49.川中島合戦・後始末1
半分に欠けた下弦の月が雲に隠れ、夜明け前の昏い闇が辺りに満ちる。
様子を伺っていたらしき人影が、闇に姿を溶け込ませながら門へと近づき、閂に手を掛けた。
「やはり貴女だったのですね」
私はそれが現実になってしまった事に、絶望に似た思いを抱きながら、強張って立ちすくむその背を見つめた。
頼りなげな細身の姿態。夜気に香る仄かな香。
月を隠していた雲が流れて、朧な月光がゆっくりと、こちらに向き直るその姿を照らし出す。
「……安芸殿」
陰になって表情は見えないのに、嗤った口元に、下弦の月が見える。
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「どうして貴方がここに? 川中島から戻るには早すぎるわ?」
いつもの優しげな表情に戻った安芸さんが、首をかしげて問いかけてきた。
「『戦が終わった夜に動きがある』そう兼継殿がおっしゃったので。……貴女が、武隈の間者だったのですね」
驚くでもなく、安芸さんがふふと嗤う。
「あら、どうしてそうなるの? 父が仕える東条家ならともかく、私に武隈家との接点は無いはずだわ」
「今から数年前、信厳公は東条家家臣のひとりを調略し、間者としました。その家臣は陰虎様付でしたので、いずれ共に越後へと赴く。それを見越して上森の情報を得ようとしたのです。東条ゆかりの家臣を、武隈の間者として上森に送り込む『偽装間者』の存在。私はそれを父から聞いたことがあります」
桜姫の存在が知れた後、武隈と上森の間で甲越同盟が結ばれた。
信厳公は越後に潜伏させていた間者たちに、桜姫の居場所を探らせようとしたけれど、それを嫌った剣神公は武隈方の間者たちを、次々と放逐してしまった。
「人質を装った間者など要らないよ。当然、同盟は解消だ」
けんもほろろに拒絶する剣神公を何とか説き伏せ、やっと受け入れを許可されたのが、まだ幼かった雪村だった。
けれど信厳公としては、到底諦められるものではない。
『越後に養子に出される陰虎の側近を、間者に仕立てる』
娘に会いたいのに拒絶されまくった信厳公の、これは苦肉の策だった。
そもそも桜姫の存在は、家中でも極秘とされていたから、居場所を知っていたのは剣神公と限られた家臣。そして偶然尼寺で出会った雪村だけ。
だからこそ、尼寺の場所を知る雪村に炎虎が下賜され、「姫の迎え役」に選ばれたのだから。
安芸さんが思い出したような表情になり、くすりと笑う。
「偽装間者の調略は、貴方の父上がされたのでしたね。ではそこまで解っていて、どうして私から武隈に、策が漏れると思わなかったの?」
「確証がありませんでした」
――もういいでしょう。これ以上の説明など無意味です――
私の中の『雪村』が 彼女を見限る気配がする。
ともすれば腰の刀に掛かりそうになる右手を、私は必死で押し止めた。
「偽装間者の存在は知っていましたが、それが誰なのかまでは判りませんでした。いや、すでに居ない可能性もあった。御館の乱のあと、陰虎様付の家臣はみな相模へ戻りましたから。兼継殿もそう思っていたようです」
そこまで話して 様子を窺がう。
安芸さんは黙ったままだ。
「大阪で桜姫が神力を発現した時、私は極秘で、姫を越後に連れ帰りました。越後までの『関所通行之記録』にもそういった記載は無かったはず。しかし武隈は、姫が越後に匿われていると早々に探り当てた。そこで「越後内部に、武隈方の間者がまだ潜んでいるのでは」と思ったのです」
一度 言葉を切って安芸さんを見つめる。
「前に、兼継殿から「使いの報酬を貰った」と仰いましたよね。それはその頃ではありませんでしたか?」
偽装間者がいるのなら、越後に残った安芸さんではないかと推測したんだろう。
その確証を得るために香を渡した。
”雪村が好きな香”を。
「兼継殿が安芸殿に疑いを持ったのは、『武隈に謀反の疑いあり』と私に話をしたあの日です。あの時、兼継殿はわざと私に、虚実入り混じった話をしました。襖の外に居る間者に聞かせる為です。そして話を終えて部屋を出た時、微かに白檀の香りが残っていた。それで武隈の間者は安芸殿ではないかと、当たりをつけたそうです。しかしそれだけで決めつけるには不十分ですから『桜姫の影武者』には安芸殿を立てる事にしました。……そして貴女は武隈の間者に『上田に来る桜姫は偽物』と知らせた」
「待って。香など女性なら誰でも焚きしめているでしょう? 白檀はありふれた香です。部屋の外から香ったとしても、それが私とは限らないわ」
私の言葉を 安芸さんが鋭く遮った。
もっともな言い分だ。……兼継殿を、向こうに回してさえいなければ。
「安芸殿が貰ったという白檀の香。兼継殿はそれに、ごく微量の沈香を混ぜていたそうです。そのような配合の『白檀』を使う者は、他にいません」
「……」
香の仄かな残り香。その僅かな違いなんて、常人に嗅ぎ分けられる訳がない。
だから安芸さんも、香で露見するとは思わなかっただろう。
そんな事が出来たのは、兼継殿だからだ。
僅かな違いを嗅ぎ分けられたのも、そこから安芸さんの霊力を感じ取れたのも。
あの人が 愛染明王の依代だから。
「そう……私は最初から、兼継様に謀られていたのね。貴方が好きな香だなんて、そんな嘘に……」
