75.恢復 2 ~side K~
越後北外れにある『冬之領域』は、冬を司る『黒龍』が守護していた区域だ。
守護神龍の不在で、北方の守りが手薄になった。
それ以降、ここは国衆に護らせているが、兼継としてはここに来るたびに館正宗への怒りが再燃する。
戦中に、傷ついた黒龍を捕らわれた。それはこちらの落ち度だ。
しかし神龍と無理矢理に契約を交わし、あまつさえ傷を癒す事なく使役を続けている舘を、兼継は赦すことが出来なかった。
「奪われた龍を取り返す事は、私闘にならない。惣無事令にも違反しません」
何度も主君に進言したが、影勝は首を縦に振らなかった。
「黒龍は、己が守護すべき「北」に、護るべきものを見つけたのだろう」
そう言って。
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神龍の加護が無いのだから、北は越後領内で、一番治安が悪い。
そしてそれ故に、人が近づかない。
数少ない冬の花が咲く『冬之領域』。
神力の残滓で咲く白椿の下に 雪村は居た。
案の定、呑気に倒れていて、すうすうと寝息をたてている。
花押を刻んでおいて良かった。
霊力を辿ってここを探り当てた兼継は、傍に膝をついて白い頬に触れ、安堵の吐息をついた。
人目につかぬようにと此処に来たのだろうが、不用心に過ぎる。
ここは神龍の加護が無いのに加えて、館の領地に隣接している地域なのだから。
国衆を信じぬ訳ではないが、野盗がそこから入り込み、人狩りを行わないとは言い切れない。
ましてや、見目好い若い娘がこんな所に転がっていては、何が起こるか知れたものではない。
いつも兼継が 一番初めに回収できるとは限らないのだから。
それを考えるとぞっとする。
今の世は、負け戦となれば当然のように「乱取り」という人狩りが行われ、花押で繋がったが故に、知りたくもない悲劇を知った例など、枚挙に暇がないのだ。
雪村をそのような目に遭わせる訳にはいかないし、何かあっても助けに行けない状況に陥っている事も、十分あり得る。
越後と信濃では、手を差し伸べるには遠すぎる。
だからこそ「自覚しろ」と、何度も言っているのだが、本当に全く伝わる気配がないのはどうしたものだろう。
……寝顔を見つめて考え込んでいた兼継だったが、ふと我に返った。
もうすぐ日が暮れる。
いつまでもこうしてはいられない。
「雪村」
名前を呼びながら軽く頬を叩くと、ゆっくりと瞼が開き、榛色の瞳がぼんやりと兼継を見上げてきた。
「かねつぐどの……?」
名を呼ぶ声もあどけなくて、兼継は頭を抱えたくなった。
本当に無防備すぎる。
「こんな所でひとりで倒れるのはやめてくれ。生きた心地がしない」
正座でもさせて真剣に叱りつけたいが、今は何を言っても聞き流されるだろう。
ぐっと堪え、華奢な身体を抱き起こす。
奥御殿に戻れば、勝手に抜け出した事で、老女がおかんむりだろう。
二人がかりでお説教だ。覚えておけ。
それにはまず連れ帰らなければならないが、雪村は馬に乗れるだろうか。
今は寝ぼけているようだが……もう少し意識がはっきりするまで待つべきか?
「私に抱きつける程度には力が入るか?」
危ぶみながら問いかけると、はい と小さく返事が返り、細い腕がゆっくりと 兼継の首にまわされた。
「……!?」
一瞬固まり、まじまじと雪村を見下ろしたが、やはり意識がはっきりしていないのだろう、抱きついたままうとうとと眠りかけている。
この期に及んでもこれか。やはり意識しているのは自分だけで腹が立つ。
……いや、違う。これは意識したのではない。
急に予想外の事をされて、驚いただけだ。
「これから馬に乗るが、私に掴まっていられるかどうかを聞きたかったのだが……」
兼継はこほんと咳払いをして、困惑した風を装った。
ぼんやりしていた榛色の瞳に徐々に意識が戻り、言われた事を理解したのか、首に回された腕がそろそろと解かれる。
「……ごめんなさい……」
両手で自分の顔を覆い隠して俯いた雪村が、小さく呟いた。
頬も耳も真っ赤に染まっていて、兼継に抱えられたまま小さく縮こまっている。
やっと照れたな。
上手く策が嵌まった時のような達成感。
それを押し隠して兼継が笑うと、うなじまで赤くなった雪村がますます小さく萎縮する。
手を退けて、どんな顔をしているか見てみたいが。あまり苛めると泣いてしまうかな。
そこは諦めて「立てるか?」と委縮した背をぽんと叩いた。
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「どうして私があそこに居るって分かったんですか?」
帰り道の馬上。
兼継の背に抱きついた雪村が問いかけてきて、兼継はふと考え込んだ。
男の感覚が抜けていない雪村に「花押の霊力を追った」と馬鹿正直に伝えるのは愚策だ。
そもそも、双方の『合意』が無ければ、花押の刻印は出来ないのだ。責められる筋合いもなかろうが、それでも騙し討ちに近かった自覚はある。
探りを入れてみるか。
兼継は微妙な匙加減で、嘘と本当を混ぜ込んだ返事をした。
「霊力を追った。朝に修練場で、お前の額に手を当てていたのは覚えているか? その時に少し私の霊力を入れたのだが……」
「花押みたいですね」
途端に雪村は、兼継が匙で掻き混ぜまくってぼかした単語を口にする。
そのあっさりとした物言いに、ああ、やはりな と雪村の返事を聞いた方は内心がくりと肩を落とした。
花押「みたい」か。
花押だよ。やはり覚えていなかった。
だいたい額に手を当てただけで簡単に霊力など注げるものか。そんな事が出来るなら、熱を測るだけで大騒動だ。
相変わらずの鈍さに、文句のひとつも言いたくなるが、下手に話を振って信倖の耳に入っても面倒な事になる。
信倖に認めさせるには、もっと長期的な策が必要だ。
いや、今は信倖の事は置いておこう。
大人しく背に張り付く雪村に意識を戻し、兼継は考え込んだ。
改めて「花押を刻印した」と告白するには、雪村にその気が無さ過ぎるが。
「花押みたい」に兼継の霊力が自分の中にあると聞いた今、それをどう思っているのだろうか。
尋ねるべきだと逸る気持ちと、不興を買ったのでは、と塞ぐ気持ちが鬩ぎ合うのは、やはり混乱に乗じて策にかけたという負い目があるからだろうか。
それとも愛の告白、その返事を聞くのに近い心境になるからなのか。
「……嫌だったか?」
尋ねる声が、我知らず小さくなる。
時を置かずに、背中越しに首を横に振る仕草と「私は安心できます」と柔らかな声が返ってきて、兼継はまっすぐ前を向いたまま、深く深く、安堵の息をついた。
とりあえず第一関門は突破した。
策には掛けたが、本人の同意を得られたなら、調略は上手くいったという事だ。
こうして見ると、雪村も案外策士だな。
野で倒れていた時は、こてんぱんに叱ってやるつもりでいたのだが。今となってはどうでも良くなってきている。
いや、どうでも良くはないから、今度やらかした時まで持ち越しにしておこう。
奥御殿に連れ帰り、かんかんに怒っている老女につい「疲れているようだから大目に見てやってくれ」と庇ってしまった兼継は、「上森の執政が籠絡されるとは何事ですか!」と、とんでもない勢いで叱り飛ばされる羽目になった。




