エピローグ ルファイのレストランにて
「君は、あの魔女のことが本当に好きだよね」
磨かれた黒檀のような鋭い瞳の、静かな視線が向けられた。
そこに動揺の色はない。
夜の魔術師がこの程度では揺らがないことは想定済みだ。
「否定する?」
今までのシハースィであれば、それ以上は踏み込まなかった。適度に仲良くしていられれば満足だった。歪な人間の、愉快な姿を眺められればそれで。
しかし今日は、追及の手をとめるつもりはない。
「たとえば、森を壊したいだけだ、とか」
あと一歩踏み込んでおかなければ、この人間は、なにかとんでもないことをしでかすような気がしたのだ。先ほどから、ちらちらその片鱗は見えていた。
「どうだろうな――」
だから、答えもはぐらかすだろうと予想していたのだが。
夜の魔術師は愉しそうに続けた。
「……あいつに愛を乞わせることができたら、愉快だと思わないか?」
「待って。森の魔女の話、だよね」
「それ以外になにがある? あいつも……正しく結ばれない苦しみを知ればいいさ」
「わ、本気だ……――前は、そういうのじゃないって。言ってたよね」
「すべてをと願えば、含まれるようになるのも当然だろ」
若干据わっている魔術師の目に引きつつ、彼の口から具体的な言葉が出てきたことに驚く。
執着がいつの間に色を変えたのか、彼自身にもわからないのかもしれない。
森の魔女と深く関わることになったからこそ、そして夜の魔術師が自身の深みを増したからこそ生まれた想いなのだろう。
でなければ強大な魔女のすべてを得ようなどという発想は出てこない。
(でも、そっか)
きっと、夜の魔術師の運命が世界を揺るがすほどのものであることの答えは、そこにある。
悪びれもせず、彼はすました顔で食後の紅茶を楽しんでいた。
月光の視線で晒すまでもなく、シハースィは、そんな友の真意を知る。
「賽の目がさ、言ってたんだよね」
魔術師が名を失ったあの夜会で、賽の目が見せた恍惚。
あのあとシハースィは、サイコロを転がす男の予知めいた言葉を聞いていた。
「君の、名前の喪失から転がる運命には、苦悩や苦難がこびりついてるんだ、って」
それはたとえば、と言いかけて、シハースィは口をつぐむ。
誤魔化すようにパイケーキの残りを口に入れた。さくさくと層が崩れていき、それを絡め取るように甘いクリームが舌の上で広がる。
夜の称号を得てから、よりいっそう精力的に動いてきた彼のことだ。そして先の発言。
よくよく理解しているだろう。
魔女と真に結ばれるなら。名前が必要だということくらい。
「名前、か」
(ほら……)
なにかを成そうとする者の目など、簡単に見抜ける。
「君も変わったね」
「は、失望でもしたか?」
「いいや。なんなら今のほうが、ずっと愉快。君の悪意は際限がない、よね。ぐるっと回って、善意にだってなる」
「どうだか。けっきょく、俺のいる場所は人間の範囲でしかないからな」
脚を組み、さりげなく顔を背けた夜の魔術師は、静かに呟く。
「あいつのもとで、真に際限のない悪意を見たことがある。あの透明な闇は――……あれは、腹が冷えた」
あまり己を語りたがらない魔術師は、いつのまに、こんなふうに心のうちを見せてくるようになったのだろう。
そしてなぜ、自分は。
もう容易に暴ける心情なのに、なぜ、つまらないものと感じないのだろう。
「それを正しく恐怖できるなら、心配は要らないんだろうね」
狂気で理性を操るような、そんな男だ。
人間のまま、人を外れずに、森という大きな事象を司る魔女に手を伸ばそうなど。
「さてな。お前は今までどおり、俺が愉快な存在か判断しつづけていればいい」
そんなもの、愉快に決まっているのだ。
「ん、老人になった君を看取れるといい、な」
「……努力はするさ」
そうして少しのあいだ、なにか思考を巡らせるような人間の表情を、月光の竜は愉しそうに眺めていた。