35.蚊帳の外より
「雪村、私用で済まないが、使いを頼まれてくれないか?」
兼継殿から声をかけられたのは、まだ朝日も昇り切らない早朝。
鍛錬場へ向かおうとしていた庭先でだった。
いつも通りの兼継殿だ。
夕べは大失態を演じてしまったけれど、気にしていないみたいで少し安心する。
「はい。どんなご用件ですか?」
「慈光寺は知っているな? そこに大陸から伝わった珍しい書籍があるのだが、それの写本を頼んでいる。済まないが取りに行ってくれないか」
「わかりました。お任せ下さい」
慈光寺は寺子屋みたいな事もやっていて、子供の頃に行ったことがある。
少し遠いから、出発するなら早い方がいいけど、桜姫のところはどうしよう?
私の迷いを察したのか、兼継殿の声に笑いが含まれる。
「桜姫になら心配せずとも伝わるぞ。越後の侍女衆は優秀だからな。何なら夕べの事も伝わっていて、根掘り葉掘り聞かれると断言しても良い」
……私は桜姫のところには寄らずに出発することにした。
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早朝に出発したから昼前に寺には着いたけれど、少し困ったことになった。
肝心の写本が、まだ終わっていなかったのだ。
この時代にはコピー機なんて当然ないから、手書きで書き写すしかなくて、それだとやっぱり時間がかかる。
「写し終わるまで、ゆっくりしていなされ」
雪村の子供時代を覚えていた和尚様が、ゆったりと髭を撫でながら言ってくれたけど、何だかこっちの世界に来てから現世以上に動き回っているせいか、のんびりが逆に落ち着かない。
縁側に座ってぼんやり庭を眺めていると、遠くから子供たちの「し、のたまわく」なんて声が聞こえてくる。
のどかだな。
「雪村殿、あれが何か覚えておいでかな?」
「論語ですね。「学びて時に之を習う、また説ばしからずや」」
いつの間にか隣に来ていた和尚様が、突然そんな事を言い出して、のどかな気分をぶっ飛ばす。
焦った、いきなり問題をださないで。
なけなしの古典知識を絞り出して危機を回避した後、私はふと気がついた。
そうだ、兼継恋愛イベントで、確かこういう古典が関係するのがあったはずだ。
何だっけ、風林火山の語源になっている……『孫子』?
兼継殿が兵法の話題を出した時に、桜姫がばんばん孫子の兵法知識を披露して どすどす好感度が上がるイベントが。
「孫子」って兵法書だから、桜姫は読んでなさそうだよね。
花言葉だって、今でこそ乗り気だけど、最初はやる気なさげだったし。「兵法書を読め」なんて言ったら絶対に拒絶される。
この世界ではクイックセーブやロードが無いんだから、孫子を知ったかぶりするには勉強しておくしかない。
仕方が無い。私が読んでおいて、最低限の知識を直前に叩き込むしかないか。
「和尚、こちらに孫子はありますか?」
「ありますぞ。ちょうど写本したものが余っております、一冊差し上げましょう」
良かった、それならゆっくりと読める。
私は礼を言って、立ち上がった和尚様のあとについて行った。
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結局、写本が終わったのは三日後だった。
予定よりずいぶん遅くなってしまったけれど、久し振りに、子供たちと遊んだり本を読んだりと、ゆっくり出来た気がする。
思っていた以上に、気疲れしていたのかもしれない。
「また寄らせていただきます。ありがとうございました」
「この先、様々な事が起こるでしょうが、一を以て之を貫く とも申します。どうか悔いなく、貴方に幸多からんことを」
雪村とは一度しか会っていない筈なのに、白髭の和尚様は遠い何かを見ている目をして、ゆったりと私に微笑みかけている。
もう一度、深々と和尚様にお辞儀をして、私は寺を後にした。




