165.執政の接待と春之祭典1
そろそろ越後に行く時期だな。
私は障子を少しだけ開け、ちらちらと雪が降り始めた空を見上げた。
越後はここと違って豪雪地帯だから、ちゃんと身支度をしていかないと、ほむらに乗っていてもさすがに寒い。
冬の間は桜姫は越後で引き籠り。そしてひと月おきに私が越後に顔を出す、という取り決めになって二か月が過ぎた。
こんな面倒な事をしていると、桜姫は実家の上森に常駐していた方がいいのかなと思うけど、桜井くんと離れるなんて私が困る。
そうだ。今回は越後に行く前に上田に寄って、兄上にお願いしなきゃならない事があるんだった。
「雪村さまぁ、お着替えはこれでいいですかぁ?」
「うん。越後に行く前に上田にも寄るから、兄上にもお土産を用意してくれる? そうだ、干し柿を作ってたよね?」
風呂敷に筆記用具を詰めながら、私は根津子に返事をした。
ふた月前の滞在は突然だったから、全然お泊まり準備をしてなかった。全部あちらのお世話になったんだけど、洗い替えが無くて、女物の小袖を着せられたんだよね。
だから男物の洗い替えは必須だ。
荷物を纏めながら、私はちょっと笑ってしまった。
数日だけの滞在なのに すっごい大荷物だ。
「雪村さま、嬉しそうですねぇ。会いたい方でもいらっしゃるんですかぁ?」
「うん。前に桜姫が干し柿が食べたいって言ってたんだ。ちょうど良かったなって」
くすくす笑って聞いてくる根津子に笑って返す。
ここで作っている干し柿は、しっとりとした歯ごたえで甘味が強く、大変美味だ。
「こちらの侍女衆の自信作ですよ! 喜んでいただけると思います!」
大笑いしながら、根津子はどんと胸を叩いた。
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干し柿が好きな兄上は、嬉しそうに包みを受け取りながら聞き返してきた。
「佐助を?」
「はい、相模で探りを入れたい事があるのです」
「まだ修行中の半人前だよ。本当に佐助でいいの?」
はい。だって本職の忍びを借りて何事も無かったら、ちょっと気まずいから。
「いったい何を探りたいの?」
何て答えるべきだろう。
「沼田城が東条家に奪われるかも知れないから」
……って言っても、こっちの世界ではどうなるか、まだ未定だからなぁ。
しばらく考えてから、私はとりあえず『確定している』事で言い繕う事にした。
「陰虎様の重臣に、首藤殿という方が居るのですが。その方に注意しろと言われているのです。なのでその動向を少々」
「ふうん。何かしたの雪村?」
「何かしたのではなく、されそうなのです。首藤殿が衆道だそうですよ」
兄上が、目を丸くした。
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今はまだ雪深いけど もう少しで春になる。
領民に採取を頼む為にも、もう少し生薬の勉強をしておきたい。
だから今回の滞在では、兼継殿に生薬の書籍を見せて貰おうと思っている。何冊か持っていた筈だ。
「兼継殿!」
御殿の前で仕事が終わるのを待ち伏せて、私は兼継殿に駆け寄った。積もった雪で足をとられそうだ。
空はもう真っ暗なのに、周囲が白い雪に覆われているせいか、薄ぼんやりと明るい感じがする。
そのせいで、兼継殿が少し驚いた顔をしたのもよく見えた。
「もうそんな時期か。今度は何だ? 最近お前を見ると、どんな厄介事を持ち込むのかと不安になるな」
私が雪村じゃないって解っても、今まで通りに接してくれてほっとする。
だから私も、今までしていたように照れ笑いで誤魔化して、さっそくお願いごとを切り出した。
「少しお願いがありました。兼継殿は生薬の書籍を持っていましたよね? どのような物か見せて頂けたらと思いまして」
漢文を読むのが趣味の兼継殿の部屋には、とんでもない量の書籍がある。
ちょっとした図書館並みだ。
「どれの事だ? 神農本草経か? 本草網目か?」
「えっと……」
そこまで解らない。とにかく私の頭で理解できて、なるべく詳しいやつがいいな。
しかしそう言われても、私の頭の出来なんて兼継殿には判らないから、お互いに黙り込んでしまった。
「書籍の内容を検めた方が早そうだな。私の邸に来るか?」
「はい! 今からいいですか?」
ちょっと考え込んだ兼継殿が提案してくれたので、私は一も二も無く飛びついた。
善は急げだと張り切って答えたのに、兼継殿はしばらく黙って私を見つめた後で、とんでもなく深い溜め息をつく。
「……明日 明るくなってから来てくれ」
冬だから暗いけど、まだ暮六つだよ?
まだまだ夜はこれからですよ! という私にはお構いなしで、兼継殿は私を奥御殿へと続く扉に押し込んだ。
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翌日、陽がそこそこ高くなってから兼継殿のお邸に行ったら、兼継殿がまだ居た。
「兼継殿、お仕事は良いのですか? 私は適当に見せて貰いますから、どうぞお仕事に戻って下さい」
参考になりそうな内容はちょっとメモらせてもらおうと、紙や硯をばさばさ持参している私に、兼継殿が苦笑する。
「そう邪険にするなよ。前に言っただろう。お前は沼田の城代なのだから、次に来た時は接待してやる、と」
言われてみればそんな話をしていた……けどこれ、めっちゃプライベート案件なんですけど。
まあでも兼継殿は、いつも仕事ばっかりしてそうだしね。たまには『接待』名目でサボるのもいいか。
「ありがとうございます。兼継殿が居てくれるなら、いろいろと聞けて助かります」
その時は特に考えずにそう言ったけど、後で死ぬほどそれを実感する事になる。