63.改変者 4 ~side K~
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昔の事を思い出していた兼継は、ふと我に返った。
記憶にある姿から 見違えるほど大きくなった雪村が、床に伏している。
子供の頃のように、鯉が作る波紋に目をまわした訳ではない。
今日は本当に体調が悪いようだ。
熱があるのに青白い顔の雪村を見遣り、兼継は首を傾げた。
少なくとも子供の頃は、暑気あたりなど一度もしていない。
このような顔色を見るようになったのは、霊力を鍛えさせ始めてからだ。
『剣神公は、陰虎の霊力を高める為に養子に迎えた』
雪村の霊力鍛錬を始めた頃は、まだその事を知らなかったが、とにかく剣神には出来たのだ。毘沙門天に出来て愛染明王に出来ぬはずは無い。
そう思ってした事だが、陰虎の父は霊獣を使役する大名だ。その様な素地のない子供の身体には、負荷が大きかったのかも知れない。
影勝様の為になればとした事が、雪村の負担になったのだとしたら、申し訳ない事をした。
結局は影勝様の為にも、雪村の願いを叶える事にも繋がらなかったのだから。
「薬湯はお飲みになられたのですが、熱がまだ下がりません」
雪村を看ていた侍女が心配そうに額の手拭いを取り替えたが、医者を呼ぶほどではないだろう。
そこまで高い熱ではないし、先刻までは美成と会話も出来ていたのだから。
「今日はもう下がって良い」
侍女を下がらせ、兼継も部屋を出た。
薬湯を飲んだのなら熱はじきに下がるだろうし、あまり過保護に構うのもどうかと思う。
本人も言うように「もう子供ではない」のだから。
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「これは……」
手にした冊子を流し読みしながら、兼継は思わず眉間を押さえた。
自室に戻り、休むにはまだ早いからと何気なく手にした冊子は、兼継の予想の遙か斜め上を行くものだったからだ。
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遡ること数か月。
越後の侍女衆が『写本の内職』をしていると知った雪村から「武隈領で推奨している紙漉きを、閑散期の内職に取り入れてはどうか」と提案されたのがそもそものきっかけだ。
上方では専門の問丸があるほど紙の需要があるが、近場に美濃や越前があり飽和状態だ。安く買い付ける事は出来るだろうが、運搬の手間を考えると、地産地消も選択肢になりえる。
まずは紙の相場と、上方ではどのような読み物が流行っているのか程度は、国元に帰る前に調べておいて損はないだろう。
言われてみれば侍女衆が『写本を上方に卸している』とは聞いていたが、今まで冬季の内職については老女に任せきりだった。どれほどの規模で流通させていたのかも把握していない。
それどころか どんな『写本』を卸しているのかも知らない事に今更気づき、試しに数冊借りてきたのだが……
「何の写本だ、これは……」
写本と言うからには、源氏物語や伊勢物語あたりを書き写した『転写本』を想像していたのだが、どう見てもそうは読めない。
何故なら主人公が光源氏ではなく、花姫と陰虎様。
ようするに主君・影勝の妹姫と今は相模東条家の当主・陰虎の恋愛模様が赤裸々に書かれた代物だったからだ。
仮にも主家の姫だ。「不敬だろう」と止めたいところだが、よく見れば監修しているのが花姫本人なのだからどうにもならない。
花姫は影勝様と違って非常に恥じらいが無……いや、おおらかな性格をしていらっしゃるからな、と誰に聞かれる訳でもないのに、兼継は内心の呟きに訂正を加えて思い返した。
花姫といえば陰虎が来た直後から、暴れ猪もかくやと思われる猪突猛進で突き進み、勇猛果敢な波状攻撃を繰り出し、見事、陰虎の首を上げ……まあとにかく。
朝な夕な精力的に迫りまくった結果、見事陰虎との婚姻を勝ち取り、侍女衆と勝鬨を上げていた風景が 昨日の事のように思い出される。
影勝や兼継が『女性』というものに幻想を持てないでいるのは、剣神公や花姫、隠密まがいの侍女衆に、子供の時分から晒されていた環境ゆえかも知れない。
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流し読みしただけで胸焼けしそうな冊子を中断して文机に置き、兼継はもう一冊の方を手に取った。こちらは人質としてやってきた童が 実は女童で……といった『とりかえばや』の創作のようだ。
