4−3 夜の称号
「夜の紗?」
「そ。夜への路。無意識かもしれないけど、君らは月光を歪めたから」
「お前がそう簡単に歪むかよ」
「どうかな、新しい扉くらいは開いた、かも」
「誤解を生む発言はやめろ」
レストランホールにはいつのまにか、夜の魔女の城で見たヴェールが、なびいていた。
恭しくシハースィを迎えようとしていた妖精は、今度は打って変わって魔術師とのやりとりを無表情に観察している。
夜は滲むようにあちらとこちらを繋ぐ。
紗が開ききれば、そこはもう夜の魔女の御前なのだろう。
「君はどうするの、音毒のチェロ弾き」
「えー……なんか面倒そ」
雇い主を見失ったことに動じることなく、演奏を終えたチェロを片付けていたチェロ弾きの青年は、不満そうに頬を膨らませた。それから、上目遣いでこちらを見てくる。
はぁ、と、ため息をつく。
それはフリだ。なんにせよ、チェロ弾きのことは手に入れるつもりだった。この者の毒は、使える。なにより甘美な演奏。あれは手もとに置いておきたい。
「演奏の腕をさらに磨く気があるなら、今後、お前のステージは俺が用意してやってもいい」
「ほんとに! さっきみたいなとびきりの夜でまた演奏させてくれる、マエストロ?」
「決まりだな。戻るまで、夜にあう曲目でも選んでおけ」
「……あ、置いてくんだ」
「即興で何度もやれるかよ」
*
一度目は目通りすら叶わなかった。
二度目はシハースィに連れられ、女王の間で。
そして三度目の今はなぜ、寝所にいるのだろうか。
(考えるだけ無駄だな)
流れるように深い口づけを交わしはじめた魔女と竜の姿に、いったいなにを見せられているのかと思う。
だがここで自分が立ち去ったところで、ベッドに沈もうとするふたりは気にも留めないだろう。それでは来た意味がない。
まったくもって趣味ではないが、常識人ぶることは諦め、魔女の情事を知っておくのも手であると魔術師はベッドからいちばん離れたところにあるソファへと腰を下ろした。
ふたりぶんの吐息が少しずつ溶け混ざり、夜の要素が欠けた月を埋めていくのをぼんやりと感じる。
(……口づけだけでこの濃度か)
やはり、魔女にはそう易々と手は出せない。
ふと、魔女の指が、シハースィの両耳に着けられた赤いピアスに気づいた。
それからゆるりとこちらへ向けられた視線が、左耳に連ねた黒いピアスを捉える。
迂闊だった。互いの血液を身に着けたままであったことを失念していた。
「シハースィ」
たったひと言。それも名を呼ぶだけの行為にあらゆる情緒を込める夜の魔女は、どこまでも気高く、また気怠げで。
有無を言わせぬ魔女の心配に、しかしシハースィは身を起こしながら「大丈夫」と笑うように囁いた。
夜の魔女は今、シハースィが友人だと口にする自分の価値を測ろうとしているに違いない。認識すらされなかった前回と比べればましなのだろうが、それが彼女にとってどの程度に位置するのかは不明だ。
魔女という生き物は、竜よりもよほど、自分の領域を侵されることを厭う。
この召集が夜のものである月光を案じるものであるならば、自分は、それを損なう邪魔者と捉えられているのか、否か。
血――とくに、人ならざる者のものは、その事象の要素を多く含む。
それをいかようにも扱える状態で互いの手の中にあるのを、夜の魔女はどのように見るだろう。
静かに抱いた緊張。
しかしそれは、思いもよらぬシハースィによって崩される。
「この子はね、愉快だよ」
魔女は動きをとめた。
魔術師も、心のうちで息を呑む。
驚きと、高揚と。
彼のその言葉が、面倒くさがりで酷薄なこの竜にとって最大の賛辞であることは、わかりきっていたからだ。
(ったく)
湧きあがる情はそのまま、笑みを浮かべた。
稀有な友人を、魔術師も大事に扱わねばと思う。今後も、そうしてゆきたいのだと。
「……お前の感性で俺を愉快と眺めるなら、歓迎だ」
ほう、と嘆息した夜の魔女は、魔術師のなにかに気づいたように目を細めた。
黒く長い爪で宙をかくと、室内を覆う流砂がしゃらと鳴り、顔を黒いヴェールで覆った妖精がなにかを抱えて入ってくる。
「その人間に与えて」
寄越されたのは新品のシャツだ。夜空を覆う雲から糸を紡いだのか、暗色の中に細かで濃密な夜の要素を含む生地が使われていた。
「篝夜の工房のものか」
「早く着替えて。その毒にまみれたシャツは捨ててしまいなさい」
「……ああ、頂戴しておこう」
