224.嘘
私が落ち着くのを待ってくれたんだろう。あれから少し経って。
人払いをした桜姫の部屋で、桜井くんが口を開いた。
「雪村が言うには、戻れるのは『雪が意識を失った時』だ。でもさ、それだけなら雪が女になった直後は、しょっちゅう意識を失っていたよ。あの時は戻らなかったよな?」
「うん。たぶん」
あの頃の記憶は、正直言ってあまり無い。それほど頻繁に気を失っていたから、『気を失えば雪村が戻る』と言われても違う気がする。
でも、それがひとつの条件なのは間違いない。
「もう一度、気を失って試して……って言っても、そんなに簡単に失神なんて出来ないよ。どうしたらいいんだろう」
マンガだったら手刀で首をとん、と打てば簡単に気絶するけれど、実際にやろうとするとなかなかに難しい。
「いずれにしろ、意識が戻ったら女に戻るんだしさ。『元に戻る方法』としては半端だよ。きっと『意識を失う』以外にもトリガーがある。まずは俺たちで、そっちを探ろうぜ」
考えながら話す桜井くんに、私は内心ほっとしながら頷いた。
兼継殿にも話すべきか、迷っていたから。
兼継殿がこれを知ったら、効率的な意識の失い方を見つけてしまうかも知れない。
『雪村に戻すトリガー』にも気付くかも知れない。
雪村の事を考えるなら 早く教えた方がいい。
でもそうなってしまったら、私はもうこの世界に居られない。
もう少し 時間が欲しい。
まだ皆とお別れする心の準備が出来ていないし、この世界でやり残していることがたくさんある。
あんなに『雪村』を戻したかったのに。
今は 雪村を戻す方法が解るのが怖い。
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翌日、私は沼田に戻る前に御殿を訪れた。
一晩考えて、やっぱり兼継殿に話そうと心を決めて。
兼継殿は『契る以外で男に戻す方法』を真剣に探してくれている。
そのヒントが見つかったのに、自分の都合で黙っているのはやっぱりズルい。
「お仕事が終わったら少し時間をください」と伝えて貰おうと取次にお願いしたら、兼継殿はお休みだったので、私はそのまま直枝邸に向かった。
「兼継様は来客中です」
お邸の侍女が申し訳なさそうに教えてくれる。……そうですよね。用事があるからお休みなんですよね。
出直そうと踵を返しかけたら、奥から兼継殿がしゅっとした立ち姿のお坊さんと、連れ立ってやってきた。
「雪村、来ていたのか」
ちょっとだけ目を見開いた兼継殿に返事をする前に、「きみが、件の子だね」と、私の前で少し屈んだお坊さんが、目線を合わせてふわりと微笑んだ。
何の事か解らなくて、兼継殿とお坊さんを交互に見ていると、お坊さんはゆったりと兼継殿を振り返った。
「兼継。少しこの子と話がしたい。時間をもらえる?」
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迦哉虎徹、と名乗ったそのお坊さんは、しゅっとした姿勢でふわふわした雰囲気の、少し不思議な人だった。
兼継殿とは、同じ寺子屋で勉強をしていた幼馴染だという。
「君は、不思議な霊気をしているね」
それってどういう意味だろう。
ふんわり優しく話しかけてくるお坊さんを、私は少し警戒して見返した。
その空気を察したのか、やんわりと微笑む。
「警戒しないで? そのままの意味ですよ。君はこの世界の者ではないでしょう?」
あまりに穏やかで、私はあっさり正体が見破られた事にしばらく気付かなかった。
何て言っていいか解らなくて黙っていると、お坊さんがそっと目を逸らす。
「私は兼継が、とても小さかった頃から知っています。書籍を読むのが好きな子でね、学問で身を立てたいと言っていました。でもそれは叶わなかった。君が上森家に仕官したいと言った時、兼継もそれを望みましたが それも叶わなかった」
兼継殿のことを、本当に思いやっている人なんだろう。
慈しみに溢れた静かな声が、染み入るように溶けていく。
「今の兼継は、君を引き留めておく手段を懸命に探しています。しかし君には、君の事情があるのでしょう」
「……はい」
「私は君の事情には踏み込めない。けれど兼継が、悲しむ姿も見たくない。だから」
伏せられていた目がゆったりと こちらに向き直る。
「少しでも兼継を想うのであれば、優しい嘘をついてあげて。最後の瞬間まで 居なくなる事は 伏せてあげて」
「やさしい嘘……?」
「はい。例え限られた時間であっても、何の憂いもなく『幸せだった』と思える時間を作ってあげてほしいのです」
初めて会った人なのに、何も話していないのに。
この人は私が異世界から来たことに気付いている。
そしていずれ、帰ることも。
それでも、すべてを見透かしているこのお坊さんを、私は怖いと思わなかった。
きっとこの人も、兼継殿に優しい嘘をつく人なんだろう。
そして私が伝えようとしている事は、兼継殿の負担になると教えてくれている。
……この事、兼継殿には黙っていよう。
「ご助言、有り難うございました」
私は深々と お坊さんに頭を下げた。




