄せた。ここで、知り合いに出てこられるのは面白くない。男はすっとぼけるように続けた。
「何かの勘違いじゃねぇか? こいつは俺の妹でな。大会を見に外から来たんだ。狭い村で、アレスに来たのも昨日が初めてだ。妹があんたを知っているはずがねぇがなぁ。大事な妹なんだ。口説くなら他を当たってくれ」
心底不本意な男の言い分を聞き流しながら、シャルル自身も少年の言葉に眉をひそめていた。
知り合いか、と後ろの男に訊かれてしぶしぶというように首を振った。記憶を探ってみたが、どう考えても初めて見る顔だ。けれどボイルの店に来たことがあるのなら、シャルルの顔を知っていてもおかしくはない。
からかうような男の言葉に少年は、いえ、違います、と顔を赤らめて首を振った。たじろぐように、踵を返そうとする。
――行ってしまう
シャルルはとっさに助けを求めて声を出そうとした。
だが、その喉を男の無骨な手がなでた。
ぞくり、とシャルルは戦慄した。
〈黙ってな。この細い首をへし折るぞ〉
耳元に息を吹きかけるようにささやかれ、シャルルは恐怖で体が固まってしまった。声も出ない。
――待って 行かないで
離れていこうとする背中に、シャルルは必死に心の中で助けを求めた。
「あっ、そうだ、一つ伺うのを忘れてました」
その願いが通じたのか、少年は思い出したように立ち止まった。
「何だ?」
「妹さんの右胸の下に三つ並んだほくろがありますか?」
その質問に男はきょとんとした。
ついつい、後ろにいるシャルルの顔を見る。
シャルルは顔を真っ赤にしていた。
「なっ、何で知ってるの!?」
自分しか知らないはずの体の特徴を言い当てられ、シャルルはつい驚きの言葉を漏らした。背後の男は慌ててシャルルの口を押える。
「お前……」
男は少年を睨んだ。
少年はあーあ、とうつむいて頭を掻いた。その頬がうっすらと赤く染まっているのはどうやら見間違いではないだろう。
「すみません、その人やっぱり僕の知り合いみたいです」
「妹はお前みたいな奴は知らないと言ってるぜ。人違いだ」
「ええ、僕は知らないんですけどね。僕の知っている人が彼女を知っているんですよ。つまり間接的な知人です」
「訳の分からない事を……」
シャルルは少年の言葉に混乱していた。
間接的な知り合い? 彼の言っている知り合いとは誰のことだろう?
頭がパニックになりかけた時、後ろから、ぐえっとういう呻き声が聞こえた。
「え?」
振り向けば、ナイフを突きつけていた男が倒れている。
男達は少年にばかり注意をしていて、気が付いていないようだ。両手を縛めていたロープもいつの間にか切れていた。
(いつの間に?)
だが、これは千載一遇のチャンスだ。
人ごみの中で誰かに背中を押されたような気がして、シャルルは振り返らずに走り出した。
待て、と自分を引き止める声が後ろから追ってきた気がしたが、シャルルは全速力で人の波を掻き分ける。この人ごみの中では男達も最早手出しはできないだろう。早くジュークたちに自分が無事だと知らせなくては。試合が終わってしまう前に……。
その一念が彼女を脇目も振らせず走らせた。
†††
(いい加減しんどくなってきたな……)
ジュークは肩で息をしながら、目の前の男を見遣った。
男は最早、自分が負けるとは思っていないだろう。口元の笑みが絶えずそれを告げている。
右手の握力は、もうない。
刀把は今、彼の右手に布で縛り付けられていた。自力で刀を持つことさえできないのだ。
「どうした? 顔が真っ青だぞ?」
その言葉に、ジュークは口元を歪めて笑った。
――そろそろ限界だ
そう思った時だった。
突然、空高くに上がった光が空中で大きな音を立てて破裂した。
「何だ?」
「爆竹か!?」
と、客席がざわめき始める前、一瞬の静寂の間隙を縫って、女の甲高い声が響いた。
「サントさん!! ジューク!!」
「!」
ジュークに対峙していた男は、何事かと空中を見上げ、女の喚声を聞きつけると、その姿を認めて瞠目した。観客席の一番前で、手摺りを握り締め身を乗り出しながら叫んでいる女の姿があった。
「シャルル!!」
そう言って、女の下に駆け寄る二人組みの姿も見える。縦も横も大きな大男と、手足のひょろ長い細長の男だ。
「まさか……」
男は振り返った。
「……」
