382.エピローグ ~雪~
私は現世に戻り、今まで通りの日々を淡々と過ごしている。
あの日、異世界から戻った私は 病院のベッドで目が覚めた。
大きな怪我は無かったけれど、打ちどころが悪かったのか、なかなか意識が戻らなかったらしい。
検査の結果、特に異常はないとの事で 私はほどなく退院した。
二週間。
異世界で過ごした数年間は、こちらの世界では たったそれだけの時間しか経っていなかった。
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可愛くデコレーションされたブルーベリーのパンケーキ。
その前に手のひらサイズのプレートを置いてタップすると、キメ顔をした正宗の3D画像が浮かび上がる。
このキャラ画像が内臓されたプレートは、推し活に欠かせないアイテムだ。
「キメ顔でパンケーキに壁ドン……あとは皿の上に正宗様を座らせて……」
プレートを微調整しながら、あかねが嬉しそうに、正宗とパンケーキをスマホで撮っている。
ブルーベリーの青は 正宗の推し色。
好物のいちごを諦めたのは、これを撮る為だろう。
正宗がこのパンケーキを見たら、目を輝かせて作り方を研究して、美味しいのを自分で作っちゃうんだろうな。
カステラも独学で作っていたし。
「……宗様って、やっぱり料理上手だった?」
そんな事を考えていたら、あかねが何か言いながら、顔を上げた。
しまった、ぼんやりしていて聞いてなかった。
慌てて笑って、誤魔化す。
「うん。そんな感じかな」
「あ~いいなぁ異世界転生。そもそも雪村に転生しただの、正宗様に会っただの。コスプレした雪の幽体離脱を見ていなかったら、信じてないけどね~……」
異世界で崖から落ちて、一瞬だけ現世に戻った時。
私は入院中の病室で、お見舞いに来ていたあかねに、偶然会った。
だからだろう。『異世界転生』なんて荒唐無稽な話を信じてくれている。
今となっては、本当に異世界なんてあったのか、長い夢を見ていただけなのかは自分でも判らない。
ただ頭を打った時に出来たらしい傷が、額に小さく残っている。
それが兼継殿の花押に似ているような気がして、私はまだ『現実』に戻り切れていない。
それはあの『異世界』と『現実』が、中途半端にリンクするせいもあるだろう。
「ねえ。本当に連絡、とらなくていいの? 写真を送って貰ったけどイケメンだったよ? もったいない」
未練がましい様子でスマホをいじりながら、あかねが口を尖らせている。
退院祝いをしたい、と誘われたけれど、おそらく本題はこっちだろう。
先日『カオス戦国』のオフ会に参加したあかねが、『桜井さん』という女子高生と知り合いになった。
その子のお兄さんが『ゆき』を探しているという。
その辺の事情も知っているあかねは、マンガみたいな展開に盛り上がっているけれど、たぶん私はこれからも、桜井くんに会うことはないだろう。
桜井くんに会ってしまったら、思い知ってしまう。
あの異世界の出来事が『現実』だったと。
それに……
「まだ、気持ちの整理がつかなくて」
「……そっか。ごめん、無理強いみたいな事を言って。そうだ、今度は一緒に新潟に行こうよ。新潟の名物って何だっけ?」
少し苦笑して、あかねが明るく話題を変えた。
そして私のバッグに下がっているマスコットに、ちらりと視線を移す。
愛の前立てをつけた、ゆるきゃらのキーホルダー。
兼継殿と一緒に行く約束をした米沢に、ひとりで行った時に買ったものだ。
しばらくマスコットを見ていたあかねが視線を戻し、気遣うように笑った。
「でもね、いつかは区切りをつけないと。気が変わったらいつでも言ってね。桜井さんの連絡先、教えるから」
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あかねと別れた帰り道。
私はゆっくりと、駅までの道を歩いていた。
終電が近いからだろう。帰路を急ぐ人たちが 足早に側を通り過ぎていく。
……現世に帰ってきてから 知ったことがある。
兼継殿のモデルになった直江家は、兼続の代で断絶していた。
『こちら側』の世界では、血は繋がっていなかった。
兼継殿に 幸せになって欲しかったから。だから私では駄目だと諦めたのに。
もしもこの事を知っていたら。
私はあの異世界で、別の選択をしたかも知れない。
あの時、兼継殿の手を離したことを後悔しそうで
それが怖い。
「……会いたいな」
思わず零れた溜め息が ふわりと白く染まった。
冬が近づいているんだなぁ。
こっちの世界でも、新潟は雪が多いのかな?
今にも雪が降り出しそうな空を ぼんやりと見上げる。
あの世界で暮らしていた時も、『最後の選択』をした あの時も。
私は 兼継殿のことしか考えていなかった。
現世に帰った後のことなんて、これっぽっちも考えていなかった。
それはきっと心のどこかで
失敗しても、ゲームならリセットできると
いつでもコンティニューできると思っていた罰かも知れない。
あの異世界は、【ゲーム】じゃなかったのに。
ゲームといえば。事故の時にインストール中だったあのソフトは、いつの間にかパソコンの中から消えていた。
そして何故か、買った履歴すらも残っていなかった。
戻りたくても、あの異世界にはもう戻れない。
きっとそれが答えなんだろう。
私の役目は終わったんだ。
…………
「これ、落としましたよ」
不意に肩をたたかれて、私ははっと我に返った。
慌てて振り向くと、高校生くらいの男の子が立っている。よく見ると着ているのは、二駅先にある超難関進学校の制服だ。
こんな時間に、どうしてこんな所に居るんだろう。塾の帰りかな。
すらりと背が高くて、目鼻立ちの整った綺麗な顔。さらさらの黒い髪。
頭が良くてこのルックスなら、さぞやモテているだろうなって男の子が、笑顔のまま手を差し出してきた。
その手には、愛の前立てをつけたゆるきゃらが握られている。チェーンが外れてバッグから落ちたらしい。
うわあ、何やってんの、私。
「拾ってくれてありがとう」
お礼を言って手を出したけれど、男の子はマスコットを離そうとしない。
不思議に思って見上げると、最初の笑顔とは一転した、真剣な眼差しにぶつかった。
「おねーさん、推しは加賀じゃなかった?」
「え?」
なぜそれを。
あかねに弟はいないはずだし、私に男の子の知り合いなんて……いや、待て。
ずっと社会人だと思い込んでいたけれど、妹が高校1年だったら有り得る。
まさか。
「……もしかして、桜井くん?」
「あのような者と間違えないで貰おうか」
男の子は、即座にむすりと否定する。
その後、こほんと咳払いをして表情を和らげ、小さく吐息をついた。
「だがその様子だと、こちらの世界ではまだ『桜井』とは会っていないようだな。18年待った挙句に、また掻っ攫われてはかなわん」
「……」
たぶん今の私は、相当にまぬけな顔をしているだろう。
全然、頭が追い付いていかない。
まさか姿形が違っても、こうも判別できるとは。
でも何がいったいどうなって。
「兼継殿……?」
「雪、やっと見つけた!」
男の子が満面の笑みで 私をぎゅっと抱き締めた。




