4−2 マエストロ
音毒を奏でるチェロ弾きを送り込んできた黒幕のことは、怒りに任せて、月光の視線で焼き殺した。
自分のなかにそのような衝動があったことを不思議に思ういっぽうで、傲慢な竜の所業を見て呆けたようすの人間に満足を覚える。
聴く者を殺める甘いチェロの音は、やむ気配がない。
それはチェロ弾きの殺意によるものではなく、ただ曲が終わっていないがゆえのもの。だからこそ、手出しが難しい。
(面倒だな)
さて、この音をどうしたものか。
黒幕を潰したのと同じように強烈な月光を振り落とせば、演奏は止められるだろう。しかし。
夜空に連なる月光の竜として、この場所は損なえない。
秋の明星黒竜から祝福を得たレストランなのだ。
星の系譜の源たる明星黒竜、そのなかでも最高峰に位置する季節の四柱の一角を担う彼女の。
あれを怒らせるのは駄目だ、と、年に数度は会う竜を脳裏に浮かべて首を振る。シハースィが女王と仰ぐのは夜の魔女ただひとりだが、豊穣の女王と呼ばれる秋の明星黒竜の熱狂的な信奉者を思えば、夜空に属する竜として敵対するわけにはいかない。
しかし、この複雑にさまざまな要素を含んだ音――もはや天然の域にある猛毒だけを取り除くような器用さを、シハースィは持ち合わせていなかった。
そうしているうちにも音は重ねられていく。
(ちょっと、まずいかも)
夜を照らす月光は、元来、闇に滲みやすい。それゆえ潜むものを暴くことを得意とし、またその逆も然り。
長命な生き物は、けして万能ではない。
世界の理はもちろんのこと、偶然結ばれた因果によって損なわれることはままある。チェロ弾きの紡ぐ音は、後者のそれだ。彼の感性や、生まれ持った身体のかたちが複雑に絡みあい、災いと成る。
やはり、面倒だ――外へ出る最短距離くらいなら、店の壁に穴をあけても怒られないだろうか。
とうとう雑になってきた思考で対処方法を転がしていると、慌てふためく給仕を捕まえて詰問する魔術師が目に入った。
「おい。店にすぐ使える楽器はあるか」
「は、はい。楽器ですね……ええ。ピアノ、バイオリン……オルガン――」
「オルガンだ。すぐホールへ運べ」
そう命令した魔術師は、視線に気づいたのかすぐこちらを振り返った。次いで作られる渋面。
「……ったく。掛け違えた月の釦だな。この布をかぶって休んでろ」
魔術具のピアスから取り出した布を自分でも被りつつ、彼は追加でいくつかの魔術を紡ぐ。その顔色も、ひどい。なかなか隙を見せない魔術師が、疲弊も隠せずにこちらを心配してみせるのは、まるで。
「お母さんみたい、だね」
「やめろ。さっさと借りを返したいだけだ」
*
ふぁ――と、落ち葉が風を孕んで舞うような音が吹いた。
注視していたシハースィだけでなく、このホールでまだ生きている者たちの視線が、新たな演奏者を迎えたステージへと向く。
露わになる、葉の下に隠された毒茸の存在。しかし魔術師は、それを摘みとるでも踏み潰すでもなく。
いいの? と言わんばかりのチェロ弾きの視線を受け流し、オルガンの鍵盤に指を滑らせていく。
風の流れるまま、毒の向きがこの場から逸れる。
「ふ……」
ほっとひと息ついたのもつかの間。
(悪いこと、してるね)
オルガンから発せられる倍音によって、毒はむしろ増幅した。
シハースィの報復相手――チェロ弾きをこのレストランへ手引きした商人の血を伝い、此度の騒動に裏で関わっていた者たちを壊す呪いへ変わっていく。店内にひとり、外部には両の指で数えられないほど。それから無関係の、おそらく魔術師が個人的に消しておきたかったのであろう誰か。
この音毒はチェロ弾き生来のものに違いなく、だからこそ表舞台で疎まれてきたであろう青年は、彼自身が純粋な気持ちで演奏をしたいと願えば願うほど悪意ある者に利用されてきたはずだ。
魔術師も平然と、彼なりの悪意でもって、チェロ弾きの無邪気さを利用する。
毒にかすれた喉が、震えた。
(歌……うんだ)
魔術の言葉を旋律に変え、声をチェロの音に絡めていく。オルガンの夜風がすべてを包み、魔術師のその穏やかな歌は、月夜によく馴染んだ。
意図に気づいたチェロ弾きが、楽しそうに音の角度を変える。
濃度を増した殺人的な音に、空間が軋みだした。
月光の視線を集めて。
ステージに夜が鳴っている。
自分らの音が何をもたらすのかを正しく理解している二人の演奏は、どこまでも残酷な響きをしていた。
それは、独奏のときよりも深く。
どうしてだろうとシハースィは耳を傾けた。嗜み程度の技量しか持たない魔術師の演奏は、チェロ弾きのそれと比べて明らかに劣っているというのに。
ペダルを踏む革靴も、鍵盤を撫でていく指も、歌へと震わせる喉も。
なにも、とくべつなものはない。
(ああ、けど)
この感覚は知っている。
敬意だ。魔術師の奏でる音色からは、この邂逅への光栄な思いすら感じられた。
傲慢にも、特等の演奏者を導くような真似をしておきながら。
「……マエストロ」
小さく、小さく。
類稀な音を奏でながらも、狡猾な導きに従うチェロ弾きの、そんな呟きを聞いたような気がした。
*
魔術師が演奏の指揮をとるまでにホールにいた者の多くは息絶えていたが、休暇日だったらしい支配人が慌ててやってくるころには音の毒は質を変えており、被害は最小限に抑えられたといっていいだろう。
「わたくしどものオーナーがたいへん喜んでおりまして、しばらくは月の領域に便宜をはからせていただきます」
「そういうのは別に要らないんだけど……じゃ、さ。また来るから。いい席を用意しといてよ」
当然そのつもりだったと、支配人は大きく頷いた。
それどころかまだ足りないともっと謝礼を押しつけてこようとする彼に、なら商品を卸させろと魔術師が取引を持ち掛ける。その場でいくつか品目を口にすれば、むしろ願ったりだと喜ぶ支配人。
(チェロ弾きもレストランも、自分の手札にする気だ)
そうしてなにをなすつもりなのかを、魔術師がこちらに教える気はないのだろう。
たとえ、こちらが察したことに気づいたとしても。
しゃらりと夜の流砂が垂れた。
――シハースィ。説明しに来なさい。
それは夜の魔女だけが開くことのできる、夜の国へ繋がる路だ。
(あ、揺れた?)
――……そなたはそんなにも馬鹿者だったか。
頭に直接響く声に、魔女の苛立ちが乗る。
愛情深い夜の魔女の、心配だ。それを裏づけるように、流砂の向こうから、彼女の腹心のひとりである夜風の妖精が顔を出した。
「シハースィさま。我らの女王が、歪んだ夜からあなたを守るようにと」
「ん、もう、僕の人間の友が守ってくれたよ」
「……ご友人もいっしょにお連れするようにと申しつかっております」
どこまで知られているのだろうかと。
あるいは、どこまで許容されているのだろうかと、シハースィは首を傾げた。
「ふうん? ま、いいけど」
「さあ、お早く」
有無を言わさぬ女王の命に従う旨を返しながら。
それでも、わずかにでも夜を歪めて見せた男を守ってあげたくなるのだった。
「ね、ほら……夜の紗が開くよ」