65.改変者 6 ~side K~
表情だけの問題ではなかった。何から何まで鈍すぎるし疎すぎるし盆暗すぎる。
自分が今、何を言ったのか、本当に解っているのだろうか。
……こうなったら、徹底的に教え込まねばならない。
何かあってからでは遅いのだ。
+++
「いいのか? 戻る保証はどこにもないぞ」
押し倒した雪村に、兼継は念押しした。
本当に治る保証などどこにも無いのだ。それでも良いと思っているのか?
いや、絶対にそこまで考えてはいまい。
いよいよとなった時には、雪村は必ず怖気づく。
今は、それが通じない場合もあるという事を、思い知らさなければならない。
ぎりぎりの所まで追い詰めて、しっかりと説教をしよう。
兼継は改めて 雪村を見下ろした。
声もなく見上げてくる 動揺と不安を滲ませた瞳。微かに震えている華奢な身体。
しっかり言い聞かせれば良いだけだ、そう思っていたはずなのに、雪村の怯えた表情に 兼継の気持ちが、ふと揺らぐ。
こんなに怖がっているのに、姫を守るために一刻も早く戻りたいのか。
その為なら、身を投げ出す事も厭わないのか。
……そんなにあの姫が大事か。
そう思うと 無性に腹が立つ。兼継は折れそうなほどに細くなった手首を掴むと、そのまま床に押さえつけた。
反射的に払いのけようとしたのか、雪村の身体が身じろいだが、思った通り、抵抗する力は女子供と変わらない。
その事に雪村自身が驚いたらしく、息を呑む気配がした。
組み敷いたまま掛衿に手をかけると 華奢な身体がびくりと跳ねる。
心臓が早鐘を打っているのが 薄い寝間着越しに伝わってくる。
「ゃ……っ!」
必死で抵抗しているらしき雪村が、小さく悲鳴をあげた。
「雪村、嫌なら私を撥ね除けろ。しかし今のお前では出来まい」
「か、ねつぐどの……」
「お前は解っていないのだろうがな、男にあのような事を言えばこのように手痛い目にあう。私ならそうしないと思ったか?」
可哀そうだが、ここでしっかり教えておかねば。
不用意な態度を取ると 手痛い目に会うこと。
今は何かされたとしても、 抵抗し切る力が無いこと。
このままでは心配で、手放す事など出来ない。
自分が望んだせいでこのような事になったのなら、他の男になど委ねたくない。
それならいっそ自分の手で、男に戻してしまおうか。
契っても戻らなければ、責任を取って娶れば良い。
……
…………
………………何だそれは。
自分の思考に兼継はしばらく固まり、次いで愕然とした。
冷静なつもりだったが とんでもなく混乱している。
手が塞がっていなければ頭を掻き毟りたい気分だが、今、手を離せば、すべてが台無しだ。
そもそも雪村が悪い。
兼継は怯えた表情で見上げてくる、小さな顔を見つめた。
つい数刻前まで男だった癖に、何故そんなに、可憐な娘のような所作が身についているのだ。そんなものを見せられては混乱して当たり前だろう。少しは剣神公や花姫の、恥じらいの無さを見習え!
方針変更だ。
面倒な事など考えず 男に戻す。
それで戻れば良し。戻らなければその時はその時だ。
前に剣神公にも言ったではないか。
「何事も試してみなければ判りません」と。
意を決し、改めて寝間着の掛衿に手を掛けた その瞬間。
雪村が慌てたように口を開いた。
「兼継殿、申し訳ありません、私は」
「……」
案の定、雪村が怯んだ。
「やはりな」という思いと「よりによって今か」という思いが交錯したが、方針を変えるつもりはない。
兼継は、あえて冷たく言い放った。
「今更引いて貰えると思うな。煽ったのはお前だろう」
「……っ」
これ以上、話を聞くつもりはない。
口を塞ぐつもりで顔を寄せた兼継が、そのまま固まる。
見開かれた雪村の瞳から 涙が零れ落ちていた。
*************** ***************
「……すまん。脅かし過ぎた」
兼継は壊れ物を扱うように、そっと雪村の身体を抱き起こした。
乱れた髪を優しく梳くと、胸元に縋った雪村がしくしくと泣き出す。
結局、兼継も怯んだ。
自分のせいでこのような事になったのに、泣くほど追い詰めるのはやり過ぎだ。
子供の頃から、泣いた事などない雪村を泣かせてしまい、我に返って手を止めた兼継だったが、実際のところ、問題は全く解決していない。
いや、むしろ事態は悪化している気がする。
自分に縋り付いて泣く雪村を「可愛い」と思い始めたのだから。
兼継は深刻に 頭を抱えたくなった。
これは本当に雪村なのか? どこから見ても可憐な少女だ。
別人としか思えない。
我ながらよく止められた。何というか……己の鋼の精神力を褒めてやりたい。
「こんな事を強いても、戻れる保証などないのだ。落ち着いて戻る方法を探そう。だがこれだけは忘れるな。お前は今までとは違う。決して自分の力を過信するな。軽率な言動は控えろ。そして何かあれば私を頼れ」
髪を梳く手を止めて言い聞かせると、兼継に縋り付いた雪村が、こくんと頷く。
薄い寝間着越しに感じる 柔らかな身体を抱いたまま、兼継はふと気が付いた。
朝になれば、こんなに頼りなげになってしまった雪村を 手放さなければならない。
当たり前だ。雪村は真木家当主の弟なのだから、大阪での謁見が終われば信倖と共に信濃に戻る。
手放し難い。どうにかして手元に置く方法は無いかと、無意識に探っている兼継の方がおかしい。
……いや、おかしくなど無い。
私のせいでそうなってしまったのなら、自分が保護して然るべきだ。
責任は取らねばならないだろう。兼継は、若干強引に思い直す。
「私があのような事を望んだせいで、罰が当たってしまった。私はどう詫びたら良い?」
囁きかけても、雪村は泣くばかりで返事はない。
ならば
「すまない、という言葉では到底足りない。もしもこのまま戻れなかったら、責任はとる。私の妻になってくれ」
頬に触れ、涙に濡れた顔を上向かせると、泣き顔を見られるのを嫌がるかのように顔を伏せる。頷いたように、見えなくもないだろう。
今の雪村は混乱していて、状況をよく理解していない。
それと知って仕掛けるのは卑怯かも知れないが、兵法三十六計の第五計に趁火打劫というものがある。
敵の被害や混乱に乗じて行動し、利益を得るのは立派な兵法だ。……このような場合も該当するかどうかはともかくとして。
混乱していようが、よく理解していなかろうが関係ない。
戻らなければ私のものになると 確かに了承したのだから。
言質は取ったからな。
雪村の前髪を軽く払い、額に触れるだけの口づけを落とす。
額に淡く輝く花押が刻印され、溶けるように消えていく。
せめてこの姿の間は、私のものでいて欲しい。
代わりに、お前の望みはすべて叶えるから。
……たとえそれが 男に戻る事であったとしても。
雪村が泣き疲れて眠るまで、兼継はあやすように背を撫で続けた。
「この状況で、よく寝られるな」と、半ばその疎さに感心しながら。