右手に刀の柄を縛り付けていた布を取り、無言で黒衣の懐から煙草を取り出すと、ジュークはその先端にマッチで火を点けて紫煙を吸い込む。長い溜息と一緒に煙を吐き出した。
「ちょっと休ませてくれ」
肩の荷が下りたというように苦笑しながら、悠長に小休止を取っている相手の言葉に、男は冷静に状況を把握しようと努めた。
人質の女が解放された……
何故? どうやって? という疑問はこの際後回しだ。
今考えるべきなのはそれが自分にどう影響するか…。
相手に対する足枷が取れたことになるが、もはやそれは危惧すべきことではないはずだ。目の前の男はもう十分限界にきている。
男はジュークを観察した。地面に突き立てた青龍刀に左腕を乗せながら寄りかかり、右手の人差し指と中指で煙草を挟んでいるが、その指先が小刻みに震えているのを男は見逃さなかった。得物がなくては、自力で体を支えることもできないらしい。もうそろそろ、全身に痺れが回っている頃だった。
狼狽するには及ばない。自分の力で楽々勝てる。そう確信すると、男はにやりと笑った。
「どうする? ギブアップするか? お前にはもう得物を握る力さえないはずだ。限界、そうだろ?」
ジュークはもう一度煙草を口元に運びながら答えた。
「まったくだな。さっさと終わらせちまおう」
億劫げに身を起こすと、左手で刀を引き抜いた。
「苦しんだ挙句、今度は左か? 無茶するなよ。慣れない刀捌きでうっかり自分を傷つけちまうのがオチだぜ」
くわえ煙草をしながら、ジュークは左手で刃を構える。
「お前の顔は見飽きた。手加減するのもおしまいだ」
男は眉をひそめる。
「手加減、だと……?」
「悪いが我慢の限界なんだ。行くぞ」
そう言うと、一気にジュークは踏み込んできた。
「!!」
――速い!?
一瞬で男の前に詰め寄った。
ガキンと刃と刃がぶつかる音がしたかと思うと、男の右手に強い負荷がかかった。
相手の刃を受け止めるしかないと構えた剣は、それさえも間に合わずに、弾け飛んだ。男の背後で、弾かれた刃がキンと地面に落ちる音が聞こえた。
「つっ!!」
柄を持っていた右手がじんじんと痛む。衝撃に震える右手を押えた。
煙草を口にくわえたまま、口角を上げてジュークは笑う。
――まさか……
その超然とした笑みに、男は一つの可能性に気が付いて愕然とした。
「時間稼ぎをしていただけだって言うのか……!?」
女が解放されてから、急に動きが変わった。
彼は待っていたのだ。
人質が解放されるのを。
そのための時間が必要だった。
だから、わざと手を抜いて何らかの方法で女が救出されるまでの時間を稼いだのだ。
相手の体に毒が回るまで時間を稼いでいたつもりが、逆にこっちも相手に時間稼ぎされていた。
今度こそ本当に丸腰になった男の喉元に、すっと刃が据えられる。刃先は少しもぶれることなく、ピタリと静止していた。
ごくりと男の喉が大きく鳴った。
「お前の薬のせいで手加減するのにも骨が折れたよ」
男がその言葉に瞠目すると同時に、その鳩尾に刃の衝撃が入る。
「ぐっ!!」
「峰打ちだ」
足元から男は崩れた。倒れ落ちながら、霞んでいく目の端で黒衣の男を見上げる。
「な、ぜ…だ? 薬が、効いてるはずなのに……」
そう訊いた時、男の顔にぽたりと落ちるものがあった。
「!」
まさか……
ジュークはにやりと笑う。
「ついでに教えといてやる」
ジュークはしゃがみこんで口にくわえていた煙草を男の目の前の地面に押し付けると、意識を手放そうとしている相手の耳元で優しくささやいた。
「俺は、もともと左利きなんだ」
その言葉に最後の瞠目をすると、男は目を剥いたまま気を失った。
「サント、もういいぞ」
二本目の煙草に火をつけながら、ジュークは言った。
「くそっ!」
仲間をやられた男は事態の急転に焦ったが、冷静になって考えた。
(俺がこいつに勝ちさえすれば、引き分けだ。焦る必要はねぇ。まだ勝負は終わってない……)
「いい加減決着つけるといこうやっ!!」
自分自身を鼓舞するように、男は叫んだ。返事が返ってくるとは思っていなかったが、
「そうだな」
そんな声が聞こえて、次の瞬間には幻聴かと思う。体を勢いよく回転させて繰り出した連続した二つの刃の前で、突然相手の姿が掻き消えたからだ。
「!?」
