196.執政の逆襲3
障子が蹴り飛ばされた部屋の中。
薄暗い奥の方まで引っ張り込まれた私は、兼継殿にぎゅっと抱き締められた。
隙をついて逃げるのを、まだ警戒されているみたいだ。
「……何故、お前は越後に来なかった」
怒られると思っていたのに、その声は消え入るように小さくて。私は驚いて兼継殿を見上げた。
でも明るいところから、急に暗い室内に引っ張り込まれたせいか、表情がよく見えない。
「おなかが、痛くなったのです」
「その腹痛はこの先、越後に来る時期になれば起こるのか?」
何でそんな事を聞くんだろう。
不思議に思ってじっと見ていると、目が慣れたのかちょっと苦笑したのが判る。
「私に 会いたくないのだろう」
「いえ、そういう訳では」
「ならば何故、越後に来なかった」
堂々巡りだ。
おなかが痛かった。でもそんなの 本当は言い訳だ。
行かなかったのは、兼継殿と顔を合わせるのが気まずかったから。
「……会いたくないのではありません。ただ、その……兼継殿を怒らせてしまったので、気まずかっただけです」
「怒らせた事など初めてではあるまい。やはりあの時に、口づけた事を厭うているのだろう」
そりゃバグってあんな事をされればね。それなのにこっちばっかり意識してるのも恥ずかしいし、何て言っていいか解らなくなってきた。
「兼継殿は、私が言う事を聞かないからと お仕置きをしたつもりなのでしょうが、私は初めてだったのです。ああいう事は、好きあった男女がする事だと思っていたので……その……顔を合わせるのが恥ずかしいというか……」
「……なに?」
「だ、だからその……はじめてだったんです。……それで……どんな顔をしてお会いしたらいいのかわからなくて……」
何でこんな事を言っているんだろう。
そっちの方がよほど恥ずかしくて、顔を逸らしたまま、もそもそと言い訳をする。
しばらくたっても兼継殿が黙ったままなので、私はそっと見上げてみた。
兼継殿が 声を殺して笑っている。
「笑いごとではありませんよ!? か、兼継殿があんな事をするから……っ!」
文句を言う私に、笑いを堪えた声で すまんすまん、と軽く謝ってくるけど、全然反省している風じゃない。
怒っている私を捕まえたまま、兼継殿の指が私の唇に触れる。
「何だ。全くの無頓着という訳でも無いのだな」
「え?」
「口づけは『はじめて』だったか、済まなかった。では、どうしたら許してくれる? 仕置きでされるのは嫌だと言ったな?」
あの怒り狂って乗り込んできたのは何だったんだ? ってくらい、いきなり機嫌が直ったようだけど、こっちの機嫌は直ってない。
「そういう問題じゃありません。そうだ 兼継殿、雪村が男な以上、私もここでは男ですよ? 男同士でそういう事はしないんです」
突然、大事なことを思い出した私は、きりりと居直った。
そうだ、私は雪村。そして雪村は『男』です。
あろうことか雪村の留守中に、雪村のファーストキスを兼継殿に奪われてしまった。
あああしまった……! 腹痛まで起こして恥ずかしがっている場合じゃなかった。雪村が戻ったらジャンピング土下座な案件ですよこれは!!
兼継殿も兼継殿だよ! これじゃあ泉水殿が、必死でホモ疑惑を打ち消してくれた意味が無いと思いませんか!?
ほんとにもう、兼継殿も雪村に謝ってほしい。
今度は頭痛を起こしそうな私とは対照的に、兼継殿はくつくつと笑ったままだ。
そして。
「そうか。だが男同士で湯屋には行くだろう。裸の付き合いに比べれば、口をつける程度の事など、どうという事もあるまいに」
さらりと言って笑う兼継殿を、私は目から鱗が落ちた気分で見上げた。
え? すっぱだかになるお風呂より、キスの方が恥ずかしくないってこと?
そうだ、ここは戦国時代。いつ戦が起きて、生死を彷徨うか判らない時代。
もしかしてこの時代のキスって、人工呼吸と同じ感覚なのかな? アレなら確かに恥ずかしくない。
なるほど、言われてみればそうか。
……
…………そうなのか?
言われてみればもっともなんだけど、うまく誤魔化されたような……
何かよく解んないけど、兼継殿がそういう認識なのは解った。
兼継殿にとっては銭湯>キス。人工呼吸=キス。
こんな事で照れたり悩んだりする方が馬鹿だって事、なんだろう。
なるほどなるほど。この世界の人って、皆そういう認識なのかな?
気持ちが軽くなって、私は兼継殿に笑い返した。
「兼継殿の機嫌が直って良かったです」
「では今度は、お前の機嫌を直さねばならんな。今は娘の身体だ。先ほどの前提には該当しないな?」
「え?」
先ほどの前提? さっき何て言ったっけ?
そう思いながら見上げていたら。
いつの間にか 兼継殿の顔が近い。
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「雪村大丈夫!?」
ばたばたと足音が聞こえて、桜姫が駆け込んできた。そしてぎょっとした顔で立ち竦む。
続いてすぐそばから「どうしたの桜姫!? ふたりは居た!??」って兄上の声も聞こえてきた。
しまった! 今の私は、兼継殿に捕縛されている状態。……見ようによってはハグされているみたいに見えなくもない!
兄上の声には、さすがの兼継殿もぎょっとしたみたいだけど、この体勢を誤魔化しきれる時間がない。
その直後
「きゃああ滑っちゃったあ!」
わざとらしい悲鳴を上げて、桜姫が兄上に飛び掛かった。
残っていた障子の向こうに、エルボーくらって吹っ飛ぶ兄上の影が映る。
重ね重ね ありがとう桜井くん!
私と兼継殿は即座に体勢を立て直し、兼継殿が蹴倒してきた襖を嵌め直しながら、奥へ奥へと逃げる事にした。
銭湯が一般化したのは江戸時代からで、初期の頃は混浴だったそうなのですが、そこは異世界設定ってことでお願いします。