149.安芸返信1
「ちょい、待ってや。安芸殿」
肩を強く掴まれて、安芸は渋々足を止めた。
上方出身でもないのに、あちらの商人を真似たような喋り方が胡散臭い。お道化たような口調とは裏腹な鋭い狐目を見返して、安芸は困ったように微笑んだ。
「何度も申し上げておりますが、あの方とお会いしたのは先日が初めてです。難波殿に難儀しているようでしたので、声をお掛けしただけですよ」
陰虎様の近侍とはいえ、主の私邸に単独で乗り込んでくるとは思わなかった。
花姫付の侍女として仕えている安芸は、困った風を装いながら周囲の同僚たちに目配せした。
意図を察した同僚たちが、遠巻きにひそひそと耳打ちする。
さすがに気まずくなったか、安芸の肩を掴んでいた手がわずかに緩み、それを待ち構えていた安芸はぐいとその手を振り払った。
「もう よろしいかしら?」
にっこりと微笑みながら横をすり抜ける。すり抜け様に ち、と舌打ちが聞こえたが、安芸は振り向きもせず場を離れた。
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「ありがとう。助かったわ。しつこい殿方には困ったものね」
「どうしたの? こんな所まで押し掛けてくるなんて、おだやかじゃないわよ?」
心配と好奇心をない交ぜにした同僚たちに、何か事情を説明しなければいけない。出来るだけこちらが有利になるような嘘を。
安芸は同僚と連れ立って歩きながら、大袈裟に溜め息をついた。
「実はね……」
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殆ど書き進んでいないのに、もう手元が薄暗い。考え込んでいる間に、明かりを灯さなければならない刻限になってしまった。
どのように雪村に知らせるべきか。
安芸は一度、筆を硯に置いて頬杖をついた。
正室の花姫が越後から輿入れした事もあり、相模と越後の間では、定期的に飛脚が行き来する。
飛脚が届ける文は、すべて城の『取次』によって検閲される。
これからの安芸の文は、首藤にも筒抜けになると思って良い。あの男なら取次に、それくらいの根回しはしているだろう。
幸い、まだ『越後の雪』からの文には気付かれていないようだが、これからは細心の注意を払わなければならない。
注意を払うべきではあるけれど、問題はその方法だ。
大名が内密の文を遣り取りする場合は、家臣や僧、山伏などを使い、伝言を託す。
だが一介の侍女にそのような事は出来ない。
だからこそ『情報の受け渡しは直接会ってする』と取り決めたのに、まさか『雪村と会う』約束の文まで秘密にしなければならなくなるとは。
「まず、雪村はどこまで知っているのかしら。そこの注意を促すところからね」
硯に置いた筆を再び取り、安芸は独りごちた。
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「『安芸から文が来た』と、兼継様にお伝えなさい」
文に目を落としたまま老女が命じると、侍女のひとりがすっと立ち上がり、部屋を出ていく。
老女の手には、文と共に送られてきた細長い布包みがあった。
手元の包みと老女を交互に見比べながら、桜姫が戸惑いがちに訊ねる。
「安芸は何故、雪村ではなく老女にお文を出したのかしら?」
不思議にも思うだろう。雪村からは「自分宛に、安芸から文が届く」と聞かされ、その仲立ちを頼まれていたのだから。
「そうでございますね。私宛てではありますが、実際のところは兼継様宛て、といったところでしょうか。これは雪村にも知らせますよ」
本人が嫌がって伸ばし伸ばしにしていた件を、とうとう実行しなければならない時が来たようだ。老女はちらりと幼さの残る、整い過ぎた顔に視線を戻した。
せめてこの姫の耳に入れないのが『武士の情け』というものだろうか。
雪村は『桜姫と兼継は親しくしている』と思っているようだが、侍女衆の目には、お互いに足を掬う隙を窺い合っているようにしか見えない。
それはともかく黒歴史とは、腹痛のようにじわりじわりと蝕むものである事よ。
幼い子供の頃から知っている執政の とり澄ました顔を思い浮かべ、老女は頬筋と腹筋がくつくつと痙攣するのをぐっと抑え込んだ。
本人は至って真剣なのだ。笑っては可哀そうだろう。
「そうですね、姫様。私は少し席を外させていただきますわ。おやつにみたらし団子を用意してあります。少し休憩なされては?」
「解ったわ。何かあれば教えて頂戴」
人払いが必要な案件だと理解したのだろう。
察しの良い姫で助かる。
「兼継様がいらしたら、私の部屋に」
そばにいた侍女に耳打ちして、老女は部屋を出て行った。