134.【番外編】安芸追憶 4 ~side A~
時は流れ、それからいろいろな事が起こりました。
剣神様の死。そして御館の乱。
上森がふたつに分かれて戦になる。
そうなる直前に、越後の龍は影勝様を主と認め、影勝様が正統な後継者と定められました。
また相模では、大殿様の遺言状が公開され、次期当主として陰虎様も相模へ戻る事になります。
そして私は、陰虎様と共に相模に戻る父から『武隈の間者』を引き継ぎ、越後に残る事にしました。
『武隈の間者』をしていれば、武隈家臣の真木家である雪村と繋がっていられる。
時が流れても、私は雪村を忘れる事は出来ませんでした。
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大阪での花見の為、影勝様が上洛した時の事です。留守居の兼継様の元に『早馬』が飛ばされてきました。
これは緊急の連絡を意味します。
兼継様は文を握りしめたまま、城へと向かいました。
その頃の私は御殿ではなく、兼継様のお邸で侍女を勤めていました。
ぼんやりと闇に浮かび上がる春日山城を邸から眺めていると、ふと「これは誰かを迎え入れる為にしている事ではないかしら」という気がしたのです。
心が騒いで いてもたってもいられなくなり、私はこっそりと春日山城へと向かいました。
城門が開かれて篝火が焚かれ、城は物々しい雰囲気に包まれていましたが、何が起きたのかは解りません。
周囲の侍女に尋ねると、やはり「誰かいらっしゃるみたいよ?」と応えが返りました。
どれほどの時が流れたでしょう。
遠くの山に小さな篝火がぽつんと灯り、それは木々の間を縫ってものすごい速さで近づいてきます。走っている人間の速さではありません。
やがて城門から飛び込んできたのは、炎を纏った白い虎でした。
その背から降りた若い男の人は、腕に少女を抱きかかえたまま案内を乞い、急ぎ足で奥御殿へと向かいます。
ひとつに結った長い髪、榛色の凛とした瞳。
それは女の子みたいだったあの頃よりも、ずっと背が伸びて、すっかり大人の男の人になった雪村でした。
しかし私は雪村に再会出来た事よりも、心を塞ぐようなもやもやとした気持ちの方が勝り、素直に喜ぶことが出来ません。
あの少女は誰なのでしょう。
雪村は随分と、 あの娘を大切にしている雰囲気でした。
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やがて私は、あの少女が剣神様の娘・桜姫で、雪村とは幼馴染だと。
雪村は亡くなられた信厳公より姫の守護を託され、その見返りに炎虎を下賜されたのだと知る事になります。
その時点でもう、敵う要素がまったくありません。
ましてや桜姫は、男勝りでいらした剣神様とは似ても似つかない儚げな美少女で、宝物を守るように寄り添う雪村を見るのは、辛いを通り越して絶望でした。
桜姫の居場所を探す武隈の乱波に「越後に匿われている」と知らせたのも、間者としての使命感からではありません。
きっと桜姫など居なくなってしまえばいい、と心の奥底で願っていたからです。
そんな私に、神様が罰を当てたのでしょうか。
皮肉にも私は『桜姫の影武者』として、雪村とともに上田城へと赴く事になりました。
神様の罰はそれだけではありません。
雪村は、私を覚えていなかったのです。
一度や二度会っただけの女など、覚えていなくて当たり前。たとえそうであっても、悲しくない訳がありません。
しかし一度絶望してしまえば、それ以上は絶望し様がないのだと、私は改めて知りました。
それでも桜姫にするように、私に対しても親切に接してくれる雪村を、私は嫌いになる事が出来ません。
それどころか私は、無邪気で屈託ない桜姫も嫌いにはなれませんでした。
どうしたら良いのでしょう。
絶望したまま 誰も憎む事が出来ず、好きな人を裏切る間者をしている。
私の最後はやはり 神様の罰が当たって死ぬのでしょう。
せめて雪村の記憶に残りたい。覚えていて欲しい。
命と引き換えでもいいから。
辛くて辛くて、それでもどうにも出来なくて。
いつしか私は、自分の死に場所を求めていた気がします。
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私は最初から、策に嵌まっていたのです。
全てが露見して、私が武隈の間者だと 雪村に知られて。
「私の役目は桜姫の影武者が間者であった場合、貴女を 殺すことです」
そう宣告された時も、死ぬのが怖いとも、助けて欲しいとも思いませんでした。
どうせ死ぬのなら雪村の手に掛かりたい。
これでやっと私は 彼の記憶に残る事が出来るわ。
それがたとえ 裏切りの間者としてでも。
最後だからと、勇気を振り絞って触れた雪村の手。
そこから発せられていたのは 炎のような確かな殺気。
それなのに、それを抑える冷涼な霊気が 雪村の殺気を相殺しました。
不思議な感覚でした。
まるでふたつの霊気が、同じ身体の中で鬩ぎ合っているかのような。
刀に掛けられた雪村の右手に手を置いたまま、私は雪村を茫然と見上げていました。
どれほどの刻が過ぎたのでしょう、いえ刹那の間だったのかも知れません。やがて私の手に彼の左手が重ねられ、雪村は静かに微笑みました。
「今度は忘れません。しかし思い出にもしたくない。だから安芸殿、今度は真木の間者になってくれませんか?」
その言葉を、私は信じられない思いで聞きました。
私を「殺せ」と命じたのは兼継様です。
雪村が、兼継様の言に逆らうなどありえません。
ありえない事が起きたのです。
そしてもうひとつ。
私を忘れている雪村に、私は「花贈りで、私にくれた返花を思い出して」と呪いをかけていました。
秋が来るたびに、秋海棠を見るたびに雪村は、返花に何を返したかを思い出そうとするでしょう。
それなら私は、秋が来たら彼に思い出して貰えます。
そんな浅ましい想いに、雪村は『風鈴草』を再び返してくれました。
風鈴草の花言葉は『感謝』。
私を絶望から救ってくれたこと、命を救ってくれたこと。
「私の願いを聞いてくれた事に『感謝』を」
雪村はそう言いましたが、その花言葉は、私から雪村へ返さなければならないものです。
私はこの時に一度死にました。そしてもう一度生まれ変わったつもりになります。
私はもう、記憶の中で生きる事を望みません。
死ぬ時は雪村の為に 前を向いて討ち死にです。
そう決めました。