372.異世界・関ケ原26 ~side K~
無策で無鉄砲な神子姫を締め上げた後。
邸に戻った兼継は、灯りもつけぬまま縁側に座っていた。
「雪はこの戦で死ぬ運命じゃない。何があっても必ず『歴史の修正力』が働く」
今は桜井の、その言葉を信じるしかない。
ふと夜空を見上げると、白々とした満月が周囲を明るく照らしている。
――『雪』に初めて出会ったのも こんな夜だった。
美しい満月の夜。
突然、部屋に飛び込んで来た天女。
今にして思えば 一目惚れだった。
どうしても欲しくて、婚約を捥ぎ取った。
真木と上森、両家の主君に手を回し、騙し討ちのように養父にまで引き合わせ、逃げられぬように外堀を埋めた。
困っている事には気付いている。
優しい性格に付け込んでいる自覚もある。
それでも傍に居て欲しい。
杯に映った月を呑み干し、兼継は小さく吐息をつく。
大阪で、雪が『雪村』に戻った直後。
事の次第を知る神子姫から、忠告を受けた。
「たぶん、雪も一緒に帰る」
「麻沸散は『雪村』に戻る薬じゃない。そして雪は、契らずに『雪村』に戻る方法も見つけている。その方法で『雪村』に身体を返して、自分は元の世界に帰るつもりだ」と。
誰よりも近くで見守ってきた者の、最大限の配慮だったのだろう。
しかしその時の兼継には、それに感謝する余裕など無かった。
天女がとうとう羽衣を見つけてしまった。
恐れていた事が、ついに起こってしまった。
……いや。
首を横に振り、重く胸を蝕む不安を振り払う。
彼女と入れ替わり、久方振りに戻った『雪村』は、皆の前で言ったではないか。
「私はもともと、あと数年の内に死ぬ運命です。彼女は私をこの身体に戻したがっていますが、それでは天女まで巻き込んで死を迎えてしまう。だから、私はもう戻りません」と。
他ならぬ『雪村』が許したのだ。元の世界に戻るべき理由など、ある筈がない。
ならば己を律し、契りさえしなければ、雪は『雪村』に戻らない。
永遠に一緒だ。
そう思っていた。
……いや、思いたかった、と言うべきだろう。
「ずっとそばにいます」
そう返事をするあの娘は、いつも嘘をついていたのだから。
+++
徳山との戦は総力戦だ。
同盟国とはいえ、国替えをしたばかりの東条から、後詰は当てに出来ない。
ふた月ほど前。忙しく戦の采配をしていた兼継の元に、徳山の迎撃を任されている泉水がやって来た。
「忙しいのは分るけどさ、あんまり根を詰めるなよ。いざって時に倒れたら、元も子もないだろ?」
「はは、そんなに柔ではありませんよ。時間はいくらあっても足りません」
「そんなに疲れた顔して、何を言ってんだよ。いいから休め! ……と仰る影勝様の心の声が、俺には聞こえる」
「幻聴が聞こえるなど、泉水殿の方が重症では?」
「いいから! 殿の命令だ。さあ、帰った、帰った!!」
わざと大声を出して背を押す泉水が、こそりと耳元で囁いた。
「雪村が、お前に会いたがっているってさ。信濃に帰る前にって。これは幻聴じゃなく、歴とした奥御殿侍女衆情報だよ」
+++
雪が会いたがっている。
それだけで休む気になるのだから、我ながら現金なものだ。
自室で小袖を着替えながら、兼継はふと笑みを漏らした。
戦前のささくれ立った心が、彼女を想うだけで癒されていく。
そして束の間であっても、逢瀬は逢瀬だ。
逢いたいと思っても思うに任せなかった現状で、このような機会を得る事が出来たのは、僥倖というべきであろう。
ところが、身支度を整えて奥御殿に向かおうとした矢先に、雪の方が先んじて邸を訪れた。
「夜分遅くに申し訳ありません、突然お邪魔して。……お出掛けでしたか?」
「いや、用事は済んだ。どうかしたか?」
恐縮する雪に微笑みかけ、部屋へと誘う。
飛んで火にいる夏の虫――と言っては聞こえが悪いが、これ以上の的確な言葉も見つからない心情だ。
ここに来たと言うことは、信濃に戻る前の挨拶かも知れない。
この娘の心を、今夜中に捕らえなければ。
時間はもう残されていない。
――この機を逃してはならない。




