304.小田原征伐25 ~side K~
黒鈴蘭で雪の解毒処置を終えた後。
兼継は改めて、部屋に入って来た信倖と向き合った。
縁組だ何だと口裏を合わせて貰ったが、雪に花押を刻んでいた件についての申し開きをしなければならない。
『花押』は本来、将来を誓い合った相手に刻むもの。
当主の許可なく婚前に刻むのは、道理に反している。
「驚かせて済まなかった、信倖。いくらでも責めは受ける」
「こんなの見たら、責める気にもならないよ」
信倖が苦笑して、傍に腰を下ろした。
当の雪村は兼継の腕の中で、すうすうと寝息をたてている。責めようにも、雪村の方が兼継の小袖を離さないのだから。
続いて入室した医師に雪村を託し、それを見送った信倖は、兼継の方を見ないままぽつりと呟いた。
「花押って男にも刻めるの? それとも、あの子はもう『雪村』じゃないって事?」
「信倖」
振り向いた濃灰の瞳が、兼継を見据える。
「少し前に美成とも話したんだ。右掌に雪村の花押がある。あの子は確かに雪村なのに……別人みたいだって。あのさ兼継、君は随分と前から、雪村の事を女子扱いしていたよね? この雪村について何か知っているんじゃない?」
「……済まないが、私から話せる事は何も無い」
「知らないってこと? それとも、僕には話せないって意味?」
「……」
「僕は雪村の兄で、真木の当主だ。その僕に隠す事なの?」
「お前だからこそだ、信倖。私は雪村と約束した。その約束を違える事は出来ない」
「うん。わかった。それなら僕は真木の当主として、君と雪村の縁組を認める訳にはいかない」
ぐっと詰まった兼継に、信倖はにこりと笑いかけた。
「この切り札がある限り、どんなに足掻いても君の負けだよ? 兼継」
+++
二人の間に漂う空気が 凍り付いている。
やがて顔を上げた信倖が、強張った表情で兼継を見据えた。
「……じゃあ今の『雪村』は別人だってこと?」
「今まで黙っていて済まなかった。だがこれだけは信じて欲しい。あの娘は『雪村』に戻る事を望んでいる。それを今まで引き延ばさせていたのは私だ。そしてお前に隠していたのは、兄としてのお前の気持ちを慮っての事だった。あの娘は「いずれ戻るのだから、余計な心配はさせたくない」と言っていた。だから」
「だから今まで通り、気づいてない事にしてくれって? 無茶言わないでよ」
「信倖……」
「兄が弟を思うのは当然だろ? 弟が身体を乗っ取られているのに、はいそうですかとはならない。……でも今の『雪村』を責めるつもりも無いよ。君の話を信じるなら不可抗力だし、何より沼田での功績は、全部彼女のものだ」
短期間で水利の開削を行い、温泉や療養所を作った。
養蚕を始め、関所を通る旅人から収入を得る仕組みを整えた。
真木への献身がなければ出来る事ではない。
大きく息を吐いて、信倖は頭を振った。
「今のままでいい訳がない。でも正直、僕もどうしていいのかは解らない。だから今は君の言う通りにする。ただし、いずれ『雪村に戻る』ことが条件だ」
「厚情に感謝する」
項垂れるように頭を下げた兼継の肩に触れ、信倖が声音を和らげて囁きかけた。
「君にとって酷な事を言っているのは解っている。だから……真木縁者の『雪』との縁組は認めるよ。望むなら”その時”まで、君の手元に置いてもいい。だからどうか、それで許して欲しい」
「……厚情に 感謝する」
長めの前髪が 俯いた顔を隠している。
それでも、どんな表情をしているのかが解る気がして、信倖は居たたまれずに顔を逸らした。