この場で無防備を晒せと? という疑問を持たないでもなかったが、たしかにチェロ弾きの音毒によって穢れたシャツを着続けることには抵抗がある。
魔術師はさっそく、夜の国で作られる最高級のシャツに袖を通した。
(さすがの着心地だな)
まとわりつく魔女の視線は気にしないこととしておけば、やわらかな夜が肌に心地よい。光沢の抑えられた釦も影を切り取ったように密やかで、普段使いにもよさそうだ。
「着替えたらこっちへ」
「なんでだよ」
「脱がされるのは嫌いか?」
覚えのある質問に思わずシハースィを見やってから、失敗したと舌打ちをする。察したように薄く笑んだ友人のことは放っておき、あらためて魔女に向き直る。
「そういう意味じゃない」
考えるまでもなかった。片方の眉をあげて続きを促してきた魔女に、はっきりと告げる。
「お前との夜は、不要という意味だ」
「ほお?」
人間の断りなど聞かなかったことにするつもりか、夜の魔女はおもむろに立ち上がり、近づいてきた。
ずっと保ってきた魔女と人間の距離が、容易く縮められる。
「私の誘いを断る口があるとはね」
話をする距離よりも近く。伸ばされた手は、魔術師の口もとにひたりと触れた。
「……なんのつもりだ」
「そう身構えるな。とって喰おうというわけではないのよ」
頬を、顎を撫でゆきながら、魔女は面白がるように呟きをこぼす。
「欲しいものしか欲しがらない、いい目だ……そなた、名は?」
「あ、さっき捨てたよ」
「……そう。なら――」
このようなとき、人間の瞬発力というものは往々にして鈍くなる。
とん、と。
夜の魔女は、まだボタンを閉めきれずにいた襟の隙間から、魔術師の胸を突いた。
鋭い爪先が痛みをもたらすよりも早く、あたたかななにかが流れ込んでくる。
「ならば、夜を名乗ることを、赦そう」
静寂と過激を併せ持つ、それは夜だ。
名を失ったことで空いた運命の穴を埋めるように。飛び散った沫と沫を繋ぐように。
「……そんなものを与えていいのか? 俺が夜に牙を剥かないとでも?」
「そなたに夜は損なえない」
人間だからではなく、そういう気質だからと笑う魔女に、魔術師はなにも言い返せなかった。
幼いころから追い求めてきた星を、その歴史に思いを馳せる心を、たしかに否定はできない。
しかしだからといって、気安く受け取れるようなものでもなかった。人間はよく己の得意な魔術を掲げてどれそれの魔術師という通り名を使うが、これはそのような自称とはまったくの別物。真名とまではいかずとも、魔術的には大きな効力をもつ、称号なのだ。
さすがに慎重にならざるを得ず、魔術師は逡巡した。
「もらっておくといいよ。きっと、君の目指すところにも夜はある、から」
その背を、そっとシハースィが押す。
「それにね、名を変えたところで、君の本質は変わらない。でしょ」
「まあ……そうだな」
友の言葉に、魔術師は、夜をゆく覚悟を決めた。
あらたに結ばれた運命を掴む。
夜との深い繋がり、その不思議な感触をたしかめていると、しかし、胸に当てられたままの爪が食い込んでくる。
「……おい」
「人間は軟弱ね」
尖った先端は、簡単に皮膚を突き破った。
流れ出た血が着替えたばかりのシャツに付いてしまう前に、夜の魔女は自ら舌を出し、甜めとった。同時に、つけられた傷も塞がる。
夜の誘いを断った仕返しのつもりか、こちらを見上げる銀の瞳には妖艶なさざめきが乗せられていた。
そこに残る熱は、なんだろうか。
「喰うつもりではないと口にしたばかりとは思えんな」
「つれないのね。たまには人間の味をと思ったが、まあいいわ」
乗り気じゃないのを連れ込むのはつまらない、と、魔女はベッドへひとり、戻っていく。
「その魔女に手ひどく振られたら、おいで。夜を愛する者を、夜はいつだって迎えよう」
今はそのときでないのだと、流砂が天蓋のごとくおりてきて、夜の魔女の姿は見えなくなった。
(魔女だとは、言わなかったはずだ)
負け惜しみのようだと思いつつ、魔術師は、念押しせずにはいられなかった。
「……言っておくが、そういう執着ではないからな」
これは愛や恋の話ではない。
人間ひとりの時波を歪めた、善悪の外にあるなにかの話。
同じく魔女の寝所から締め出されたシハースィは肩をすくめた。
「ん、それ、君がまだ魔女を知らないからそう言えるんだよ」
それから彼は珍しく、手を伸ばしてきて。
そっと、魔術師の頬に触れる。
「――夜の魔術師。これから君は、どんなふうに愉快な夜を紡ぐのかな」