第1話 わはわでわでわ? 1
初めて投稿します。
書きなれていないので読みづらい点やわかりにくいところもあるかと思いますが、目を通していただければ幸いです。
子供たちが世界を平和にするためにはどうすればいいかを真剣に考えていく物語です。
この作品の中では、(第1話には出てきませんが)「空気が読めない」「空気なんか読まなくていい。心を読めばいいんだよ」「心ってどうやって読むの?」「それは――」というような、『心の処し方』についても提案していく予定です。
〈「こんな世の中つまらない」とグチるだけの若者になりたくない〉と思っている人に、ぜひ一度、読んでほしいと思います。
カキーン。
白球は青空に大きく美しい弧を描いた。
その行方を目で追いかける。
打ち上げたボールはまるで予定されていたかのように、相手チームの外野手が頭上に掲げたグラブに吸いこまれた。それはスローモーションのようにクラトの目に映ったが、ほんの数瞬の出来ごとだった。
「アウトオォォ!」
審判の声が無情に響く。
続けて試合の終了が宣言され、相手チームからワーッという歓声が上がった。
――クラトのチームは負けたのだ。
クラトは、バッターボックスに突っ立ったまま動けずにいた。
駆け寄って来たチームメイトに肩を叩かれ、ハッとする。
両チームの選手たちが向かい合って整列を始めた。クラトも列に加わり、審判が相手チームの勝利を宣言するのを聞いて一礼する。
「ありがとうございました!」
一連の動作を、クラトはどこか他人のことのように感じながら機械的にこなしていた。頭の中はなんだかぼんやりして、何も考えられない。
――終わった。
クラトの最後の打席、最後の試合、最後の野球。
もしかしたら――。
もしかしたら、今日はヒーローになれるんじゃないか。
最後の最後に、それくらいの奇跡は起きるんじゃないか。
そんな夢みたいな淡い期待に現実が応えることはなく、逆転ホームランを打つわけでもなく、心に残るような名シーンを残すわけでもない、いいところのないままに試合は終わってしまった。
あっけなかった。
いや、それで当然なのだ。クラトは試合に出られるほど、野球はできない。背が高いばかりで、運動神経がいいとは言えない。むしろ、鈍くさいのだ。頭でいろいろ考えて、自分で納得しないと動けないところがあり、反射的に動くということが苦手だった。
それでも野球が、いや、このチームが、『ホワイトタイガース』が好きだった。ホワイトタイガースのみんなと野球をする、ということが好きだったのだ。
「おーい!」
クラトを呼ぶ声。
キャプテンの近江一也だ。弟の次哉はクラトを手招きしている。
クラトはのろのろとベンチへ戻って、帰り支度を始めた。
一緒に荷物をまとめているチームメイトたちは一也を始め、誰もクラトを責めない。
それどころか、「風があったらホームランだったかも」「惜しかったな」と、やさしいことを言う。
負けていたとはいえ、点差は一点。まだ勝てる望みはあった。クラトが外野フライを打ちあげなければ。次に繋げることができていれば。
クラトは苦い思いを押し隠して、チームメイトたちにあいまいにうなずきを返すだけだった。
そんな中、小柄な少年が冷めた目でクラトを見ていることに、クラトの背中は気がついていた
※
クラトが所属する少年野球チーム『ホワイトタイガース』が『椎山少年野球クラブ』との練習試合を行ったのは、小牟田市の南西、みどり公園の一角にある野球場だ。
小牟田市は、福岡県と熊本県の県境に位置する、九州中部の街。海の中でも陸地に三方を囲まれた水域を『湾』と呼ぶが、小牟田市の西はこの、湾に面している。北と東と南は山がちだ。これらの山と海に囲まれた土地に、小牟田の街がある。
小牟田市は、以前は全国に名の通った炭鉱街だったが、その勢いは失われて久しい。戦前戦後と、良質な石炭資源を背景に栄えていた産業は、石油や海外産の安い石炭に押され徐々に縮小し、最後に残っていた炭鉱も採掘をやめた。
小牟田のすべての炭鉱が閉山して二十年以上経つ今、最盛期には二十万を数えた人口も、その半数ほどに減少している。かつては市内にデパートもあったが、それも炭鉱の閉山後に営業を終えた。
それでも市街地には、車の往来が絶えない。小牟田駅前の通りは片側三車線、往復六車線の広い国道で、その左右にはビルやマンションが建ち並んでいる。
小牟田駅は、福岡市の繁華街である『天神』と筑後地方を結ぶ私鉄と、九州を縦断するJR線の両線が乗り入れる駅だ。小牟田はこの両線の他に、九州自動車道と呼ばれる高速道路が通り、西の湾には、石炭を運び出すため明治時代に開かれた港がある。
