デマ
デモによって停車させられて列車内で、日下部は乗客からの冷ややかな視線を受け続けていた。
列車はすでに1時間以上停車している。
Tweetで秘密を漏らしたのは、日下部自身ではなく、日下部の孫の達真である。
その達真は今、日下部の隣の席に前かがみになって座り、フードを深くかぶって顔を隠している。
こういうときに責められるのは、保護者の監督不行届なのである。
達真の両親-日下部の息子夫婦は、通路を隔てた隣の席に座っているが、Tweetをしたのは「日下部達彦の孫」と報道されている以上、視線はすべて達彦に向けられるのだ。
「チッ……ふざけやがって」
日下部はわざと周りに聞こえるように大げさに舌打ちをする。
「だいたい、今まで自分たちがまともな暮らしをしてこれたのは誰のおかげだと思ってるんだ。庶民の暮らしを守ってきたのは、我々なんだぞ」
日下部は、乗客の怒りの矛先をデモの参加者に向けようとしたのだ。
そのこと自体は正当なことだと思う。
だいたい、デモ参加者が列車を止めたところで、自分たちが助かるわけではないのだ。むしろ、線路上にあんなに密集して自分たちがコロナに感染するリスクを高めているだけなのだ。あまりにも見苦しく、そして愚かな嫉妬である。
達真が、日下部の右肩をポンポンと叩く。
「おじいちゃん、これ」
達真は、日下部に自らのスマホを差し出した。
達真はこの期に及んでも、フードを被りながらスマホを見ていたのである。
達真のスマホは、ある動画を流していた。
それは都庁からの中継動画だった。
東京都のトレードマークのイチョウマークを背景にし、小海都知事が滔々と話し出す
「ただいまメディアやSNS等において、政府関係者のみをロックダウン中の東京から脱出させるための列車が走行していると話題になっています」
今、日下部たちが乗っている「貨物列車」のことである。
「しかし、それはデマです」
激しくフラッシュが焚かれる。
それに対し、小海知事は不敵な笑みを見せる。
「たしかにそれは貨物列車ではありません。しかし、政府関係者を特別扱いして脱出させるための列車でもないのです。それは、都内の病院で受け入れることができなかったコロナ重症者を、都外の病院で治療するために緊急搬送するための列車なのです」
とんだデタラメである。今の小海知事の発言こそがまさしくデマそのものである。
しかし、小海知事の態度は終始堂々としていた。
「そもそもこのように、政府関係者を脱出させるためというデマが流れてしまったきっかけは、日下部元都議の孫と見られる人物のツイートでした。このツイートを見た人たちは、彼がたまたま日下部元都議の孫であったため、政府関係者のみが脱出しようとしている、という勘違いをしてしまったのです。しかし、実際には、彼が列車で運ばれる理由は、彼がどの病院でも受け入れられなかったコロナ重症者だからです。彼がたまたま日下部元都議の親族という属性を有していたというだけです。都は政府関係者を他の都民の方に対して優先するようなことは断じてありません」
小海知事は、一切台本を見ることなく、ここまでの説明を一息で終えた。
まさに役者である。面の皮の厚さも相当なものだ。
この動画を見た日下部はほくそ笑んだ。
馬鹿な市民を煙に巻くには最高の動画だ。デモ参加者も、自ら足止めているのがコロナ重症者だと知れば、人道的に考えて、デモを続行することはできないだろう。列車はじきに運転再開できるはずだ。
「ちょっといいかね」
日下部は通路でカートを引いていた客室乗務員に声を掛けた。
この列車は見た目は完全なる貨物列車であるが、車内はまるで新幹線のグリーン席のようであり、客室乗務員も一名だけ常駐していた。
「はい。いかがいたしましょうか」
制服を着て首にバンダナを巻いた客室乗務員が恭しく尋ねる。
「コーヒーをもらえるかね。ホットで」
「かしこまりました」
客室乗務員は、ポットのコーヒーを紙コップに入れると、それを日下部に手渡した。日下部は500円玉を渡し、客室乗務員とお釣りのやりとりをする。
日下部の予想通り、それから間もなくして再び列車は出発をした。
ここでようやく折り返し地点です。