自嘲気味に安芸さんが呟く。そして優しげな表情のまま聞き返してきた。
「では何故、武隈にすべて漏れていると知りながら、私を放置したの?」
「それは」
私は小さく息をつく。
話しているのも 苦しい。
「間者を『利用』する為です。武隈が知りたいのは“本物の桜姫の居場所”。間者を置いたままだと、情報が筒抜けになる。だから安芸殿を『桜姫の影武者』として、越後から切り離すことにしました」
「切り離したところで、本物の桜姫が越後にいる事は 間者から漏れます」
「はい。だからこそ兼継殿は、出立の一行の中に桜姫が紛れていると気付きながら放置したのです。桜姫は知らなかったでしょうが」
桜姫が付いてきて、騒ぎになった結果。
「貴女から情報を得ていた武隈の乱破は、混乱したでしょうね。武隈方は『本物の桜姫』が居る場所を正確に把握しなければならない。それなのに『本物の姫が同道していた』という騒ぎが起こり、挙句に、どちらかが越後に戻された。これで上田に居るのが『影武者』なのか『桜姫』なのかが、武隈には解らなくなった。あとは貴女が間者と接触しないよう、邸に閉じ込めておけばいい」
あの騒ぎが、半ば仕組まれたものだとは思っていなかったんだろう。
暗闇越しでも、安芸さんの顔色が変わったのが判る。
「上森には、時間が必要でした。武隈は遮二無二、桜姫を奪還しようとしている。間者の情報を遮断した事で『上田城も攻め落とす』と決断した場合、援軍を出さねばならない。その為には前線の海津城を落とす必要がある。『剣神公も落とせなかった難攻不落の城』をです」
安芸さんには「桜姫が居るなら上田城は攻められない」と話していたけれど。
あれは嘘だ。
ただ、それを悟られる訳にはいかなかった。
「剣神公が長い時間をかけて仕込んでいた『策』。これは前城主が海津城から去った今だからこそ、効果的に発動する策です。代替わりした新しい城主は、父君に負けない成果を出したかった筈。撤退の素振りを見せれば必ず城から出る、と兼継殿は読みました」
「難攻不落の海津城に、上森軍を引きつける。そのまま武隈本隊の到着を待ち、攻城を諦めた上森軍が千曲川の渡河を始めたところで 城から討って出て、武隈本隊と挟み討ちにする」
これが基本的な武隈軍の戦略だけど、本隊が到着する前に、いつも上森軍は渡河を終えて撤退していた。
剣神公ですら落とせなかった海津城を、今の上森軍が落とせる訳がない。
おそらく今回も、早々に攻城を諦めて撤退する。
しかしいつも通り『武隈本隊が到着するまで籠城』していては、勝機を逃す。
逃げる背後を襲えば、敵は簡単に総崩れになるというのに。
結果を出したい、父を超える実績が欲しい、と新城主は考える。
「桜姫の居場所が特定できず、出陣が遅れた武隈軍も「上森軍と高崎軍が交戦状態に入った」となれば、上森軍を挟み討つために川中島へ急行します。今度は上田に割かれる武隈の兵力を、最小限に抑えなければなりません。交戦の知らせを受けた侍女衆は、わざと隙を作りました」
安芸さんを、夜の川辺に誘ったあの日だ。
あの時、城下で出会った安芸さんは 武隈の乱破に知らせていたのだ。
『ここに居るのは影武者だ』と。
淡々と話す私に、安芸さんが少し悲しげな表情になる。
「雪村は、真木が捨て駒に……上森のために犠牲になっても平気なの? そんなに桜姫が大事?」
「そうではありません」
私は言下に首を振った。
桜姫が知ったら怒るだろうけど。
「貴女たち家族が武隈に恩があるように、私にも信厳公には多大なご恩があります。私は信厳公より『桜姫守護』の任を仰せつかりました。そして一家臣に過ぎない真木家に、霊獣まで下賜された。私は何を措いても桜姫をお守りする義務があります」
安芸さんは黙ったままだし、確証は無かったけど。
私はひとつの仮定を口にする。
「安芸殿の父君が武隈の間者を引き受けたのは、母君の病のためではありませんか?」
代価は薬か金子か。
どちらにしても、喉から手が出るほど欲しかった筈だ。
父君は陰虎様と一緒に、相模に戻らなくてはならなくなった。
だから安芸さんが、上森に残って間者を続けた。
そう考えれば腑に落ちる。
けれどそうだったとしても、私に何が出来るだろう。
安芸さんは言葉も無く 私を見つめている。
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「秘密裏に、桜姫が真木領に匿われた、と武隈には思わせる。お前が上田に戻ればそう思うだろう。だが姫を危険に晒す訳にはいかないからな。影武者を立てる。お前はその娘と上田城へ戻り、籠城戦に備えよ。武隈が攻め寄せたら、時を置かずに上森から援軍を出す。それまで持ち堪えろ」
あの時、兼継殿が渡してきた文。
そこに書かれていた通りに事態は動き、その通りに私は動いた。
そして、それはまだ終わっていない。
「そう。私は任務に失敗したのね」
安芸さんは静かに微笑んだ。
今まで見たことが無い、透明で儚い笑顔。
安芸さんはもう解っている。
それなら私は、目を逸らさずに伝えなければならない。
「兼継殿から与えられた私の役割は、上田に偽物の姫を連れ帰ること。そして連れ帰ったその姫が間者であった場合」
「……貴女を、殺すことです」




