上
海の向こうに宇宙船の影が見える。
私は駅の展望室で、外を向いて立っていた。海の向こう、およそ一〇〇km先に墜落した宇宙船の影がよく見える日だった。大きな船は夏の日差しから打ち寄せる黄色い膜状の波に洗われて白く光っていた。それは反対の方角にある山と良く似た姿だった。波の音の代わりに、吹き上げの空気が旋毛を巻く音を響かせている。よく知った土と樹木の匂いの中に異国の水の匂いが、かすかに混じっていた。山間を縫うハイウェイを輸送車両が運んでくるのだろう。
「縦、ここだよ」
私は行き交う人々の中から私を呼ぶ平塚の声を探した。
「ここだ。これが、今日の私だよ」
声は私の傍に立つバックパックを背負った身長の高い影から聞こえた。
「すぐに、分かりました」私は影の匂いを嗅いだ。「一人だけ、動きがおかしかった」
「そう?」
影はこの星の、人の類の、男性の匂いだった。それから、少し甘ずっぱい匂い、それは柑橘類から揮発する化合物群とその成分比をかなり類似させた混合香料の匂いだった。
「覚えたかい。これが今日の私だよ」
「うん」私は平塚の顔を見上げ、「今日は、体臭を隠す必要がある場所へ行くの?」
「そうだよ」
平塚の返事は判然としない、曖昧模糊とした含みを感じさせた。
列車の中は混雑していた。座席は全て埋まり、私たちは車両間のデッキに立っていた。微かなモーター音と車両間の連結器が擦れる音と共に列車は滑り出した。扉の窓からホームの白線が川の水面のように流れていく様を見た。直ぐに途切れ、長いホームも見えなくなった。カーブで車体が傾き、わずかに覗いた駅の端が洞穴の口のように薄暗かった。
平塚は扉の傍の壁に背を預けて端末を眺めている。私は窓から外を眺めた。山と街がゆっくり動いた。素早い電柱がコマ送りに場面を転換し、次第に稜線が奥へ遠のき緩く長い斜面に田園が折り重なり、隙間に家屋が散っていた。
街を離れるのは久しぶりだった。私はまだ今日の目的地を聞いていない。
「疲れてないか?」平塚が形式的な質問を口にする。
「平気」
「そうか」平塚は満足そうに言った。それから、
「借金ノ肩を君に渡しておく」と、言い腰から下げていた短い竿を、鞘を装着したベルトごと外して私の方へ突き出した。平塚が気紛れに使用する、少し長めの脇差『借金ノ肩』だった。
「それはご主人のものでは」
「譲渡手続きは、いま完了した」その声には弾みがあった。
「いま」私は平塚の顔を覗き込んだ。
「これで、この名刀は登記上君のものだ」
「しかし、私にはシュシュが」
「シュシュは、視覚的脅威になりにくいからね。無暗矢鱈に使えるものでもない」
「はい、そうですね」
私は主従関係から平塚に反論しなかった。平塚の明るい声の調子から、彼は今日のこれからについて楽観的な展望を持っており、その上で私が借金ノ肩を所持する必要があるのだろうと予想できた。そして、それを私に説明しないのだ。最初はいい匂いだと思った香水が鼻に付いた。
「次で降りる」
「わかった」
次の都市へも遠い、街から離れた山の中だった。ホームの目の前まで迫った斜面にシダ類の群れが鬱蒼と繁茂していた。巨大なケヤキに囲まれ、白線のギリギリの所まで黒く苔に覆われていた。夏空に、街よりもひんやりと風を感じた。
私が帯の下にベルトをしまい、脇差を身体の右側に付けて出ていくと、平塚の姿がなかった。私が帯を直してくると伝えた時は、改札を出てすぐのベンチに腰を降ろして手を振っていた。
「あの、ヒラツカという名前の背の高い男を見掛けませんでしたか? 蜜柑のような匂いの香水を付けています」私は駅舎の前にいた人影に話し掛けた。
「お嬢さん、都会の人間とはものの尋ね方を知らないものなのかい?」
