52.最後の戦後処理
久し振りに来た越後の御殿、その書院の一室。
人払いがされて しんと静まり返ったその部屋で、私は居心地悪く身じろいだ。
目の前には兼継殿が座っていて、微動だにせず こちらを見つめている。
これは……
雪村が 緊張した理由が解ったわ。
まだ何も言われてないのに 圧が凄い。
沈黙に耐えられなくなった頃、やっと兼継殿が口を開いた。
「安芸を、取り逃がしたそうだな」
正念場だぞ、落ち着け 私。
一度深く息を吸ってから、私は口を開いた。
「取り逃がしたのではありません。私は私の考えで、安芸殿に真木の間者をお願いしようと思ったのです」
「どんな遣り取りをしたかは知らぬが、助かる為ならば何とでも言い繕うだろう。お前は間者として、絶対の信を置けるほど安芸を理解しているか? 花贈りの件も忘れていたお前が?」
いきなり痛い所を突いてくるな!
忘れてましたし、殺したくない一心でしたよ。
しかし それを悟られる訳にはいかない。
私はお腹に力を入れるような気持ちで 背筋を伸ばした。
そもそも兼継殿は、上森家中で安芸さんを処分したくなかったから、雪村に殺させようとしたんだと思う。
厄介事を押し付けられたのなら、こちらは委縮する必要はない。
東条家は、たとえ間者と露見して処分されたと理解していても、表立ってはそれを非難してくるだろう。
安芸さんの父上は、東条家の重臣だから。
同盟関係に、何らかの影響が及ぶ事になりかねないこの件を、兼継殿は『上森側の弱み』にしたくなかった。
この人は越後の執政で、上森家の為なら何でもする人だから、結果として真木家が東条に睨まれようが、知った事ではないのです。
それなら私は「真木雪村」として、家のために戦わなければならない。
「「反間とは、其の敵間に因りて之を用う」兼継殿には今更言うまでもありませんが、孫子に「間者には、敵国の間諜を寝返らせた反間を用いよ」とあります。「五間の事、主必ず之を知る。之を知るは必ず反間に在 り」と」
間諜がもたらす情報を知るために 最も重要なものは反間である。そんな意味だ。
先日、慈光寺で貰った『孫子』を引用して理論武装したけれど、当然、そう簡単に兼継殿は引いてくれない。
「ならば当然、これも知っているな。「聖智に非ざれば間を用うること能わず。仁義に非ざれば間を使うこと能わず。微妙に非ざれば間の実を得ること能わず」」
これは要するに「優れた知恵を持つ者でなければ間諜を利用する事は出来ない。慈しみの心と道理に適った行いが出来る者でなければ、間諜を使いこなせない。細部まで読み解く洞察力が無ければ、間諜の情報から真実を見抜く事は出来ない」と言った意味だ。
……優秀じゃないと、間者は使いこなせないんですよ、と。
さらりと「お前そんなんじゃねーだろ」とディスられてるけど、そこはまあ置いておいて。
ここで言い負かされる訳にはいかない。
付け焼刃の孫子で駄目なら、乙女ゲームで培った底力を思い知っていただこう。
「兼継殿は今、「仁義に非ざれば間を使うこと能わず」そうおっしゃいました。私はそうありたいと思っています。また「三軍の事、間より親しきは莫く」とも言います。安芸殿は私への想い故に、白檀の香を使ったのだと言っていました。ならば私は、その気持ちを信じます。それではいけませんか?」
間者には慈しみの心を持って報いよ、と。
そして間諜との間には、親密さが必要ですよと言った意味だ。
それなら雪村に好感を持ってくれている安芸さんに『間者』になって貰うのは、理に適っていると思う。
ゲームには『安芸』なんてモブは居なかったし、それこそ安芸さんとのイベントなんてなかったけど、私は私が持つ全力の乙女ゲームスキルで、安芸さんを口説き落とした。
文句を言われる筋合いはない。
私は目の前の、感情が判別できない 深い湖みたいな瞳を見返した。
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どれくらいそうしていたか分からないけれど。
兼継殿の表情がふと揺らいで、私は軽く目を見開いた。
兼継殿が苦笑している。
さすがにそうくるとは思っていなくて、私は呆気に取られて見返した。
「そうか、解った。お前に女性の調略など無理だろうと思っていたが、どうやら私の見込み違いだったようだ」
誤魔化しきれた! 私はほっと胸を撫でおろした。
兼継殿はああ言っているけれど、今回うまくいったのは、安芸さんが女性だったからだ。
乙女ゲームの、攻略対象たちが吐き出す台詞を参考に出来たから。
逆に「男を調略しろ」と言われたら、私には無理だった。
「兼継殿が、白檀の仕込みをして下さっていたおかげです。あれが無ければ、安芸殿の気持ちは推し量れませんでしたから」
友人としての忖度で、歯に衣を着せまくっていますけど、本当は「女心を弄ぶなんて可哀そうだよ」と思っていますよ、兼継殿。
とりあえず本当に、これで私の戦後処理は終わった。
この時の私は『雪村』とは違う言動をしている事に、まだ気づいていなかった。
素直に言い負かされて、怒られていれば良かったんだ。
だって私は『雪村』なんだから。
それに気づくのは、もう少し後になってからだった。




