64.改変者 5 ~side K~
しばらく兼継は動けなかった。
まさかこんな事が。ありえない。
しかし現実問題として、目の前には時間を遡ったような雪村が居り、縋るような視線で兼継を見上げている。
「あの、目を覚ましたらこのような姿になっていて。私にはどうしていいのかわかりません。兼継殿、助けてください」
戸惑ったように訴える少し高めの声音も、記憶にある幼い頃の声に似ている。
五年前に戻っている。……いや、少し違う。
すっと通った細い喉も嫋やかな姿態も、十五の『男』のものではない。
「ありえるのか? こんな事が……」
くらりと眩暈がした気がして、兼継は額を押さえた。
まさか、まさかとは思うが。
このように『ありえない事』が起きたのだとしたら。
それは「雪村が女子であれば」と自分が願ったせいではないだろうか。
私は愛染明王の憑代だから。
そのせいでこんな事になったのだとしたら、どう雪村に詫びたら良いのだろう。
いや、詫びて済む問題ではない。
……何としても元の身体に戻さなくては。その為なら何でもする。
何か方法は無いのか。
しかしいくら考えたところで、人が男から女になるなど聞いた事もないし、何とかしたくとも、兼継自身が愛染明王そのもののように、神力を揮える訳でもない。
広く世を見渡せば、性を転換させる生物が居ないわけではない。
しかしそれらは繁殖を目的としていて、人のそれとは違う。いや、しかし……
「陰陽転化という言葉がある。陰極まれば、無極を経て陽に転化し、陽極まれば、無極を経て陰に転化するという。陰は女性、陽は男性を指す。雪村の陽の気が極まって陰に転化した。ということなのかも知れぬ」
「ではどうしたら元に戻れるのでしょう?」
何時になく自信無さげな兼継に、雪村も戸惑いがちに聞き返す。
当たり前だ、兼継自身にも解らないのだから。
兼継はしばらく沈思した後で首を振った。
このような非常時に、自分を頼ってくれた雪村の期待には応えたいが、なにぶん問題が難しすぎる。
「私はあいにく、そういった人間を見たことがない。保証はないが……陰の気が極まればまた陽に転化するのではないか、と思う」
「陰の気を極める……女性を極めろという事でしょうか?」
「理屈としては。しばらくそのままで居るしかないかもしれんな」
そう答えた後で、はたと兼継は思い至った。
大変な事態になってしまった。しかし物は考えようだ。
雪村が女子になったのだとしたら、しばらくは桜姫も手は出せまい。
その間にもう少し、雪村が精神的に成長し、人を見る目を養ってくれれば良い。
いや、恋愛感情に関しては盆暗なだけで、人を見る目が無い訳ではないのだ。
実際に武隈との戦の折には、武隈の間者だった安芸を調略し、寝返らせてみせたではないか。
東条家重臣の娘である安芸を死なせたとなると、上森にとっては分が悪い。間者と見破られて処分されたと解っていても、東条はそれを認めない。
それでもあえて雪村に「処分」するように伝えたのは、雪村にそのような調略は無理だと思ったからだが、それが出来たことは意外だった。
策ならば出来るのだから、もう少し時を稼げば雪村にも解るようになるだろう。――あの姫の邪悪さが。
それを解った上で良いというなら、もう止めない。
いつか必ず、元の身体に戻してやる。
だが、しばらくはそのままで居てくれ。
そう思っていたのに。
しばらく逡巡していた雪村は、よりによってそれを言うか、と頭を抱えたくなるような事を口にした。
「でもこれでは姫をお守りできません。兼継殿お願いです。何とかなりませんか?」
「親の心 子知らず」とはこの事だ。
別に兼継は親ではないけれど。
「何とかと言われてもな……」
兼継の眉間に皺が寄ったのは、「雪村には待つ気が無い」と知れたせいだけではないだろう。
しかしそれが望みならと、暫し目を伏せて考え込む。
人は、母親の腹の中で性別が決まり、生涯変わる事は無い。
しかし途中で性別が変わる生き物も居る。それは軒並み種の保存・繁殖の為だ。
その法則は、人にも当てはまるのだろうか。
そして『女性を極める』事は、性の再転換に繋がるのか……?
雪村にはああ言ったが、『陰陽転化』とは本来、そういった意味ではない。
当たり前だ。人は自然に性転換する事など無いのだから。だが……
「……そうだな、子を成せば一息に陰の気が極まるかもしれん。これは女性にしか出来ないことだから」
「分かりました。ではそうします!」
ほっとした様に返事をする雪村に、兼継は「やはりな」という思いと同時に 暗澹たる気分になった。
やはり子供だ。言われた意味を、絶対に理解していない。
疑わしそうな視線を向ける兼継、案の定、雪村は不思議そうに見返している。
「……雪村、私の言っている意味が解っているか?」
「?」
「男と契れ、と言っているのだぞ」
「……」
勢いだけで言っていたらしい雪村の顔が、きょとんとした後で、やっと意味を理解したのかみるみる赤くなる。
兼継は軽く苦笑して、恥ずかしげに俯いてしまった雪村の頭を撫でた。
いつも結わえている髪が下ろされていて、指の間をさらりと流れる。
絹の糸みたいだな、子供の頃から手癖のようにしてきたのに気付かなかった。 ……女性になっているから 特にそう感じるのかもしれないが。
しかしいつまでもそうしている訳にもいかない。
髪を梳く手を止め、雪村の肩に手を置く。
「朝になったら、美成に相談してみよう。あいつは日ノ本各地の情報を把握している。こういう事案も聞いたことがあるかもしれん」
さて、そろそろ邸まで送らなければ。
男ならともかく、今はこのまま放り出すわけにはいかない。
ましてや泊めることなど、ますます出来ない。
信倖への使いを手配しようと、立ち上がりかけた兼継の、袖が引かれた。
見下ろすと、雪村の手が幼子のように掴んでいる。
もう一度、身をかがめて雪村へと向き直り、兼継は雪村の言葉を待った。
頼りなげな瞳で見上げてくる幼さの残る顔は 本当に少女のようで、雪村ではない別の何かを見ているようだ。
改めて兼継は、痛くもないのに頭痛がしてきた気分になった。
このような表情をされては、桜姫の毒牙にかかる前に、他の男の手にかかる。
まさかそんな心配事が、新たに発生するとは思ってもみなかった。
剣神公や花姫はアレだったのに、何故、つい数刻前まで男だった雪村がこれなのだ。
『男』の雪村が桜姫の毒牙にかかるのは、ある意味自業自得だが、『今』の雪村に何か起きれば それは自分の責任だ。早急に何とかしなければならない。
まず、今は女性の身体だという自覚を促して……
袖を掴んでいた雪村の手に力が入り、思考に捕らわれていた兼継は、ふと雪村に意識を戻した。
「雪村?」
「か、兼継殿。私は一刻も早く男に戻らねばなりません。だからその……」
兼継の胸元に、先刻まで撫でていた小さな頭が こてんと凭れ掛かる。
「お願い、できませんか……?」




