4−1 音毒のチェロ弾き
「……あれ」
不思議そうにこぼされた声に、酒の入ったグラスから視線を移す。
本日は流麗な長衣をまとい月光の竜の直系らしい典雅さを見せているシハースィは、魔術師の視線を受けて軽く首をかしげた。癖のある青い髪がはらりと流れる。
落ち着いた店内の照明を、耳もとの赤いピアスが鈍く反射した。
「なんだ」
「いま、君の名前を捨ててみたんだけど」
「……は? 今かよ」
ここは料理魔術の権威である老舗のレストラン。お互い初めての訪店であり、味、魔術、もてなし、どれをとっても上質な料理に舌鼓を打つあいだに、なにを。
さすがに意味がわからなさすぎて呆れると、「その反応、そっくりそのまま返すよ」と呆れ返される。
「なんで、繋ぎまで切ってるの」
この享楽的な竜は、どうやらまだ遊び足りなかったらしい。
先の夜会にて、魔術師は運命に紐づく名を失った。だが名前そのものは、過去の時波のなかで生きていた――世界の事実として。
そんなごくわずかな繋ぎを、魔術師は夜会から帰ったその日に剥いだ。もう自分のものではなくなった名前を、誰の記憶にもとどめておく必要はないのだ。これで正真正銘、魔術師とその名前を紐づけるものはなくなった。
積極的に捨てたわけではないが、惜しくもない。
「魔術の縛りには別のものを指定すればいいだけだからな。半端な残滓に煩わされるくらいなら、むしろ捨て去るほうがましだ」
ふうん、と目を細めたシハースィ。そんなにもこちらの慌てふためく姿を見たかったのだろうか。
「僕が返してあげるとは思わなかった?」
「いま捨てたんだろ」
「ん、そうだね……」ふ、はは、とシハースィは笑った。「名無しの魔術師か。いいね、それ」
「ったく」
表面では苦々しさを装ってみたものの、魔術師は、目の前の竜が繰りだす不意の戯れを噛みしめた。
(名を持たない登場人物、か)
思うのはいつだって、あの魔女のこと。
通行人にすらなり得ない存在に運命を揺らされたなら。
それは長命な生き物にとって、愉快な存在となりうるだろうか。
料理魔術の代名詞であるコース料理は、一分の隙もなく客に祝福を与える。
本日の天気を考慮した下ごしらえや、客層に寄せたつけあわせの選択は絶妙で、魔術師はその技術をひとつも見逃すまいと味わった。
おそらくは月光の竜の訪れに気づいたからであろう、月と親和性の高い湖のスープを出してくるなど、憎い演出ではないか。
(店ごと手に入れるなら、少なくとも、数年は見るべきだな)
本業経由でこのレストランに販路を作ることはそう難しくないだろうが、理想は魔術師として内部に入り込むこと。もともと商いをする良家の生まれである魔術師は、料理と会話によって成り立つ魔術が、自分の気質にあうことをよくよく理解していた。
「ここね、煙霧もたまに来てるって」
「諸外国の要人たちのもてなしにか」
「そ。だから個室が主かと思ってたんだけど。ホールはけっこう賑わってる、よね」
「そういう理念なんだろ」
格式高い店でありながら、音楽や歓談の声が響く賑やかな席も用意されている。昔から変わらないのだという、さまざまな共食の場面に備えられた店の配置はそのまま、創業者のルファイが大事にした料理魔術の根幹でもあった。
他の客の会話が気になるほど近くはないが、ふたりが通されたステージつきのホール席は、全体が和やかな喧騒に包まれている。
ステージでは、アコーディオン奏者と男性歌手の二人組が傾聴に対する礼を述べていた。どこか夜の国を彷彿させる華やかな郷愁の音楽がやみ、こんどは一転して甘やかなチェロの独奏が始まる。
「わ……」
「……これはなかなかだな」
「ね。いくら老舗でも、普通、レストランで聴ける音じゃない」
ふくよかに擦れたチェロの響きは切なる想いを乗せるよう。恐ろしいほどの正確さであえて外された音が、見事な情緒を奏でていた。
宮廷でも通用しそうな演奏だ。
思わぬ出会いに、どんな慈善事業かとステージへ目を向ければ、しかし、演奏者である青年はぱっとしない出で立ち。
