116.桜姫と秘密のミッション3 ~side S~
「あのね桜井くん、もうひとつお願いがあるんだけど。いい?」
文机に向かって何か書いていた雪が顔を上げた。
今日は雨だから散策はナシだが、俺は雪村の部屋に、菓子持参で押しかけている。
桜姫は暇でも、雪村は忙しいからな。そんなに俺の相手ばかりはしていられない。
菓子を食いながら「なに?」って顔をした俺に、雪はちょっと考える顔になった。
「越後に戻ったら、この手紙を出してくれる? それで返事が来たら教えて欲しい」
「誰宛て? ここの奴らには内緒で?」
先刻まで書いていた文を受け取りながら聞き返すと、宛先は安芸だという。
安芸は今年の夏まで、上森家に仕えていた侍女だ。そしてちょっと複雑だが、安芸の父親は陰虎の側近で、武隈の間者でもあった。
御館の乱後に父親が相模に戻ってからも、安芸はそのまま侍女として、上森に残っていた。……父に代わる武隈の間者として。
そして武隈との川中島の戦いの時、安芸のスパイ活動もバレた。
本来なら始末されるところだが、雪村が「真木の間者になってくれ」と見逃し、そのまま放出したと聞いた。
だがそれは、安芸を殺したくなかった雪の方便だ。今後も関わるつもりがあるとは思わなかった。
今は相模に戻っている安芸に、雪は何の用だろう。
「大丈夫か? それ、兼継は知らないんだろ?」
それこそあいつの許可が必要る案件じゃないが、安芸は『兼継が「始末しろ」と言ったのを、雪村が見逃した』って経緯がある。
俺としてもこれ以上、安芸とは関わらない方がいいんじゃないかと思うんだ。
あの兼継が『安芸が武隈の間者』とは見破れなかった程度には隠密スキルが高いんだ。雪に使いこなせるとは思えない。
「うーん。どうなるか判らないから、他の人には言えないんだけど」
小さく呟いて、雪はそろりと俺に近付いた。内緒話みたいに手を口に当てる。
「日本史で『小田原征伐』って聞いた事ない? 豊臣氏に攻められて、北条氏が滅亡する戦のこと。……あれね、きっかけは沼田城なの」
俺はびっくりして、雪を見返した。
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いくら日本史を選択していなかった俺でも、小田原征伐くらいは知っている。ただきっかけまでは知らなかった。
雪が言うには、沼田城が真田氏の支配下だった頃。北条が「沼田城をくれたら豊臣に従属する」と言ったから、沼田城が割譲(引き渡される)される事になった。
真田氏は、沼田城を保持する為に臣従先を替えまくっていた。そんな事をされたら当然不満だ。
だが天下の豊臣家には逆らえない。沼田城は北条氏に引き渡された。
ところがその後、真田氏の城だった名胡桃城まで北条氏に占拠されてしまった。
しぶしぶ沼田城を明け渡したのに、名胡桃城まで盗られては堪ったもんじゃないし、豊臣氏は最大限の譲歩をしたのに約束を破られた事になる。
豊臣に従属する約束を果たさないまま惣無事令(大名同士の私闘を禁止した法令)に違反した、って事で『小田原討伐』って流れになったらしい。
「でもこっちの秀好はもう死んでいるし、今は富豊家も、東条を従属させようとしてないでしょ? そうなると『小田原征伐』が本当にこっちの世界で起きるかどうかが解らないんだよね。もし、こっちの世界の東条も沼田城を獲りに来たらフラグが立つ。だから東条家でそういう噂が出てないか、安芸さんに聞きたいの」
ただそんな話が出ていた場合、沼田や上田から文が届くと、安芸に迷惑がかかる。だから同盟を組んでいる越後経由で送ってくれないか? って事らしい。
「それって本当に、こっちでも起きるの? ゲームではそんなの無かっただろ?」
「ゲームでは『雪村の沼田統治』だって無かったでしょ?」
「確かに」
「そもそも日本史でも、雪村の沼田統治なんて無いしね。こっちの歴史と日本史は、似ているようで別物だよ。そうだ、桜井くんは正宗攻略した?」
「え? ああ、したよ」
いきなり話が変わって面食らったが、正宗攻略は終わっている。東軍武将は好感度管理が必要ないから、片手間でオトせる。
「正宗と桜姫が恋人同士になるイベントの時、正宗が死に装束だったのは覚えてる? 日本史では伊達政宗が死に装束を着たのって、小田原征伐に遅参した時なの」
ああ、そのイベントはよく覚えている。
正宗ルートは、悲恋エンドが多い西軍武将と比べたら糖度が高い。というか、恋愛脳全開だ。
桜姫とイチャイチャしていて家臣の忠告を聞かず、何か大ポカをやらかしたらしい正宗が、死に装束を着て謝罪に赴くイベントが、確かにある。
改訂版の『花押を君に ~戦国恋歌・NEO~ 』では、携帯ゲーム版から18禁仕様にシナリオが改変されていた。やらかした正宗は「最後かも知れないからヤらせて」と、悲壮感満々の断れない雰囲気を作って桜姫と契るんだが、あっさり赦されて元気に戻ってきやがった。
あれ、裏設定では小田原征伐の遅参だったのか?
「でも、死に装束だけじゃ解らないでしょ? こっちの世界の正宗が、他にも何かやらかしたのかも知れないし。だから確認したいの」
正宗が、他にも何かやらかしている可能性……なるほどな。ありえるわ。
雪が『見ていいよ』といった身振りをしたので、俺は文を開いてみた。
『安芸さん、お久し振り! 里下がりしている間に相模に戻ったと聞いて驚いています。どお? 都合のいい時に会えない?? お返事まってます』
みたいな内容で、差出人は『雪』となっている。
侍女仲間を装った手紙だが、安芸は気づくだろうか。
「沼田城を盗られるのも困るけど、事を構えた場合、上森とも敵対する事になるかも知れないから」
こっちの世界の上森と東条は、同盟を組んでいる。『小田原征伐』が起きた場合、義理堅い上森は東条方につく可能性がある。
上森とは敵対したくない、でも『沼田城城代』として、有事の際には戦わなければならない。
雪としては板挟みだろう。
俺だって、雪と対立なんて嫌だよ。桜姫は上森の姫だ。
手紙を受け取りながら、雪の細い肩にぽんと触れる。
「分かった。越後に戻ったら速攻で手配するよ」
「こんなこと、兼継殿には言えないから。桜井くん 協力してね」
「OKOK!まかしとけ!」
俺は全力で笑って、不安げに笑う雪の肩をぽんぽん叩いた。
次から次へと、何でこいつばっかり大変な目に遭うんだろうな。
何だか雪も同じ事を考えていそうな顔つきで。俺たちは顔を見合わせて苦笑した。