153.五年前の経緯3
「……は?」
おもわず首藤は顔を上げ、隣に座る兼継をまじまじと見返した。
淡々とした横顔からは、何の感情も読み取れない。
「アホいいなや。あれは野良犬や。なんでこっちが謝らなならんのや!」
いきなり何を言いだすのだ、馬鹿々々しい。
大声で食って掛かった首藤を、楽しげな剣神と何が何やら判っていない陰虎がじっと見返す。
思わず素に戻ってしまった事に気づき、白皙の頬にさっと朱が差した。
それに気づいているのかいないのか、兼継が心外だと言わんばかりに苦笑する。
「これは異な事を。剣神公がおっしゃりたいのは、城下で暴れたという『手拭いを巻いた柴犬』の件でしょう。その犬は先日、首藤殿ら陰虎殿の小姓衆が『名をつけて』『可愛がっていた』犬では? 『可愛がっていた』様は、大勢の者が見ております。それほどに目を掛けた犬を、領民に迷惑をかけたからとて、野良犬と切り捨てるのは可哀そうでしょう」
犬への同情を滲ませ、兼継がそっと目を伏せる。
「……!」
口もきけない首藤に追い打ちをかけるように、兼継が顔を上げ、再度口を開いた。
「怪我をしたと訴え出た領民には、僅かではありますが、影勝様から見舞金を渡してあります。見たところ、首藤殿は陰虎様に報告していないご様子。今後はその様な事がない様にお願いしたいものです」
深々と頭を下げた兼継に、剣神が闊達に笑いかける。
「そうかい。ご苦労だったね、影勝、兼継。今後、怪我をした領民が城に訴え出てきたら、こちらから見舞金を渡しておやり」
側に控えた側近に声を掛け、楽しげに笑いながら剣神は席を立った。
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「城下で『手拭いを巻いた犬を見なかったか。手負い故、気が立っている。もしその犬に怪我をさせられた者がいたら、城まで訴え出て欲しい。見舞金を渡そう』と言っただけですよ」
あっさりと話す兼継を、泉水は唖然として見返した。
本当に犬に襲われたかなど、誰にも判らないのだ。『見舞金』が貰えるのならば、それくらいの嘘をつく者は大勢いるだろう。
『手拭いを巻いた犬にやられた』と言えばいいだけなのだから。
犬に手拭いを巻いたのは、言い逃れ出来ないようにするためか。その時の首藤の顔を見てみたかったな。苦笑して、泉水はぽんと兼継の肩を叩いた。
「お前も悪いね」
「私とて、影勝様をあのように悪し様に言われては、腸が煮えくり返る思いですよ。あちらには存分に責めを負っていただかねば」
僅かに苦笑して、兼継が目を逸らす。
首藤らを上手くやり込めてやった事に泉水は留飲を下げたが、当の本人は 言葉の割にずっと冷静だった。
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ある日の早朝。朝の鍛錬を日課としている泉水が鍛錬場へ向かうと、珍しく兼継と雪村の姿があった。
手には木刀も槍も持たず、雪村の腹に手を置いた兼継が何事か話しかけている。
ふたりともやたらと真剣で、大きく深呼吸を繰り返しているようだ。
しかし何をしているのかはさっぱり解らない。
「何の修行?」
声を掛けたいが、集中を邪魔しそうでそれも躊躇われる。
こっそりと様子を窺っていると、身体をくの字に折った雪村が突然笑いだした。兼継も一緒になって笑っている。
子供の頃から年上ばかりに囲まれていた兼継は、年齢の割に大人びた所があったが、雪村の世話役になってからは、年相応な顔を見せるようになった。
こんなに屈託なく笑っているところなど、むしろ子供の頃は無かったことだ。
何が何やら解らないが、緊張が解けた今なら、声を掛けてもいいだろう。
「何やってんの? お前たち」
声を掛けようとしたちょうどその時、どこからか現れた剣神が乱入してしまった。
軍神と鍛錬場で出会った場合、きっつい鍛錬を課される可能性大だ。面倒になった泉水は声を掛けるのを止めてその場を去ることにした。
「……あれ? あいつ、鍛錬場にいたかな」
帰り際、近くの小路ですれ違った首藤にどことなく嫌な雰囲気を感じたが、泉水は素知らぬ顔で通り過ぎた。