魔術師よりは少し若い程度だろうが、よれたシャツを羽織る姿からは子どもらしさすら感じる野暮ったさである。着飾ればそれなりに見栄えもするだろうに、自分をよく魅せる方法を考えない演奏家というのは一定数いるものだ。そうして大成しないまま枯れていく。
このチェロ弾きも同じだろう。楽しそうに演奏する姿が健気にも映るのか、客席の婦人などは温かな視線を送っているが、それだけだ。
最初の違和感は、向かいに座るシハースィの表情だった。
ごくわずかな煩いに寄せられた眉根。
案じた魔術師の視線に、シハースィは「薫るね」とただひとこと。
なにがと問うまもなく。前方で、客席のあいだを行き来していた給仕の倒れるのが見えた。
皮切りに、次々と人が倒れる。あちこちで悲鳴があがる。
――悪しきものの気配だ。魔術師はとっさに魔術を展開した。
(毒だな……飲料水か? いや、それなら給仕が真っ先に倒れた理由にならない)
近くで倒れた客を観察しても、軸の揺らぎを感じるばかりで、人間の目には原因が映らない。
甘い甘いチェロの旋律が、とろけるように漂っていた。
経験値ゆえか、単に没入しているだけか、ステージの青年はかけらの動揺も見せずに演奏を続けている。
切実に、切実に。
ただ聴いてほしいのだと。
それは彼の願いだろうか。音そのものの、欲望だろうか。
秋の夜を思わせる、もの寂しげな余韻が、こちらに情愛を求めてくる。
魔女の無造作なため息や、妖精の蠱惑的な羽のきらめき。そういったものばかりを集めたような音。
こちらへ必死に伸ばされた手を掴むように、魔術師は切なる演奏に耳を傾けた。チェロの甘美を、我が身に受け入れてあげなくては、と。
(いつまでも聴いていられそうだな)
その自分の心の動きを、どこかで違和と認識しながら、それすらもと楽しむ。
痺れるように軸は揺らいで朦朧とした。
ああ、魔術をしっかり張っておかねばと思うのに。
どこまでも甘く耳鳴りがしていたから。なにもかもを委ねてしまいたくなったのだ。
ひたりと、月光を交えた指先が、魔術師の頬に触れた。
「は――」霧の晴れるように開けた意識は、シハースィへ向いた瞬間、絶望に変わる。「おい、シハースィ!」
かぷりとテーブルに吐き出された血は、魔術師の耳を飾るピアスと同じ黒さで、それが月光の竜のものであることを明白にしていた。
「こんなときに……名前を呼んでくれるん、だ」
「んなこと言ってる場合かよ」
月夜よりも青白い顔で、しかしシハースィは淡く微笑んだ。
「君が、無事でよかった。耳を塞いでおいで」
「……この演奏か」
剥がれていた魔術を、今度は明確に音の毒から守るための結界にして敷きなおす。
毒とわかってもなお、抗いがたいチェロの旋律。月光の竜すら侵すそれは無秩序に魔法と魔術を含み、途切れることなく押し寄せてくる。じりじりと結界は破られていく。
(くそ、こちらから切り出せるものがないな)
名を捨てたことに後悔はない。だが、あまりの間の悪さに、魔術師は舌打ちをした。
ホール内でまだ意識を保てているのは、客も給仕も関係なく、人ではない者ばかり。なぜか己を削りこちらを守護してくれている月光の竜も、どこまでもつかわからない。このままでは、共倒れも時間の問題だ。
そんな焦りが顔に出ていたのだろう。
シハースィは、口もとの血を拭いながら、月の欠けるように微笑んでみせた。
「ん、毒はたしかに、あのチェロ弾きのものだ。でも」
黒幕は、別。
そう言って彼はここではないどこかへ視線をやった。
「――……見つけた」
毒を奏でるチェロ弾きをこのステージへ送り込んだであろう何者かへ。
遠くを視るその瞳に、先日の夜会で貴人に向けたのと同じ酷薄を浮かべているのが、魔術師には不思議に思えた。
「友との楽しい月夜を、台無しにしたね」
削れた月光を不快そうに撒き散らしながら、シハースィは、凄烈な一閃を迸らせる。
自分の領域にあるものを汚されたことに対する苛立ちを。
(この竜は、こんなふうに人間を内側へ入れるのか)
報復というにはあまりに利己的な強さで。