50.川中島合戦・後始末2
「そう」
囁くように呟いて笑うと、安芸さんは一歩、私の方へと踏み出した。
動きそうになる右腕を 必死で押さえつける。
お願い雪村、もう少し 時間を下さい。
「雪村に殺されるなら悪くないわ。少なくとも、これで私は貴方にとって『忘れられない女』になれるでしょう?」
抑えている私の右手に手を重ね、安芸さんは微笑んだ。
この人はもう、死を怖がっていない。
私は華奢な手の上に、自分の左手を重ねて、安芸さんを見下ろした。
透けそうだった頬に血の気が戻り、微かに戸惑って私を見上げてくる。
「今度は忘れません。しかし思い出にもしたくない。ですから安芸殿、今度は真木の間者になってくれませんか?」
「……は?」
安芸さんが呆気にとられた顔をする。
うん、まあそうだろうね。私の中の雪村も、呆気にとられているもん。
「待って? 雪村。貴方は兼継様から、私を殺せと言われているのではないの?」
「言われています」
嘘をついても仕方がないし、私はなるべく重くならないように言葉を選びながら、安芸さんに微笑んだ。
「安芸殿は、優秀な間者だと私は思います。此度の件だって、白檀が香らなければ安芸殿の勝ちでしたよ。あれだって兼継殿に嘘を教えられなければ焚かなかったでしょう? 私を想って下さっての事なのでしたら嬉しかったです。ありがとうございました」
「……」
押し黙る安芸さんに、私は改めてお願いをする。
「返事は急ぎません。一度、父君の居られる相模に戻り、ゆっくりと考えていただけませんか?」
右腕から力が抜ける。
あんなに殺気立っていた雪村から、その気配が消えていた。
ありがとう雪村。
わがままを聞いてもらってごめん。
やがて
固まっていたらしい安芸さんが、声を上げて笑いだして。
私は驚いて彼女を見つめた。
笑って笑って、目から涙が溢れている。
「そうね。雪村の頼みですもの、聞かないなんてあり得ないわね。でも、念のため言っておくけれど。想い人の好みを任務の成功より優先するなんて、間者としては失格よ?」
「はあ」
そこは深く突っ込むな。
目じりを指先で拭うと、ふと笑いを収めて、安芸さんが私を見つめる。
「雪村は変わったわね。昔の貴方なら兼継様に逆らうなんて、考えもしなかったでしょうに。そうして助けて貰った命だというだけで、私は貴方の為に五回は死ねるわ」
ぎゃあ重い。
「じゃあ私の為に、五回は生き返っていただかないと。ああそれと」
私は袖から風鈴草を取り出した。川中島から戻る途中で摘んできた花だ。
「この任務が終わるまで、との約束でしたね。思い出しました。部屋の外に秋海棠が置かれていた翌日、私は同じ場所に風鈴草を置きました。当時の私はこの風習をよく理解しておらず、兼継殿が花贈りでは、必ず風鈴草をお返ししていたので、『返花はこの花でなければならない』と思い込んでいたのです」
こっちの世界の兼継殿が、どうして和歌を返しているんだろうって不思議だったけど、やっと思い出した。
兼継殿はゲーム通り、最初は返事に風鈴草を使っていた。
でも雪村が、風鈴草を返して以降は使ってない。
本当のところは、本人に聞かなければ解らないけれど。
もしかしたら『風鈴草は「遠回しなお断り」を意味する花』にする事を、やめてくれたのかも知れない。
意味もわからず、兼継殿の真似をしている雪村が、知らないうちに女性の反感を買わないように。
黙りこむ安芸さんの手に風鈴草を握らせて、五年越しの返事をする。
「今度は 理解した上で花を贈ります。私の願いを聞いて下さった事に『感謝』を」
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「さあ、夜が明ける前に発って下さい。またお会いできる時まで、どうかご健勝で」
夜から朝へと色を変えていく空の下。
闊達な笑顔を見せて安芸さんが去っていく。
その姿が見えなくなるまで見送った後で、私は大きく息をついて空を見上げた。
もうすぐ陽が上る。
私の初めての戦は、こうして終わった。




