110.兼継 来訪 ~side R~
「宇野。これを至急、殿に届けてくれ」
筆頭家老の矢木沢殿から書簡を渡されたのは、越後の執政が沼田に来るという まさにその日だった。
信倖様に知らせなければならない火急の用件などあっただろうか。いや、ない。
「これは急ぎの書簡ですか? 別に俺でなくとも……」
「何か言ったか?」
老年に差し掛かった貫禄ある眼が、渋る俺をじろりと睨む。
これはいくらゴネても無理だ、行くしかない。
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数日前から城内は、妙に浮き立った空気を醸し出していた。……特に侍女どもが。
俺は高崎殿の所に居たから会った事はないが、越後の執政は大層な美男らしい。春先に上田城に来た時には、侍女どもが発情期の猫のような騒ぎだったと聞く。
その男が雪村様を訪ねてくるというのなら 一度は見ておきたい。いや、真木家の家老(代理)として挨拶しなければ。そう思っていたのにこのざまだ。
それならとっとと用事を済ませて、戻ってくるしか無い。
俺は身支度もそこそこに、城を飛び出した。
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上田までの道のりは、坂を下った後で西へと伸びる街道を進むのが一番早い。
街道に差し掛かった俺は、遠くに見覚えのある後ろ姿を見つけた。
畑で作業していた領民が、汗を拭きながら雪村様に話しかけている。その隣に居るのが例の執政だろうか。
俺は馬を道脇に寄せて、暫く様子を窺がった。
遠目で顔までは分からないが、背が高い 均整のとれた身体の男だ。お育ちの良さそうな藍の小袖と袴を身に付けているが、その色が男をすらりと細身に、なおかつ洗練された雰囲気を醸し出している。
くそっ、俺がその色を着てもそうは見えないぞ、どうなってんだ。ぎりぎりと臍を噛みながら様子を窺っていると、藍の男はぐいと雪村様に近づいた。
それに対して雪村様は、別段慌てるでもなく、そっと顔を寄せている。
そんなに親しげに話している雪村様など、俺は見たことがない。
後ろ姿だけでも楽しげなのが伝わってきて、俺は馬に鞭をくれて走り出した。
……矢木沢殿の使いがあって良かったかも知れない。
今はどんな顔をして、あの執政に挨拶をしたらいいのか決めかねる。
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上田に到着し、書簡を渡してさっさと帰ろうとする俺を、信倖様は文に目を落としたまま引き留めた。
「あ! ええと六郎、こっちも久し振りでしょ? 父君に会ってから帰りなよ。だいぶ腰も良くなったよ。やっぱり歳かな? ちょっと寂しがっているみたいだし」
あの頑固親父が、俺の不在を寂しがるもんか。何を考えているんだ、信倖様は?
「これでも俺は忙しいんですよ。今日も来客の予定があったのに、矢木沢殿が急ぎの書簡だと言うから来たんですから」
「六郎への客じゃないでしょ?」
「は?」
「あ、いや。それじゃ返事を書くからさ、暫く待っていてよ」
愛想笑いしながら部屋を出て行った信倖様は、随分と長い間、戻って来なかった。
……何かおかしくないか?