女童の名前が『雪姫』な辺りが、雪村を参考にして書かれた物なのだろうなと思わせる。
こちらは冒険譚に近い内容ゆえか、花姫の冊子よりはまだ読みやすい。
池を覗いていて目を回して落ちた件などは、実際に雪村がたまにやらかしているから、雪村の養育日記でも読んでいる気分になる。
ただこちらの創作の場合は、池に落ちた事がきっかけで『女童』である事が周囲に知れる、という展開にはなっているが。
女童か。本当に雪村がそうであったら 面倒が無くて良かったのだがな。
兼継はふと苦々しい思いに捕らわれた。
雪村が男子ではなく女子であれば、五年前のあの時に手放さずに済んだのだろうか。それに。
剣神にも信厳にも似ていない 可憐な姫君。
思い出しただけで兼継の眉間には皺が寄り、痛くもないのに頭痛を堪えるような表情になる。
雪村が女子だったら、桜姫の毒牙にかかる事も無いのだが。
雪村と桜姫は、越後に居た頃から知り合っていた幼馴染だ。
ただこの『桜姫』は、兼継が監視すべき毘沙門天の遺児で、既に大阪で神力を発現している。
今は美成の手回しで抑えられてはいるが、今後の富豊や徳山の動き次第では、桜姫を天界に連れ帰る事も考えなければならない。
しかし兼継はこの桜姫から『神子』としての神々しさを、全く感じ取る事が出来なかった。
それどころか、その存在からは溢れんばかりの煩悩しか感じ取れない。
煩悩の数は一〇八というが、そんな数など優に超しているだろう。
それなのに、よりによって雪村が、その姫にご執心なのだ。
恋愛感情に疎く「姫に恋はしていない」と本人は思っているようだが、その程度の感情で、大阪から越後まで怨霊を斬り捨てながらの単騎駆けなど そうそう出来る事ではない。
鈍いのだ。
そんな所は子供のままで、兼継の心配は尽きなかった。
あの煩悩まみれの姫にかかれば、純朴な雪村など一撃で沈む。
雪村自身がそれを望むのなら構わないが、せめて「姫の本性を知っている」という前提がなければ公平さに欠けるだろう。
よりによって何故あの姫なんだ。五年前にしろ今にしろ、この冊子のように女童であれば、このような心配をせずとも済んだものを。
頭痛が増したような心地で、更に眉を顰める。
これまでの兼継は、望みが叶った事が無い割に、 重責ばかりを背負わされる生き方を強いられてきた。
御館の乱の折に「越後の神龍に影勝を認めさせる」案を創案し、「陰虎が越後に養子に出されたのは、剣神に霊力を鍛錬して貰う為。相模に東条の跡目を継がせる旨を認めた遺言書がある」事を突き止めた。
だがその功績が認められて、若い身空で越後の執政に任命された事も、毘沙門天の神子の監視の為に愛染明王の依代に選ばれた事も、どれも兼継自身が望んだ事では無い。
主君・影勝の為に働ける事は喜ばしいが、華々しい抜擢は余計な嫉妬や邪魔立てなど、面倒事を引き寄せ過ぎる。
私はもっと静かに暮らしたかった。
兼継は小さく吐息をついた。
子供の頃から勉学が好きで、寺の和尚に「足利学校に進んではどうか」と勧められた。足利学校は費用がかからず最高峰の学問が学べる施設だ。それなら碌が少ない父に負担を掛けずに学問が出来る。
入学するのは容易ではないが、是非とも合格して、将来は学問で身を立てたい。
そう思って勉学に励んでいたが、その望みは、影勝の小姓に抜擢された事で叶わなかった。
「上森に仕官したい」という雪村を、影勝様のお役に立てるようにと、大切に丁寧に育ててきたのに、それも叶う事なく雪村は甲斐へと戻された。
何故、こうも上手くいかないのだろう。
何かを願うのが怖ろしくなるほどだ。
手にしていた冊子を文机に置く。
この話の女童がこの先どうなるかなど、興味は無い。
「まるで、望む事が罪だとでも言われているようだな」
兼継は自嘲気味に呟いた。
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「兼継殿!」
突然開け放たれた障子から、小さな影が転げるように飛び込んできて、兼継は咄嗟に傍にあった刀を掴んで立ち上がりかけた。
兼継の瞳が見開かれる。
さらりと流れる長い髪。大きすぎる寝間着から覗く華奢な肢体。
混乱と戸惑いに揺れる大きな瞳が、縋るように兼継を見つめている。
五年の時を遡ったような光景が そこにあった。
「雪村、なのか……?」
驚愕のあまり、兼継の声が掠れる。
こくりと頷いた雪村が その場に崩れ落ちた。




