師匠は鐘の如しですわ
カンカンカンッと訓練場に響く音。
王城内にある騎士訓練場ではいま、シーラの大切な婚約者、ズーラウンド王国の第二王子ウィリアム・ライオネスが騎士たちに交じり汗を流していた。
「さあさあ、愛しの婚約者様が見ていますよ殿下、もう一歩踏み込んできて下さい」
「ハッ!」
「いいですよ、そう、そう、もっと体重をかけて」
「ヤッ!」
ウィリアムを指導するのは子熊将軍ことジクトール・グリズリー、御年64歳。
老体を物ともしないその機敏な姿に、二人を見守る騎士以外からも感嘆の声が漏れる。
「ぬふぉお、ジクトール様はかっこいいですぅ」
そんな令嬢らしからぬ声を上げる人物は、勿論シーラしかいない。
幼少より熊将軍推しなのでそこは仕方がないだろう。傍には誰もいないのだ、存分にシーラ流の吐息を流してほしい。
今日は月に一度だけ許された、ウィリアムの剣の訓練の見学会。
熊将軍に会えるこの日をシーラは何よりも楽しみにしていた。
木陰に設置されたベンチへ座り、シーラは熱い視線と声援を送る。
「頑張ってくださいませ~」
(ジクトール様は本当に素敵です!)
残念ながらシーラが応援するのは自身の婚約者ウィリアムではなく、教官役のジクトール。
彼の剣の一振り一振りが美しくて仕方がない。
ウィリアムのウインクにはまったく反応しないシーラだが、ジクトールの吐く息や豪快な笑い声には思わずうっとりとしてしまう。
「ガハハハ、殿下、この老体に勝てないようでは愛しの婚約者様は守れませんよ」
「クッ、ジクトール殿に勝てたら国一番の騎士になれてしまうではないか」
「ハハハハッ、我が弟弟子ならばそれぐらいは目指して頂かないとですね」
「クソッ、これでどうだ!」
「ハハハハッ、甘い甘い甘ーい!」
会心の一撃とも言えるウィリアムの剣を、ジクトールはいとも簡単にいなしては弄ぶ。
そんな姿をうっとりと見つめるシーラはまさに恋する乙女そのもの。
頬を赤く染め、普段釣り目気味な瞳はとろんと蕩けたマシュマロのようだ。
「シーラ様はウィリアム様にぞっこんだな」
「そりゃそうだろう、あれだけの美丈夫だ。どんな女性だって夢中になるさ」
「その上ジクトール様の厳しい指導に耐える根性迄あるんだからな、俺が女だったとしても惚れてしまうだろうな」
アハハハハと笑い合う騎士たち。
確かに周りから見れば、稽古を見守っているシーラはウィリアムにぞっこんラブに見えてしまう。
だがその視線の先に、残念ながらウィリアムはいない。
シーラが見ているのは子熊将軍ジクトール・グリズリーのみ。
それが分かっているからこそ、ウィリアムの剣にも力が入るのだ。
せめて茹でたトウモロコシ以上にはなりたい。
そんなウィリアムのささやかな希望はいまだ叶っていなかった。
「よし、休憩だ、皆しっかり休めよ」
休憩時間になると、シーラが動き出す。
ジクトールとウィリアムの傍に行き、サッとタオルを差し出した。
「お疲れ様でございます。凄く素敵でしたわ」
シーラの賛辞に汗を拭きながらガハハハと笑うジクトール。
「お熱いですなー」とウィリアムを揶揄うが、その言葉が誰に向いているのかウィリアムにはよく分かっているため素直に喜べない。
だが周りから見れば婚約者の素直な賛辞に照れているだけに見えるため、二人の仲の良さは周知の事実となっていた。
「ジクトール様、宜しければこちらをどうぞ」
「シーラ嬢、これは何ですかな?初めてみますな」
「レモンの蜂蜜漬けですわ。疲労回復効果がありますの」