俺が戻らないように、引き留められているような気が……
・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
俺を忘れて昼寝でもしているんじゃないか? と疑いたくなるくらい時間が過ぎ、信倖様はやっと文を手に戻ってきた。
「随分と長文の文を書いたんですね。その割には厚みがないようですが」
俺の嫌味を聞き流して、信倖様が苦笑する。
文を懐に部屋を出ようとして、ふと思いつき、俺は信倖様を振り返った。
「信倖様は、越後の執政と親しいんですよね? 俺はお会いした事が無いんですが、どのような方ですか?」
ちょっと黙った信倖様は、俺の顔をじっと見た。
そして言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「例えば真木家では、複数の家老を置いての合議制で国を治めているだろ? 大抵のところはそうしている。でもそれだと、意見が分かれてなかなか方針が決まらない。上森家も最初はそうしていたけど、物事を迅速に決める為に『一人の執政にすべてを取り仕切らせる』事にしたんだ。兼継がその執政だって言えばわかる?」
ようするに独断専行・専制君主って事か。
出がけに少し見かけただけだが、確かに押しが強そうに見えた。そもそもそんなに迅速に物事を進めたがる男なら、どこか隙がある雪村様などチョロイものだろう。
……まずい、とっとと戻らねば。
「兼継殿は私の客人だから、接待は私がするよ」
雪村様はそう言っていた。酒が飲めないのに、小介も代打に使わないのだ。
返杯でも求められたらどうするつもりだ。
「雪村は兼継に、子供の頃から懐いているからね。そこはちゃんと弁えなよ」
信倖様の声が聞こえたけれど、構うことなく、俺は部屋を飛び出した。
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いくら急いだところで上田~沼田間はそれなりに遠い。沼田城に戻ったのは、陽が落ちる直前だった。
城門を潜った所で、外出していたらしい雪村様と越後の執政の姿が目に入った。
疚しい事など何もないのに、思わず門扉に隠れてしまった。
一体俺は何をやっているんだ……とは言え、こんな時間になってから「ヤア、はじめまして」と言って出ていくのも気まずい。
こっそりと覗いていると 例の執政が、手にしていた包みを雪村様に差し出した。雪村様は慌てたように手を振って、それを拒絶しているようだ。
……やがて、折れたらしい雪村様がそれを受け取ると、越後の執政と雪村様は楽しげに、顔を寄せて笑い合った。
そういえば。
今更ながらに俺は、愕然とした。
こんなに楽しそうな雪村様を、俺らは見た事があったか? 笑ってはいても、あの人はいつも愛想笑いじゃないか。
居た堪れなくなって、俺は逃げるように城内へと駆けこんだ。
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「雪村様」
湯着を持った雪村様とすれ違いざま、俺は思わず声を掛けた。
振り返った雪村様が、きょとんとした顔になる。
「あれ六郎? そういえば今日は会ってなかったね?」
今更気づいたのか。俺の事なんてその程度だ。
己の臣下を「今日いた?」とは何事だろう。少し苛ついたまま、俺は雪村様へと向き直った。
「俺は信倖様のところへ、使いに出されていました。今日は随分とお楽しみだったようですね」
「うん」
嫌味で言った台詞にも、平気で返してくる。さらに苛ついた俺は、顔を顰めて駄目出しした。
「あのねぇあんた、ちゃんと接待出来ないからって、領内を案内するなんて止めて下さいよ。真木と上森は、同盟組んでいる訳じゃないんだ。攻め込む時の下見をさせてどうするんですか!」
「兼継殿はそんなつもりで来てないよ。そもそも戦前の下見なんて、やるなら間者にやらせると思う」
あっさり躱して、雪村様は踵を返す。
言われた事は尤もだが、言い返された事が面白くなくて、俺は強引に雪村様の腕を掴んで引き留めた。
「上森は長い事、武隈の宿敵だった。主家の敵と慣れ合っているなんて信じられませんよ。越後の執政が切れ者だっていうなら、あんたに構ってんのも策略の内かも知れないだろ。少しは考えろよ!」
「そんなに武隈がいいなら、出奔でも何でもしたらいい。止めないよ」
雪村様に真顔で切り返され、俺は軽く逆上した。
武隈は滅亡した。それなのに「出ていけ」と平気で言えるのか。
俺はその程度か。
掴んだ腕に力が入り、雪村様が悲鳴のような声を上げた。
「痛……っ!」
息を呑むような声、少し力を入れただけで折れそうな、華奢な手首。
振り解こうと暴れた雪村様を捕え、そのまま抱き寄せようとした瞬間。
俺の腕が 逆に捩じり上げられた。
雪村様を庇うように、小町が間に割り込んでいる。
俺の手首を掴んだ小介が、険しい顔で俺の腕を後ろ手に回した。
「バカ六郎! 信倖様んとこで呑みすぎなんだよ。すいませんねぇ雪村様。こいつ、酔ってるんすよ。ね? 顔が赤いでしょ?」
「そうそう。ほらあ雪村さま、お湯が冷めちゃいますう」
小介がへらりと笑い、小町も雪村様の肩を抱いて、その場から引き離す。
「……私も少し言い過ぎた。ごめん六郎」
小町に連れていかれつつ、少し先で振り向いた雪村様が呟いたけれど。俺は居た堪れない気持ちのまま、顔を逸らした。