怖がり者の言葉選び
“喫茶ひといき”は私立小形図書館内にある喫茶店だ。こじんまりとした喫茶店で、人が常にいるわけではないが、時たま来る客の中には常連客や図書館の利用時に来る人もいた。この喫茶店、なぜか落ち着くらしく、喋ったり書き物をしたり料理に舌鼓を打ったり、と来店した者はみな思い思いの過ごし方をしていた。
この店をのんびりと営むのは、水上広という男。水色の少し短い髪を後ろで一つに縛り、常にギャルソンエプロンを身に着けお客を迎えていた。変わり者の図書館長に、全く会話をしない秘書、見た目に不釣り合いな博識の少年等、この図書館内は変わり種ばかりだが、広に色々な話をしてくれるお客もいて、好きなこともできるこの空間を、広はとても気に入っていた。
今日もまた、カラカラ…と小さな鐘の音を鳴らし、扉が誰かの来訪を告げる。
「あ、いらっしゃい。おひとり様?」
「はい」
「じゃ、お好きな所にでも座ってください」
片付けをいったん中止し、お客を店内へと促す。若い女性は迷いながらも、ここで、とカウンターに座った。広が記憶を手繰るに初めてのお客だ。小柄で、少々おどおどしているようにも見える。かばんは小さいので、図書館で本を選んで読みながら休憩する利用者ではないようだ。
「ご注文が決まりましたら呼んでください」
「あ、あの」
「なんです?」
「おすすめは、なんですか?」
女性はどこか気落ちしていて、あまり元気がないようにも見えた。あぁまたかな、と広は心の中で思いながらも、落ち着けるようなものが良いのではと思案した。
実はこの店ではたまに、自分の心の内を話してくる人がいる。それが決まって、なぜかほかにお客がいない状態で一人で来店し、カウンターに座るお客なのだ。
最初のうちは気にしていなかった広も、気付いてしまった後はどうしても気にしてしまい、結果お客さんの話や相談に乗っていた。
「あーそうですね…飲み物でしたら、ミルクティーいかがです?」
いい茶葉と牛乳が手に入ったと微笑みながら伝えると、ではそれで、と返答された。さっそく茶葉やポット等必要なものを準備する。くつくつお湯が沸騰する音や、カチャカチャと食器が鳴る音がなんとも小気味良い。作業をしながらもちらと女性を見ると、あまりすぐれない顔をしていた。こういう時はやはりホットがいいだろう。バニラエッセンスも追加で入れてみる。
「おまちどおさま。ミルクティーです」
「ありがとうございます」
ことりとカップが置かれると、甘い香りがふわっとカウンターに広がった。その匂いに女性は少し表情を和らげる。コクリ、と一口飲むと女性は顔をほころばせていた。
「…美味しい」
「よかったよかった。心を落ち着かせたいときは暖かいものに限りますよ」
「……」
彼女はカップを持ったまま、驚いたような、しかし困惑したような瞳を見せる。どうして、というちょっと迷っているような不安げな顔だった。
「もしかして顔に出ていましたか?」
「あぁ、ちょっとばかり…。ここ、時たま相談や困っていることを話すお客さんもいるんで、必然的にわかるようになっちゃってね。」
「そうなんですね」
「えぇ。他人だからこそ心の内を話せてスッキリする人もいるみたいですね。時たまお話に付き合っています。」
女性は広の話に数回軽くうなづき、吟味するようによく聞いているようだった。少しばかり静かな時間が続く。女性はふっと揺れた瞳で広を見ると意を決したように声を掛けた。
「……すいません。私の独り言、聞いていただけますか」
「えぇどうぞ。ちょうどここには僕しかいませんし。意見が欲しいなら言ってください」
「ありがとうございます。実は今日、上司にどうして自分の意見を言えないんだ、って延々叱られてしまいまして…。私、昔から引っ込み思案で人に意見をするのがとっても苦手なんです。」
ふぅ、と一呼吸置く音。若干その息にも震えがあった。
「意見があっても、それを自分の頭の中でまとめて出すころにはもう、話がついていけなくなっているというか…。これを言っても大丈夫かな、相手は困らないかなって考えちゃって答えが出た時にはもう伝えられないんです。」
「タイミングってやつですね」
「はい。考えを言おうにも今言ったら変だし、と思ってたらもう言えないなってなるんです。それを相手は意見を言えない人と思ってしまったようで…」