「ほう、疲労回復、レモンにそんな効果があるのですか?」
「はい、妃教育で習いましたの」
「おお、それはそれは、習った事をすぐ実践して見せるとは、殿下、すばらしい婚約者殿ですね」
「……はははは……」
「ウフ、恐れ入りますわ」
ジクトールはシーラがウィリアムの為にレモンの蜂蜜漬けを用意したと思っている。
そしてウィリアムよりも先にその蜂蜜漬けをジクトールに食べさせたのも、毒味の為だとそう思っている様だ。
だがウィリアムにはシーラの気持ちが分かっている。
なので誰の為に蜂蜜漬けを用意したのかも、十分に理解していた。
その為ジクトールに揶揄われても苦笑いしか出ない。
我が婚約者は貴方に夢中なのですよ。私の方がオマケなのですよ。
そう叫びたいウィリアムだった。
「さて、では次はシーラ嬢の訓練と行こうかな」
「はい、ジクトール様、よろしくお願いいたします」
ジクトールとの訓練にふんすと気合いを入れるシーラ。
実際剣を振るう訳ではなく、急な襲撃に備え反射神経を鍛える訓練ではあるが、その目は真剣だ。
まだウィリアムとシーラが婚約したばかりの頃、新女傑歴伝を読んだシーラが突然「何かあったらわたくしが身をていしてウィリアムさまを守ります!」と変なスイッチを入れてしまった。
当時8歳だったシーラを盾にし、ウィリアムが逃げる。
その現状を想像したウィリアムはシーラに逃げる訓練を受けさせる事に決め、自身の訓練もより厳しいものに変えることに決めた。
本人の強い希望でシーラにも剣を持たせたことはあった。だが嬉しいことにシーラには剣の才能はなかった。当然だ、普段本ばかり読んでいるシーラに基礎体力などある訳がないのだ。
それもあってか、「ウィリアム様、私の屍を超えて逃げて下さいませ」とシーラがもっと怖いことを言い出した。はい、そうしますとは言えないウィリアム。
「共に敵に立ち向かい共に生き残る道を選ぼうじゃないか、シーラ」
そんなウィリアムの言葉はシーラの琴線に触れたらしい。
「ふぉお、共に生きる道!」とブルブル震えだしたシーラは目を輝かせて喜んだ。
可愛いよと褒めても全く喜ばないのに理不尽なものである。
シーラへの賛辞は英雄伝から抜粋するに限るとウィリアムは学んだのだった。
それからと言うもの、シーラは反射神経を鍛える修行に力をいれていた。
「そ~れ、いきますよ~」
「はい!」
ジクトールが投げる小さなボールを一生懸命避けるシーラ。
ウィリアムからは遊びに夢中な子猫にしか見えないが、本人がとても真剣な為笑う訳にはいかない。
だが押さえても口元がフニフニと動いてしまう。自分の婚約者が可愛くって仕方がない。これが惚れた弱みというものだろか。
「うんうん、シーラ嬢、いいですよ~」
「はい!私はどんな攻撃からも逃げ切りますので!」
ウィリアムの時の容赦ない指導とは違い、ボールを投げるジクトールは実に楽しそう。
孫娘と爺が戯れているようで微妙に腹が立つ。シーラの気持ちを知っているからだろうか。
「殿下、シーラ様は素晴らしい婚約者様ですね」
「本当に、殿下の為に体を鍛えるだなんて物凄く愛されているんですね。中々出来る事ではありませんよ」
「……う、うん、まあね……」
騎士たちの賛辞を素直に喜べないウィリアム。
シーラのキラキラと輝いた視線の先にいるのは残念ながら自分ではなくジクトールなのだ。
「はあ、茹でたトウモロコシは、まだ茹でたままなのかな……」
そんな事を呟きながら食べるレモンの蜂蜜漬けは思った以上にすっぱいものだった。