324.新しい縁談7
「きゃああ!! 藤姫様! 藤姫様ぁ!!」
絹を裂くような絶叫が響き、藤姫の部屋から侍女が飛び出してきた。
ぶつかりそうになり、桜姫の夕餉を運んでいた私は、慌てて膳を回避する。
「どうかしましたか?」
「藤姫様がお怪我をなさったのや! 剃刀でお顔を……!」
「ええっ!?」
剃刀で怪我、って聞いただけでぞわぞわする。それも顔!?
慌てふためいた侍女が、泣きそうな顔で私の肩を揺さ振った。
「もうすぐ陽が暮れます。傷が残ったら大変や、早うお医者を!!」
「すぐに呼んで参ります!」
膳を侍女に押しつけ、私は身を翻した。
奥御殿から飛び出すと、ちょうど退勤の時間帯だったらしい。小路は帰宅途中の人たちでごった返していた。
空は既に夕焼けから、夜の藍色に変わりつつある。
そうだ。走って呼びに行くより、馬を使っている男の人に頼んだ方が早い!
「泉水殿!!」
ちょうど馬の手綱をとった泉水殿が見えたので駆け寄ると、振り返った泉水殿が げらげらと笑い出した。
「何だ雪村、侍女の仮装か?」
「笑っている場合ではありません! 藤姫がお怪我をなさったようなのです。医者を呼びたいので馬を出して貰えませんか!?」
「医者などと言っている場合ではない! 何だ、それは!?」
出し抜けに兼継殿の声が聞こえ、私はぎょっとして顔を上げた。
真っ青な顔色の兼継殿がこっちを見ている。
陰になっていて見えなかったけれど、泉水殿と話中だったらしい。
「あ、あの……申し訳、ありません……」
奥御殿でお預かりしているお見合い相手の姫君。
その方に怪我をさせたと聞いて、兼継殿が怒っている。
今更ながら「大変な事になった」という気持ちと、藤姫の事でこんなに怒っている兼継殿が、何だか解らないけれどすごくショックで、私は声が出せなくなった。
怒ったまま、兼継殿が泉水殿に向き直る。
「医者は頼みます。雪、来い!!」
私の手を引っ掴み、兼継殿がすごい勢いで走り出した。
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私の手を掴んだまま、兼継殿はどんどん走って行く。女物の小袖は走りづらくて、足が縺れそうになる。
転ばないように、私は必死で足を動かした。
周囲の領民がぽかんとした顔をして、私たちを見ている。
当たり前だよ。
上森家№2の執政様が、顔色を変えて城下を走っているんだから。
おまけに……
「あの娘かしら。ご婚約した侍女というのは」
なんてひそひそ声と、好奇心いっぱいの視線がぶすぶすと突き刺さって、私は顔を上げられなくなった。
くっ……! よりによって侍女の仮装中に……!!
きっと今の私は真っ赤な顔をしているだろう。
こんなに悪目立ちしてしまったら『こっそり婚約破棄』なんて、もう出来ない。
「婚約破棄して欲しい」とは言っていますが、私だって本当は嫌なんです。
だって破棄される側にしてみれば、不名誉で恥ずかしいコトじゃないですか!
だから『こっそり』して貰おうと思っていたのに、こんなに顔バレしちゃったら「あの子よ? 執政サマに振られたのは」ってくすくす笑われるじゃないですか!
もう、越後に来られない……!!
息も絶え絶えに城下を走り抜け、辿り着いたのは大きなお寺だった。
門を潜った兼継殿が、似つかわしくない大声を出す。
「虎徹殿! 虎徹殿は居られるか!!」
「どうしました、兼継……っと、君、それはどうしたのですか?」
前に会った兼継殿の幼馴染の和尚様が、目を見開いて私を見ている。
どうしたもこうしたもないですよ。
それは私じゃなく、兼継殿に聞いて欲しい。
息を切らせて黙っていると、少し笑った和尚様が自分の胸元をとんと叩いた。
「衿元に何か入っていますね。それは、何?」
「え?」
言われて中を探ると、そこには藤姫から貰った紙人形が入っていた。
「これは……藤姫から頂いたものです。でもこれ、部屋に置いて来た筈なのに」
嫌味でくれたものだとしても人形に罪はない。そのうちどこかの女の子にあげようと棚に仕舞った人形が、どうしてここにあるんだろう?
ぽかんとしていると、兼継殿が険しい顔をして人形を摘まみ取った。
そして和尚様にひとつ頷いた後で、和紙の着物を開く。
「……っ!」
思わず息を呑んだ私の傍で、兼継殿と和尚様が顔を見合わせた。
着物で隠れて見えなかったけれど。
人形の首は捩じ切れていて、体に赤錆びた字で「ゆき」と書かれていたからだ。




