248.奥州恋歌6
固く縛られた結び目は、いくら歯を立てても全然解けてくれない。擦れた手首から血が滲んで、真っ白だった髪紐が斑に染まっている。
やっぱり駄目だ。
泣きたい気持ちで、私はぺたりと座り込んだ。
身も心も疲れ果て、縛られた手首をぼんやりと見つめる。
こんな事になるなんて想像もしなかった。
……いや、違う。これだって兼継殿は言っていたじゃない。
正宗は女だって気づいている。
油断するな、自分の力を過信するなって。
自業自得だ。
ともすると涙が出てきそうで、私は上を向いてぎゅっと目を閉じた。
泣いている場合じゃない。
正宗のあの台詞が本気なら、このままではこっちが危ない。
こうなったら何が何でも逃げてやる。
それにはまず、この縛めを解かなければならない。
「……」
兼継殿がくれたものなのに。
大切にしようと思っていたのに。
手首の髪紐を見つめていたら、視界がぼやけて苦しくなって。
我慢していた涙が止められなくなった。
*************** ***************
障子窓を開けると、ひんやりとした夜風が頬を撫でてくる。
周りを見回すと、窓のすぐ下には屋根があり、伝って降りられそうなりんごの木が、大きく枝を伸ばしていた。
これなら大丈夫、枝を伝って降りよう。
硝子の破片で手首の髪紐を切った私は、屏風の陰で伏せっているように脱いだ打掛を偽装した後で、そっと障子窓から身を乗り出した。
満月に近い月の明かりが、夜の静寂を照らしている。
幸い奥州は、あちこち怨霊討伐に付き合ったおかげで地理が頭に入っている。この程度の明るさがあればいける。
外の見張りにバレないように、瓦が音をたてないように――
「姫さん」
「きゃ……!」
身を乗り出したところでいきなり声がかかり、私は思わず屋根の上に転げかけた。
「危ないな!」
咄嗟に襟首を引っ掴んで止めてくれたのは、大柄で人懐っこい表情の男の人だった。大きいのに身軽で、気楽そうに歩く足元では 瓦がことりとも音を立てない。
すぐそばに居た筈なのに、私はこの人の気配に全く気づかなかった。
屋根の上にまで見張りがいるの!?
よほど私は愕然とした表情をしたんだろう。
その人は、空いていた左手をぱたぱた振って豪快に笑う。
「俺は見張りじゃないし、もっと言えば正宗の家臣でもないよ。大騒ぎを演じていたから興味が湧いてね。どうだい姫さん、助けて欲しいか?」
誰だかわからないけど、とりあえず頷く。
そもそもこの人の右手は私の襟首を掴んだままだし、少なくともそれは放して欲しい。
「よし乗った!」
闊達に笑うと、その人は私を肩に抱え上げて、そのまま宙に躍り出た。
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二階の屋根から人ひとり抱えて飛び降りて平気なんて、この人は一体、どうなっているんだろう。
悲鳴を噛み殺して目を白黒させている私を、猫を引っ剥がすように肩から降ろした後、その人は懐から草履を出して足元に置いてくれた。
そうか、室内に居たから裸足だった。この人、本当に私を逃がすつもりだった?
「騙されているかも」って気持ちがやっと緩んで、私は頭を下げ、草履をありがたく使わせて貰う事にした。
「ありがとうございます。何とお礼を言ったらよいか。差し支えなければ、お名前を教えて頂けませんか? いつか必ず、このご恩に報いたいと思います」
「ははは! 礼なら小重郎にしてやってくれ。これはあいつの差配だよ」
「しかし実際に助けて下さったのは貴方です。せめてお名前を」
「俺はしがない牢人だから、名前なんていいよ。だが礼をくれるって言うなら、ひとつ頼みがある。おそらくは小重郎もそれが望みだ」
「何でしょう?」
恩人ではあるけれど、変な頼みじゃなければいいな。そう思いながら聞き返すと、男の人は少し困り顔で頭を掻いた。
「正宗を嫌わないでやってくれ。あれは育ちが複雑でな。人への接し方が下手なんだ。今もあんたに嫌われたって、頭抱えて転がってるぜ」
転がっているかはともかく、人への接し方がヘタクソなのは何となくわかる。
だからと言って、それを理由に許せる心境にもなれない。
『イケメン無罪』が私に通用すると思うな。許すとしたら、無事に逃げ切った後だ!
「考えておきます。一応、他のお礼の希望も考えておいて下さい」
「はは! 手強いねぇあんた」
眉をハの字にして笑って、その人は腰に差していた脇差を差し出してきた。
着替える時に置いていった、私の脇差だ。
「本当はこれで縛めを切ってやってくれって、小重郎に渡されたんだ。あんたの仕事が早くて渡しそびれていたけどさ。……無茶したねぇ。傷だらけじゃないか」
手首の傷を手拭いで拭いてくれた後、男の人は にっと笑ってどんと背を叩いた。
「さあ、行った行った! 正宗にバレたら追っ手がかかるぞ。俺も小重郎も、今の正宗は止められない。……逃げ切れよ」
脇差を私に返すなんて。逃がす手助けをしたと正宗に知れたら大変だろうに。
それでも小重郎さんは、夜道を丸腰で逃げなきゃならない事態を避けてくれた。
『ゆきむら』は、こっちの世界でも『こじゅうろう』さんに助けられたな。
もう一度ぺこりと頭を下げて、私は城に背を向けて走り出した。
お礼をするといいながら、あの男の人に自分の名前を伝え忘れた事に気付いたのは、暫くたってからだった。