私は咄嗟に身を引こうとしたが、人影は素早く、左手首を取られ、捻り上げられ、影は背後に付いていた。影からは男性の匂いがする。男は背が高く、腕も身体も太く、力が強い。左腕は上へ、右腕は背中で固定されて抵抗できなかった。捻り上げられた腕を利用して下半身を浮かすことができれば、男の腹か上体を蹴り付けることができるかも知れない。借金ノ肩を鞘から滑らせ、足で挟んで反撃に使うことができるかも知れない。ただ、その後私はどうすればいいのだろうか。男の命を奪うわけにはいかない。
「お嬢さんにものの尋ね方と道具の使い方というものを教えて差し上げよう」
よりきつく締めあげられる。「う、あ、」力が強く、徐々に身動きが取れなくなっていく。
「止めろよ!」
若い声が聞こえた。
「ああん?」
「嫌がってるだろ、離せよ!」
視界の端に、仰け反った身体の下の方に、幾人かの影が動いた。「わああ……」という鬨が上がったような掛け声を聞いた。大きく揺さぶられ、男の呻き声と衝撃を伴いぐるりと天地が反転する。締め上げられていた力が緩み、私は寝返りを打ってアスファルトの地面に両手を付いた。
「姉ちゃん大丈夫か、」少年の声だった。「逃げよう、早く、走れる?」
「うん」
「撤収! みんな散れ!」
私は少年に手を引かれ走った。振り返ると、倒れた男と目が合った。
数百メートルをあっという間に走った。後を追い掛けてくるものはない。
駅を離れると視界が開けた。西の急峻に立ち上がる山の生え際に家屋が疎らに立ち、手前に田園が開いていた。単純な平坦ではなく、区画ごとに杉や金木犀、柊などの風除けが並び、緩やかな斜面に段差がついていた。北へ向いた道は陽光を照り返して白く輝き、コモコモと鳴る水路に沿って伸びていた。私はどこまで行くのだろうと思ったが、戻ることもできず、今は少年に引っ張られていくしかなかった。
「こっちだよ」少年が指差し道から逸れる。
私と少年は畑の端に建っている用具小屋のような場所に居た。
「姉ちゃん、大丈夫か?」
「うん」
そこでようやく少年が手を離した。小屋内は薄暗く、蒸し暑かった。隙間から差し込む光が彼の首筋を、垢まみれに生温く光らせた。
「もしかして俺、余計なことした?」少年は私の腰から下がる脇差を見て言った。
「ううん」私は額の汗をハンカチで拭った。「助かった。ありがとう」
沈黙があった。水の流れる音とヒバリのさえずりが聞こえる。壁の朽ちたような木や床の黒い土から黴臭さが小屋の中に満ちている。私は手持ち無沙汰に入り口の傍に立っている。少年に見られながら、何も言わない。私から何か話し掛けるべきなのだろうか。こういう状況で、平塚なら何を言うだろう。私は帯の位置を調べ、脇差の柄を撫で、時々、隙間風を涼しく思った。
平塚と連絡を取る手段がなかった。駅へ戻った方がいいだろうか。ここへ来た目的も知らされていないし、どこへ向かおうとしていたのかも知らない。知らない少年と二人きり、狭く暗い用具小屋のような場所で汗みずくになっている。駅前で男に締め上げられた時と状況はそれ程違っていないのではないかとも思われた。少年と、男と、違いは何だろうか。腕力が弱いだけ、少年を相手にする方が安全だろうか。
「ここ、暑いな」
「うん」少し上擦った声が出た。
私は彼らを傷付けられない。首筋に少年の体温を感じる。背筋を冷たい汗が流れた。私は扉の方から伸びる黄色い筋の中で渦を巻く埃をじっと見詰めていた。少年の呼吸が聞こえた。
不意に、外から足音が聞こえた。複数ある。近付いてくるようだ。
私は正面から一斉に飛び込んでくる虫の音を受けた。橙色の光とひしめく羽音のような熱気が耳鳴りのごとく纏い付いた。
「ショウタ! ショウタ!」と、甲高い声が複数響いた。
その音を私はとても大きく聞いた。驚きと、緊張から帯に手を入れ、シュシュに指を触れていた。少年の仲間たちが勢いよく用具小屋の扉を開いていた。
わきざし・借金ノ肩
その昔、刀身は八百屋、鍔は果物屋、柄は花屋、鞘は風呂屋から預かったもの。しかし、目釘だけは父から受け継いだ先祖伝来の家宝だ。平塚はそれを「古き良きご近所パワーだ」と、語る。