226.小夏姫見参2
「所用があるから少し留守にする。その間、家と小夏姫を頼むよ」
私を上田に留め置いて、兄上が居なくなってから数日。
途方に暮れたまま 私は溜め息をついた。
「私が雪村なのは、小夏姫には内緒」と言われたけれど、それならどんな立ち位置で、兄上の代理を務めたらいいんだろう。
結局『桜姫のお付き』を装ったまま、私は日増しにギスギスしていく城内を為す術もなく眺めていた。
「小夏姫は明るくて可愛らしいですね。三河の女性は皆、こうなのですか?」
雑談に興じる家臣たちの、大きな笑い声が聞こえてくる。
その中心では小夏姫が、言葉通り家臣たちと、ぺたぺた触れ合いながら談笑していた。
舌ったらずな甘え声、大袈裟な合いの手、的確に繰り出されるボディタッチ。
本人たちがセクハラだと感じないならいいのか……? と放っているけれど。
別に見たくもない他人のイチャイチャを、強制的に見せられている今の状況って、こちらに対するセクハラにはならないんですかね……!?
そもそも今は、仕事をすべき時間帯なんですよ!
城内では侍女たちが、素知らぬ顔をして立ち働いている。
サボっている家臣たちに『勤務時間は仕事をしろ』と当たり前の事を言えないのは、それを指摘すると「嫉妬している」と斜め上の解釈をされて鬱陶しいからだ。
「もお~ん、小夏姫ってばぁン」
小夏姫に身体を摺り寄せられてデレた家臣のひとりが、くねくねと身をくねらせた。侍女たちは無表情のまま顔を逸らして、見ない様にしている。
将来の兄上の嫁。この肩書きは最強すぎる。
現状ではどうする事も出来ないので、私も仕方なくスルーする事にした。
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ひとりの侍女が、ひょいと部屋に顔を出して聞いてきたのは翌日のこと。
「雪村様、ここに水飴のおくすりってありましたよね?」
「水飴の薬? 膠飴のこと? 厨にあるよ。どうかした?」
「いえ……馬廻衆のひとりが喉を痛めたらしくて。確か雪村様が、水飴は痛みに効くおくすりだって言っていたなと思いまして」
「解った。ちょっと待って」
膠飴とはようするに水飴だ。米や小麦、粟などの粉に麦芽を混ぜて糖化させ、それを煮詰めて水飴状にした物をいう。
ちいさな壺に入ったそれを渡すと、侍女は礼を言って受け取った。
翌日の昼過ぎ。
出先から戻って邸に入ると、庭の方が大騒ぎになっていた。
「空気が乾燥しているからぁ。これを舐めてぇみんな気を付けてお仕事してねえ? 小夏お手製の薬草入りで~す」
甘い声を響かせて、小夏姫が家臣たちに何か配っている。
なにごとかと思って庭に降りようとしたら、昨日の侍女がしょんぼりと壺を持ってやってきた。
「雪村様、これ、ありがとうございました」
「もういいの?」
「はい……」
言葉が途切れて、まるい大きな目から、ぽろぽろと涙が零れ出す。
私は慌てて侍女を、近くの部屋に引っ張り込んだ。
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泣いている侍女が落ち着くのを待って、事情を聞いてみると。
昨日、馬回衆の家臣に膠飴を渡した時は、喜んで受け取ったそうだ。
しかしそれを見ていたらしい小夏姫が今日の朝、大量に買い込んだ水飴を家臣たちに配りだした。そしてそれを貰った昨日の家臣が、「これは返す」と壺を返して来たそうだ。
「ではこれは、厨に返しておきますね」
笑って受け取った侍女に、家臣はしかめっ面で嫌味を言ってきた。
「ただの水飴で治る訳がないって笑われたよ。小夏姫がくれたものには薬草が入っていた。水飴を薬だなんて騙して寄越すなんて、恩着せがましい女だな」と。
そんなつもりじゃなかったのに、と泣き伏す侍女を慰めながら、私は申し訳なさと苛立ちできりきりと胃が痛む気がしてきた。
膠飴は確かに水飴だ。
しかし滋養強壮、健胃、鎮痛、鎮咳などの作用があるれっきとした生薬だし、黄耆建中湯や小建中湯、大建中湯などにも配合されている。
何を混ぜたのかは知らないけれど、薬草を混ぜたら薬になるってものでも無い。
それでも薬だと言って私が渡したせいで、この子が泣く羽目になってしまった。
申し訳ない事をしてしまった……。
声を聞きつけた侍女たちが次々と集まって来て、泣いている侍女を慰めている。
……しかしそれにしても。
障子の外からは、楽しげな笑い声が聞こえている。
「ただの水飴で治る訳がないって笑われたよ」
侍女は気付いてないようだけど、昨日は喜んでいたのなら、膠飴を「ただの水飴」だと笑って、「薬だなんて騙して寄越した」と家臣に悪く伝えた人が居るって事だ。
そしてそうしただろうと思われる人は、ひとりしか居ない。




