373.異世界・関ケ原27 ~side K~
R15に抵触する場面があります。
苦手な方は閲覧をお控え下さいますようお願いします。
「館の助けなど要らぬ。やはり行くな」
柔らかな身体を抱き締めて、優しく額に口づける。
何としても翻意させなければ。
ここに残りたいと。
離れたくないと。
焦る気持ちを押さえつけて頬に触れると、雪がくすぐったそうに微笑んだ。
ああ、どうしたらこの娘は手に入るのだろう。
天女が心変わりしないのであれば、いっその事、逃げられぬように閉じ込めてしまおうか。
あの時の館の心情が、今更ながら理解できる。
雪の手がそっと伸びて、兼継の手に触れた。
「そのように心配しないで下さい。その……私が、あ、あいしているのは、兼継殿だけです」
「ならばその証が欲しい。お前からは、私がお前を愛している程の熱意が感じられないぞ」
その手を握り返し、拗ねた振りをして文句を言ったが、その『証』とやらが何なのかは、兼継自身にも解っていない。
この天女は、男女の愛を知ると消えてしまう。
そしてそれは、兼継の望むところではないのだから。
いや。いっその事「どうしても帰ると言うのであれば、ここで契って『雪村』に戻す。どちらにせよ失うのであれば、刹那の間でもお前を手に入れた方がましだ」とでも言って脅そうか。そんな考えまでが脳裏を掠める始末だ。
繋いでいた手がそっと離れ、兼継ははっと我に返った。
昏い感情を見透かされたかと、慌てて雪を見下ろす。
「――雪?」
「やはり男の人には、花押を刻めないのですね」
「花押? 花押ならば、お前に」
「私が兼継殿をお慕いしている証を、と思ったのですが……男同士だから出来ないのかな」
離した手が、兼継の目の前に翳された。その掌には『雪村の花押』がほんのりと浮かんでいる。女性にするように、兼継に花押を刻もうとしていたらしい。
しょんぼりと項垂れる雪を、兼継は言葉も無く見下ろした。
――まさか 兼継の花押が刻まれている事に、気づいていない……!?
『雪』に初めて出会った夜、兼継は雪の額に花押を刻印した。
衝動的に刻んだ愛の証。
妻に迎えるつもりがあったとはいえ、未婚の娘に花押が刻まれているのは外聞が悪いかと伏せてはいたが。
首藤弾劾の場で公にしたではないか。
お前は 私のものだと。
晴れて信倖の許可も得た。
これからは人目を憚ることなく、堂々と独占できると思っていたのに……
男同士だと……?
そういう認識なのか!?
それ以前に何故雪は、花押が刻まれた事に気づいていないのだ!?
確かに言葉にして伝えた訳ではない。しかし己が体内に男の霊力が注がれれば、言わずとも解るものだろう!?
いや待て。
そういえば桜井が「異世界には花押を刻む風習はない」と言っていた気が……
絶句する兼継を見上げ、雪が照れくさそうに笑った。
「まあいいか。花押の刻印は失敗してしまいましたが、私の『花押の相手』は兼継殿ですよ? ……ずっとずっと大好きです」
兼継の手に掌を重ね、雪が恥ずかしそうに微笑んでいる。
ああ、そうか。
私が『証』が欲しいと言ったから……。
雪が示してくれた 精一杯の『証』。
――兼継は万感の思いを込めて その手を握り直し、指と指を絡ませた。
「そうか。お前の花押を私にくれるか」
「はい!」
「ならば、今から私はお前のものだ。その代わり、お前も私のものだと約束してくれ。……どこにも行くな。ずっとずっと、私のそばに」
返事は無く、困ったように微笑んだ雪が、そっと兼継の胸元に額を寄せる。
ああ、この顔はよく知っている。
嘘が下手な娘が、嘘をつく時の顔だ。
そしてそれを悟られまいと、恥ずかしがりの娘が精一杯、甘えてくるのだ。
――これほどに懇願しても まだ駄目か。
どうしても捕まえられない。天女が羽衣を手放さない。
一体 どうしたら。
「えっ? あの、兼継殿……っ ん……っ」
雪の慌てた声がする。
それに構う事無く、強く雪を抱き締めた兼継は、抗議の声を唇で塞ぎ、そのまま床に押し倒した。
+++
神子姫から手渡された『孫子』。
ぱらりと頁を捲りながら苦笑する。
雪が居なくなる訳が無いではないか。
愛していると言ってくれた。ずっとそばに居ると言ってくれた。
この戦が終わったら祝言を上げようと、ふたりで幸せになろうと約束した。
必ず私の元に戻って来る。
これはその時の、嫁入道具だ。
読み込んだ兵法書だけ携えてくるなど、妻としての自覚はあるのだろうか。
まったく無粋な娘だな……
微笑みながら紙を繰っていた兼継の手が 途中で止まる。
頁の間に 押し花のしおりが挟まっていた。
薄紫の素朴な野花。これは……
「紫苑か」
子供の頃、雪村が好きだった花だ。
生薬の材料になると教えたのを覚えていて、見つけると熱心に摘んでいた。
こんな所まで似ているのだな。
壊れぬように、優しく押し花に触れた兼継の微笑が凍り付く。
『君を忘れない』
『遠方にある人を思う』
――それが紫苑の花言葉だったからだ。




