青い風船
私はママの言われた通りに、鏡の前に座っていた。
弟のルートは私のすぐ側の床で寝てる。
ママは、なんだか忙しそう。
でも、なんだか楽しそう。
知らない帽子をかぶった男の人達が、次から次へと食器棚や冷蔵庫を外へ運んでいた。
「アルファ、ご飯を食べなさい」
ママがうどんを持ってきたけど、私は黙って首を横に振った。
「もう!なんでご飯食べないのよ!お菓子もあげないからね」
どうでもよかった。
お菓子も好きじゃないし、ご飯もキライ。
ママは床にうどんを置いて、私の事などそっちのけでまた荷物を片付け始めた。
私は床に直置してある鏡に向かって、寝そべりながら足を貼り付け、蹴ったり、擦ったりして時間を潰す。
きっと、ママに見られたら怒られる。
でもいい。
どうでもいい。
わざと繰り返した。
鏡が揺れる音で目を覚ましたのか、ルートは口をムニムニさせて、手を上にあげていた。
私はその手を思いっきり引っ張って横に揺すった。
「ルートはいいよね、何しても怒られないし、ミルク飲んで寝るだけじゃん」
それでもルートは楽しそうに、キャッキャっと笑い、また私に手を伸ばす。
引っ張ってもつねってもルートはニコニコ笑うから、飽きてちょっかいかけるのもやめた。
「つまんないの」
そんなルートでもお腹が空くと、ちょっとだけグズってジタバタする。
ぬいぐるみみたいに短い手足で。
大きな頭が重くて、歩く事もハイハイする事もできない赤ん坊。
私はパパの代わりにルートにミルクを飲ませた。
さっきママが作ったミルクで、ルートが寝ていたからって床にそのまま置いていったやつだった。
「ルートはいいよね、ご飯食べさせてもらえて」
ルートがパクパクしているミルクをわざと離したら、床にゴロンと転がった。
ルートは自分で哺乳瓶が持てないから、ジタバタしている。
「へんなのー!!!」
ルートもキャッキャっと声を上げて笑っている。
私はそれが面白くて、何度も繰り返した。
それでもルートは泣かない。
いずれそれにも飽きて、ルートが欲しがるだけミルクをあげた。
「ちょっと!何やってるの!勝手にミルクあげないで!!!アルファはルートのゲップできないでしょ!!!ミルク飲ませた後は抱っこしてゲップさせないと苦しいの!!!ルートそのまま溺れて死んじゃうかもしれないんだよ!?絶対に勝手にあげないで!!!」
ママは怒りながら私からミルクを取り上げて、ルートを抱っこした。
私"達"の事なんてどうでもいいんだ。
私はいらついて、この前パパに膨らませてもらった青色の風船を握りしめた。
...割れない。
今度は足で踏んだ。
...割れない。
私は鏡の前に置いてあったクシの尖った部分で風船を突き刺した。
風船は"バンッ"と破裂し、近くにいた人が皆驚いた。
私は面白かった。
「今見た!?凄い音だったよね!!ビックリしたよね!!」
帽子を被った男の人達は、何かと思ったよ〜と笑ってくれた。
凄く嬉しかった。
それでもママだけは違った。
「アルファ!!いい加減にしなさいよ!!なんでじっとしていてくれないの?なんで余計な事しか出来ないの?黙って座ってればいいの!じっとできないなら荷物運べよ!ほら!手伝いなさいよ!!」
ママは私の耳を引っ張って、畳のある部屋に連れていった。
そのまま私の事を畳に放り投げて、足で蹴った。
そこにはダンボールに入れる前の服が散らかっていた。
「この服、残すやつと捨てるやつに分けてここに入れておいて!終わったら呼んで」
ママは周りにいた帽子をかぶった男の人たちに声を変えて、ごめんなさいね〜といい、違う部屋に行った。
私はママに言われた通り、1枚1枚ひろげて、服を眺めた。
おばあちゃんに買って貰った服、パパのお気に入りの服、私が好きな服、お出かけ用の服、おしゃれ用の服、虫を取りに行った時の服、ウルトラマンの限定の服、どれも思い出がいっぱい詰まった大事な服だった。
私は見よう見まねで服を畳み、無我夢中でダンボールいっぱいに敷き詰めた。
すると呼んでもいないのにママが部屋に入ってきて、せっかく綺麗に畳んだ服をダンボールから掻き出した。
「なんでこんなものダンボールにいれるのよ!もう着れないでしょ!何歳?あんた何歳?」
「5歳」
「違うでしょ!もうすぐ6歳になるの!この服は3歳用!もう着れないんだから無理なの!分かる?いらないの!ゴミなの!」
何も感じなかった。
なのに私は泣いていた。
...なんで泣いているのか分からなかった。
結局、ダンボールをひっくり返されて最初からになったけど、私が手をつけると怒るから黙って見ていた。
ほとんどの服がゴミ袋行きになった。
ごめんね。
捨てられちゃった。
残せなかった。
自分の小さい体が悔しい。
ただただ、悔しかった。
それからは畳の部屋でボーっと座っていた。
時々ルートが泣くと
「なんで弟が泣いてるのに面倒見ないの?お姉ちゃんでしょ」
と叱られたが、何も感じない。
私はずっと膝を抱えて畳の部屋で座っていた。
帽子をかぶった男の人達はぞくぞくと玄関へ向かって行った。
ママもルートを抱っこして玄関へ向かっていった。
「何してるの!早く行くよ!」
そう言われたけど、私は無視した。
ママはぶつくさと呟いて、玄関から出ていってしまった。
部屋がシーンとしていて、今日初めて居心地が良いと感じた。
さっきまであった物が何もかも無くなっていたけど、それでもこの家が1番好き。
1人で家の中をブラブラと歩いて、ふと、カーテンが外された窓の外を見たら、大きなトラックの近くに帽子をかぶった男の人達がいた。
きっとさっきの人たちだ。
そのうちの一人が私に気がつき、手を振ってくれたので、私も手を振った。
なんだか嬉しかった。
すると突然、玄関が開いた。
そして私に駆け寄ってしゃがんだ。
ママだ。
「ごめんね、アルファ、ごめんね」
泣きながらそう言って、抱きしめてきた。
ママは時々、人が変わったように優しくなる。
こうゆう時のママには、優しくしてあげないと、泣いてしまう。
「うん、いいよ」
私はママの首にギュッと腕を回して許した。
「あっちに行ったら、アルファきっと楽しいよ!お友達もいっぱいできるから!ね?」
「うん」
そうして、ママと手を繋いで玄関へ向かった。
座って靴を履いて、ママに続いて玄関を出る。
扉が閉まる前に、振り返り、家の中を覗いた。
ラジオとパパのパンツが2枚だけ、明るいリビングに置いてあった。
ゆっくりと、玄関が閉まっていった。
もう、二度と、ここに戻ってくる事はないんだと覚悟した。
ママに連れられ、エレベーターに乗って2階から1回へ降り、玄関ホールを出た。
すごく大きなトラックだ。
これからどこに行くんだろう?
すると帽子の男の人がトラックのドアを開け、私を抱き上げ乗せてくれた。
生まれて初めてのトラックだった。
凄く高い!!!!
運転席を眺めたりしているうちに、いつの間にか、ママとルートも乗っていた。
「それでは、出発します」
「運転手さんなの!?」
私は帽子の男の人にたずねた。
「そうだよ!危ないから座っててね!すぐ着くから」
初めての景色に、私はルンルンだった。
真っ直ぐ続く道をずっと眺めて、目的地へ着くのを待った。