この港の近くに、みどり公園がある。
公園といっても、その敷地は広い。みどり公園は野球場だけでなく、テニスコート、サッカー場、ソフトボール場、陸上競技場といった各種のスポーツ施設と、誰でも無料で利用できる芝生の運動広場を備えたなかなか立派な運動公園だ。
広場は遊び場として子供たちに親しまれ、休日にフリーマーケットやグルメ祭りなど、イベントの会場としてにぎわうこともある。
市外に通じる道路が整備され、駐車場も広いので、人が集まりやすいのだろう。各種スポーツの試合やゲートボール大会、マラソン大会などにも利用されている。
広場の西側には自然の小川を利用したビオトープや、それに沿って設けられた遊歩道、その先には藤棚の下にベンチを並べた休憩所。ゆったり散歩を楽しむ人もちらほら見かける、市民の憩いの場になっている。
小牟田市内にはこの運動公園の他に、市民が利用できる大型の体育館があり、図書館や歴史資料館、市民文化センターなどの文化施設もある。
歴史資料館で紹介されているのは、主に小牟田の炭鉱の歴史だ。石炭が小牟田の山で見つかった伝説や、昔の手掘りの様子、近代の機械を使った採掘方法などに関連した多数の資料がそろっている。
手掘り時代の写真パネルに写っているのは、『炭抗夫』、『抗夫』と呼ばれる男の人たち。彼らが『坑道』と呼ばれる穴に潜ってつるはしで掘り進み、掘り出した石炭を拾い集めて地上へ送る様子が、パネルからうかがい知れる。
近代の資料としては、坑道を掘り進めた、掘削ドリルが展示されている。大型のドリルは見るものを圧倒すべく、来場者を待ち構えている。合体式の巨大ロボットのパーツを思わせるような外観は、巨大機械マニアの胸をときめかせる逸品と言えるだろう。
小牟田には歴史のある動物園もある。これもまた、小牟田が石炭産業で栄えていたから作られたものだろう。小牟田市の動物園は、太平洋戦争中に開園している。
市の人口が減少していく中で経営が厳しくなった時期もあるが、飼育員たちのがんばりで今は人気を盛り返している。十年ほど前に他の動物園から譲り受けた、めずらしいホワイトタイガーがいることでも知られてきた動物園だ。
歴史的な建造物としては、小牟田駅の近くに市役所の建物がある。戦前に建てられたコンクリートの市庁舎は老朽化しているものの、以前の繁栄ぶりをうかがわせる堂々とした造りだ。中央に時計塔があり、その左右に翼を広げたような四階建ての建物は、空襲で焼失せず残った点も含めて文化財としての価値も高い。
街の中心は、以前はデパートと、その建物を囲むようにめぐるアーケードの商店街だったが、デパートとともに栄えていた商店街は、デパートの閉店とともに静かになっていった。人通りが減り、並びの店が一つ、また一つと営業を止めていく。商店街はデパートの閉店と連鎖するようにさびれていく印象だった。
それがこの数年、さびれゆく雰囲気をレトロ感に塗り替えようと、空き店舗だったところに新しい店が入り始めた。今は飲食店街としていくらかにぎわいを取り戻しつつある。
また、デパートが無くなるのと入れ替わるように、中型のショッピングモールが小牟田駅の北東に、続いて西にできた。この二つの店舗が、市内に点在するスーパーマーケットとともに市民の生活を支えている。コンビニやドラッグストアもこの数年で数が増えた。
今の小牟田は、天神のような『繁華街』というイメージからは遠い。炭鉱に活気があった時代の面影をところどころに残す程度の静かな街だ。
とはいうものの、衣食住――人が暮らしていく上で必要なものは、小牟田市内でひととおりそろえることができる。ショッピングモールや飲食店、運動施設や文化施設などもそろっており、市街地はそれなりに『街』っぽさがある。それでいて郊外へ向かえば民家は少なく、田畑が広がり、その向こうには山がそびえ、のどかなものだ。
大都会ではないが、辺鄙な自然だけの土地でもない。ある程度は田舎で、そこそこに街。それが小牟田市という地に対して抱きうる印象だろう。
小牟田市には十九の小学校と八校の中学校、一校の特別支援学校がある。高校は私立も含めて七校。これも最盛期に比べれば数を減らしている。児童数、生徒数の減少にともない、統廃合が進んでいるからだ。
ホワイトタイガースは複数の校区の小学生が所属する少年野球チームだ。チームメイトはみんな、練習に使っているグラウンドからさほど遠くない家の子供たちだ。一人を除いてクラトとは違う小学校に通っている。
