隙間のある古本屋
幼い頃は、「あのおもちゃまで自分の足で歩きたい。」「両親と同じように、ご飯を箸で食べたい。」「自分で鞄を持ちたい。」と、常に心の声に忠実に従っていた。それが当たり前だった。
だけど、歳を重ねていくにつれ、私は心の声が聴こえなくなった。
電車の音。人が歩く音。店から聞こえるBGMの音。サイレンの音。この街の音は全部聞こえるのに、学校で、教科書の登場人物の気持ちを想像できても、私の心の声だけは聴こえなかった。
私の毎日は、一歩ずつ崖の先端に向かって歩いているようだった。大股に進む日もあれば、半歩だけ進む日もある。
ある日ついに、崖の先端まで来た。もう私の前に道はない。崖の下を覗くと濃藍色をした穏やかな海があった。足がすくんだが、無気力な日々から解放されるのであれば、この海に身を投げ出してもいいと思った。来世で私は何に生まれ変われるのかなあ、なんて考えながら、右足を宙に浮かせた。
――私は、まだ死にたくない。
海に身を投げ出そうとした瞬間、心の声が聴こえた。宙ぶらりんになっていた右足を、地面に戻した。そして、一歩後ろに下がった。私の心は、ここじゃないどこかに居場所を探していた。
心の声が聴こえたあと、それを丸坊主の背の高い友人に打ち明けた。すると彼は、分かった、とだけ言って数日後、知り合いの古本屋を紹介してくれた。私は、そこで当分の間、働くことになった。その古本屋は、日本地図の左下の方に申し訳なさそうに小さく載っていた、ここからうんと離れた島にあった。
友人の人脈の広さに驚きつつ、背中を押してくれたことに心から感謝した。その小さな島に私は、少しだけ明日を見ることができた。
小さな島にも空港があるらしく、飛行機で島へ行くことにした。フライト中、これからの生活への不安が次々と顔を出した。私はその不安をハンマーで叩いて1つずつ潰した。そのモグラ叩きのような工程が、ずっと続いた。
島について飛行機から降りると、湿気を多く含んだ空気に包まれた。手荷物を受け取り、空港を出た。すぐ目の前にあるバス乗り場で、知らない行き先を示しているバスに乗り込んだ。
バスは、見渡す限りのサトウキビ畑の道をぐんぐん進んでいった。30分ほどバスに揺られ、だんだん緑の景色が少なくなると、家や学校がぽつりぽつり現れ始めた。
目的地に近づくにつれ心臓は、1音1音強く脈を打ち、全身に血液を送り出した。
バスから降りて、5分ほど歩いた場所に目的地はあった。
古本屋は、コンクリートがむきだしになっていて、四角い形をしていた。振り返るとあたり一面の海が広がっていた。
店の戸は引き戸で、店先にはOPENと書いてある木製の看板が立てかけてあった。
その前で、深呼吸をする。ここで私の新しい生活が始まるのだ。おそるおそる右手を戸にかけ、ゆっくりと開けた。
店内には、店主らしき小柄な老人が一人で、本棚に本を陳列させていた。緊張で固まった口をこじ開けて、老人に声をかけた。
「あ、あの。」声が裏返った。「今日からここで働かせていただく者です。あ、えっと……。」
「マスターって呼んで。」ただ一言、店主は言った。独り言だと勘違いしてしまいそうになったほど、小さな声だった。
「あ、はい。マスター?」と戸惑いはあったものの、すぐにその指示に従った。マスターは、それでいいというように軽く頷いた。マスターは作業をやめ、入口に突っ立っている私にちらっと目線を送り、顎で店内へ入るようジェスチャーをした。
店内には、埃っぽい匂いが染みていた。マスターは、荷物を店の奥にある丸い木の机に置くように促し、そのまま奥から順に店内を紹介してくれた。紹介をしてくれている時も、マスターの声は小さかったが、不思議と聞き取りやすかった。私は、自然とマスターの声に集中していた。
店内は、本が埋まっていない本棚がいくつかあり、全体的に寂しい印象だった。
「本、少ないだろ。」マスターは、ぼそっと呟いた。私は、本音が口からこぼれていたのかと思い、唇を少しきつく結んだ。
「いや、えっと……。はい、思いました。」実際にそう感じたこと自体を否定して、嘘をつこうとした。だが、宝物を見つめる子供のような眼差しで、本棚と向き合うマスターの横顔を見て、やめた。この空間では、嘘をついてもこの老人に見透かされる気がした。マスターはまた、それでいいというようにうん、と軽くうなずいた。
「君は、本棚に本がびっしりと並んでいる店は、何を失っていくと思う?」
唐突な問いかけに、私は首を横にも縦にも振ることができなかった。
「出会いだよ、出会い。もし、この店の本棚全てが隙間なく本で埋められていたら、ここに来るべきだった本の居場所はなくなる。そしてこの店は、出会うべき本に出会えなくなっていくだろうね。だから、私はこの店の本棚に、隙間を作ることにしている。なんでも持ちすぎは良くない。ちょっと隙間があるくらいが丁度いい。」
マスターの話を聞いてから見る本棚の隙間には、可能性が見えた。
「本は、いつの時代も人々の心の友人となって支えてくれる。だけど、本にも休暇が必要だ。古本屋は、本たちの休憩所でなければならない、と私は思う。勘違いされやすいが、ページの端々がよれ、紙が黄ばんで埃っぽい本は、ぞんざいに扱われてきたわけじゃない。それだけ、持ち主たちの良き友人になっていた証。大切にする仕方も、人それぞれだから。」
「本が友人、ですか。」
「そう。本の友人たちは、今まで人々に多くのことを問いかけた。愛とは何か。諦めるとは何か。孤独とは何か。自由とは何か。とか色々。時に難しい問いを投げかけてくることもある。しかし、本は人々がその問いの解釈を導き出すまで、ずっと待っていてくれる。」少しの静寂をまたぎ、本棚を見つめたまま、マスターは私に問うた。
「君は、これからをどう生きたい。君という人生の小説に君は何を綴る。」
その問いの答えを今すぐ言わなければいけない、と思わなかった。マスターは、この島で過ごすことを決めた私に、課題を与えてくれているのだと感じた。私は、マスターの横顔に向かって、一音一音に覚悟と決意を込めて言った。
「問いが壮大すぎて、まだ私には分かりません。ただ、それを見つけるためにこの島へ来ました。」少し顔の表情を緩める。「分からないことだらけで、お店にご迷惑をかける時もあると思います。でも、マスターやこの店の役に立ちたいです。これからどうぞよろしくお願いします。」そう言って、私はマスターに深くお辞儀をした。これが今の私に言える精一杯の返事だった。
顔を上げると、マスターの目尻に皺が寄り、少し上がった口角の隙間から、銀歯が光っていた。
「ああ、それでいい。分からないことが見つかるというのは幸せなことだから。君は、この島でいろんなことを間違い、そして悩むだろう。そう、何度でも間違いなさい。ただその度に、決して考えることを放棄してはいけない。ここで私から君へ教えることは、何もない。君が勝手に学んでいくべきだ。人間は、自分次第で今までだって、これからだって自由になれる。」
私は、マスターの言葉を噛み締めるように、何度も頷いた。
「さて、次はレジへ行こう。こっちにおいで。」
レジへ向かうマスターの後ろ姿に、もう一度お辞儀をした。
――私は、ここで生きたい。
また、心の声が聴こえた。