襲い掛かる刃を、サントは腰を落としてよけた。屈んだ体勢のまま、足を伸ばす。両手を地に着け、それを軸に素早く体を回転させると相手の足を払った。突然目の前から黒衣が消えたと思った次の瞬間、足元にきた衝撃に、訳の分からなぬまま男は尻餅をつく。
「なっ!?」
そして何が起こったのかを理解する間も無く、左手に走った痛みに剣の柄が手から離れた。
腰を低く落とした状態で体をひねり、ジュークと同じく足を使って相手の剣を勢いよく蹴り上げると、サントは敵の得物を自分の手中に収めて、倒れる相手を立ち上がって見下ろした。
「くっ!」
どういう過程を経たのかは分からないが、自分が不利な状態に追い詰められたらしいということは悟って、とっさに右手に残っていたもう一振りの剣を頭上に翳す。だが、立った状態と倒れた状態ではいかんせん、どうしたって形勢不利だ。振り上げた剣は、あっけなくサントの払った太刀筋で遠くへ飛ばされてしまった。
為す術も無く呆然と見上げた黒衣のフードの中に、自分を見下ろす冷たい瞳を見つけて、男は心臓を鷲摑みされたような感覚に陥った。突きつけられた刃の光が男の瞳を覆う。
殺される。
そう思った。
無感情に見下ろす瞳の中に、心臓をそのまま凍らせてしまうよな冷気を感じて男は真っ青になった。その視線に射竦められ、たじろぐことさえできずに凍りついて固まった。
刃の放つ光よりも、鋭く貫くような、あの瞳が恐ろしい。――だが、目を逸らすことができなかった。
逆に、惹き寄せられるかのように相手の瞳に釘付けになる。
男は叫んだ。
「……ま、まてっ!! お、おれの負けだっ!!」
サントは構わず剣を振り上げた。
「ひぃぃぃっ……!!」
ガキンと鈍い音がして、刃先は男の頬を掠めて硬い地面に突き刺さった。
タラリと温かい血が頬を伝う。
「ひとつ、教えてやる」
低い振動が、そのまま彼の心臓を揺さぶった。
「――私は女を守れない男が、死ぬほど嫌いだ……」
押し殺すように吐き出されたその言葉は、サントにしては珍しく強い口調だった。
聞き耳を立てていたジュークも、思わず眉をひそめる。
(実は相当、頭にきてた……?)
珍しい現象に、右腕を押さえながら背伸びするようにサントの様子を窺ったが、サントは握っていた柄を離すとさっさとその場を離れた。
見れば倒れた男は口から泡を出しながら完全に気を失っている。
ジュークは感嘆の口笛を鳴らした。
「お見事」
「試合終了!! 優勝、ジューク・サント組!!」
審判の声と同時に、雷鳴のような歓声がわっと会場を震わせた。
誰もが立って優勝者に歓声をあげる中で、男が一人座ったまま拳を握りしてめていた。
帽子を深くかぶり、親指の爪を噛みながら、小さく罵る。
「くそっ、あいつら」
「なーんだ。負けちまったみたいだねぇ、ファナンさん?」
後ろから急に声を掛けられ、ファナンはびくりと震えた。振り返ったそこにいた人物を認めると、油断ない目つきで見つめる。
黒い丸縁眼鏡をした愛想のいい男が立っていた。
「へぇ、いい腕輪してるね。高そうだ。旦那様から頂いた品かい?」
ファナンの腕にはまっている貴金属を認め、男は気安げに顔を近づけた。
居心地の悪さに腕輪を掌でさすりながら、ファナンは男から目を逸らす。
前から思っていたことだが、この男は苦手だ。人畜無害な顔をしておいて、何を考えているのかが分からない。
「あんたも見に来てたのか…」
「そんなに驚くことないだろう? あんたの部下がちゃんと御前試合に呼ばれることになるかどうか、俺も心配だったのさ。まぁ、でも、それ以前の問題だったみたいだなぁ」
男はファナンの沈んだ肩を、ぽんぽんと慰めるように叩いた。
「まぁ、しょうがないさ。相手は相当の手練のようだな。あいつらくらいじゃ勝たせてもらえんよ」
「手段は選ぶなと言っておいたんだが……」
歯噛みするファナンを男は嗤った。
「だから、甘いのさ。俺だったら、劇薬で完璧に息の根を止めてやるがね。そっちの方が確実だろう?」
ファナンの肩に腕を回して男は耳元でささやく。
ファナンは己の体が震え出そうとするのを必死にこらえた。
「終わったものはどうしようもない。次の手を考えることだな」
じゃあな、と言って去っていく男の後ろ姿を見送りながら、あの男は絶対に好きになれないとファナンは唾を吐き捨てた。
倦厭【けんえん】…あきていやになること。
刀把【とうは】…刀の柄。
間隙【かんげき】…ひま。すきま。
喚声【かんせい】…叫び声。わめき声。