ついっと目線が泳ぐ。先ほどの話を聞くに、まとめるためどうやら言葉を探しているようだ。また一口、口を潤すためにミルクティーを口に含んでいた。ほうと一息つきまた会話を進める。
「今日も上手く考えがいかず、結局言葉が少ないままでした。まとめるころにはまた上司が『だんまりか』と言って…なんだか悪循環になってしまって。最近それが続いているものですから、気持ちが沈むとそのことで色々考えこんじゃって…。意見はあるけど、伝えようとしてももうついていけない。そうなると自分の思考がさらにまとまらなくなってきてる気がして。そしてだんだんとこんな風に言われてるんだろう、こっちにも考えはあるのに、聞こうとしてないからじゃない、うまく話せなくってすいませんね、って不穏ことを考えてるんです。」
広は最初の宣言通り、特に口出しをすることもなく、相槌は打ちながらも話を聞いていた。時たま頷いている広を見ながら、女性はゆっくり、ゆっくりと会話を進めていく。彼女は散文的でもいいからとかく聞いてほしかったようだ。少しずつ声が震えながらも、自分で言葉を紡いでいった。
「…自分の中から、ドロッとした得体のしれない何かが出てくるのがとても嫌なんです。そのドロッとしたものを言葉にしてしまったら、そのままズルズルとその嫌な感情に引き釣られてしまいそうなんです。でも言わないとグルグルと自分の中で回っているような感覚で、気持ち悪くって…。」
「うんうん。」
「人に悪い何かを言われるのは気落ちしてしまいますが、それよりも気持ちを出す方が私にとってはかなりの負担みたいです。…自分の意見を吐き出す場合は、感情が抑えきれない時は泣きたくなるくらい酷いので。…否定的な感情が、自分から漏れ出しているのが怖いんです…。」
震えた息と共に一口、ミルクティーを含む。置こうとしたカップがカタカタと小さく音を鳴らしていた。彼女はゆっくり目を閉じ深呼吸してから、話を続けていった。
「否定的な感情に染まってしまいそうになるのが怖い。ただ震えるしかないんです。そんな自分の心の部分を人がみたらどう思うだろうって。言わないのは辛い、でも出すのも辛い、そして出した場合の相手の反応も怖いんです。仲間でもそう。上司でもそう。…親しい相手ならなおさら…。相手がどう返してくるのか…何を言われるのか…否定までされたら…受け止めてもらえないのも怖いんです。そんな気持ちがずっと続いて、ちょっと耐えられなかったみたいです。全く知らない方にお話を聞いてもらうことになるなんて…」
一段落ついたようだ。表情はまだすぐれないが、先ほどよりかは顔色のよい顔をしていた。
「……私は、私の心の内はどうでしたか」
ぽつりと彼女は呟いていた。半ば泣きそうになっている。これが彼女の言っていた抑えきれなくなっている、というやつだろう。もう一度紅茶を飲もうとして、ないことに気付いたようだ。どうぞ、とすかさずおかわりをカップに注ぐ。ぬくもりがカップから手へと伝わってきたのか、また彼女は表情を和らげた。その様子を見たところで、広は特に気負うこともなく、さらりと言葉を出した。
「んーそうだね、人間らしくていいんじゃない?」
「…え?」
「否定が怖い、言うのが怖いって誰でも持ってるものだし、でもそれをちゃんと考えられるって人間味があるというか。その人間らしさを出してもいいと思うんだけどねぇ」
予想していた返答ではなかったのか、彼女は少しばかり驚いていた。
「これを言ったら嫌われるのでは、と思っちゃうんでしょう?周りに気を使いすぎてしまうとか」
「その嫌いはあります」
「ちょっとずつでいいから気に掛けないで言ってみてもいいんでないかな」
「…難しいですね」
「確かに、難しいね。まずまとめるのに時間がかかるタイプだとか、自分の困っているところを伝えてみたらどうかな。今できてたからね。できると思うよ」
「……ありがとうございます」
まぁ参考程度にね、とさらりと彼女に返した彼は、ゴソゴソとキッチンの所から何かを探していた。彼女も何をしているのか気になったようで、不思議そうにその動きを見つめていた。
広のお目当ての物は見つかったようで、何かを手につかみそれを渡した。
「また聞いてほしくなったらおいで。はい、じゃあおまけ。元気のでる飴玉ね」
ころんと手のひらに乗せられた飴を見て、彼女はふふっと気が抜けたような笑顔を見せた。どうやら来た頃に比べ気が晴れたようだ。満足したようで、また来ます、と言って笑顔で帰っていった。