近江一也と次哉の兄弟も、クラトの家のはす向かいに住んでいるのに小学校が違う。クラトの家はちょうど校区境にあり、目と鼻の先なのに、二人とは別の小学校に通っている。
クラトが野球を始めたのは一年前、小学三年生の春。一也たちに誘われたのがきっかけだった。
いや、誘われたというより、二人がかりで拝み倒されたと言っていい。チームメイトが一人、私立中学を受験するためにやめたのだ。試合に出たいけれど人数が足りなくなったから、人助けだと思ってチームに入ってくれと二人に頼まれた。
近江兄弟は兄の一也がクラトの二つ年上、弟の次哉が一つ年上。
近所の子供たちの間で、クラトの背の高さは目を引いていた。一也は前々からクラトをチームに誘いたいと思っていたらしいが、近所ではあるものの校区が違い交流もなく、なかなかきっかけがなかったらしい。チームの人数が九人を切ったことで、思い切ってクラトに声をかけることにしたのだという。
野球の試合をするには少なくとも九人が必要だ。逆に言えば、九人以上の人数を確保できるかで試合ができるかどうかが決まる。
ホワイトタイガースは毎年ギリギリの人数で、卒業するメンバーの数と入団するメンバーの数がどうにか釣り合い、かろうじて存続している野球チームだ。
これは児童数が少なくなっていることだけが理由ではない。いつの間にか、練習場所が家から少し遠くても、野球が上手い子供は椎山少年クラブに入るのが流れとなっているせいもある。
一也に頼まれたとき、クラトは初め、野球などとんでもないと断った。ルールもろくに知らない。何より、運動は苦手だ。けれど次哉も加わり、二人がかりで頼まれると、押し切られるようにうなずいていた。クラトは二人に言われたように、人数合わせのつもりでチームに入ることにした。
引っ込み思案というか控えめというか、積極的な方ではないクラトにとって、近江兄弟のように少々強引なくらいの相手は、かえってつき合いやすいところがある。元気でやんちゃ気質な二人に連れ回されるような形で、クラトは野球の練習に通った。
それでも、やってみると野球の練習は楽しかった。なかなか上達はしなかったが、同じ年ごろの子供たちとやる野球は、クラトにとって遊びの延長だった。
ホワイトタイガースは近隣地区の少年野球大会では万年最下位。クラト以外のチームメイトも、クラトより上手だけれど練習熱心ではなかった。週一、二回の練習日には一応の集合時間はあるものの、遅れてくるものや連絡なく休むものもいて、だらだらっと楽しめればいい。そんな緩いチームだった。
ところが冬休み、クラトが家の事情で休んでいた間に彼らは変わった。クラトが休むのと入れ替わるように、将大がチームに入り、将大の父親が監督になったことがきっかけだった。
高部将大は、クラトと同じ学校に転入してきた転入生だ。学年はクラトの一つ下。冬休みの間に引っ越してきて、新学期が始まる前からチームの練習に参加していた野球少年だ。
将大の父親は高校生時代に甲子園に出場したことがあるといううわさで、指導も上手かった。新しい監督の質の高い指導を受け、野球の上手い将大に刺激され、彼らの練習には熱が入った。クラトの知らぬ間にチームメイトたちは力をつけていた。
次の春が訪れ、クラトは小学四年生になった。このころになると家の中も落ち着き、野球をする余裕ができた。
家族の勧めでチームに戻ることにしたクラトだったが、思っていたようにはいかなかった。三か月ぶりの練習に、クラトはついていくことができなかった。
久しぶりに会ったチームメイトたち。練習するときの顔つきからまるで違っていて、彼らは別のチームみたいになっていた。監督の指示に従い、応えようときびきび動く。
それに比べ、慣れない練習内容や監督の指示出しに、クラトはとまどうばかり。そんなクラトはチームメイトの中で一人、完全に浮いていた。
それでもクラトは、野球をやめようとは思わなかった。三カ月も休んでいた自分と、その間にしっかり練習していたみんなが違うのは当然だし、ただでさえクラトは運動が得意ではない。練習するしかないと思った。
そうしてクラトが練習に参加するようになって間もなく、市内でいちばん強いチーム――椎山少年クラブとの練習試合が決まった。チームメイトのみんなが、いつか試合をしたいと望んでいたチームとの試合だ。
決行日は四月末。ゴールデンウィークの最初の日曜日だ。試合まで一月もない。
以前ならクラトが試合に出場するのは当然だった。他にメンバーがいなかったからだ。試合に誰が出るか、選ぶ必要はなかった。
けれど将大が入ったため、ホワイトタイガースは十人になっていた。その中で、最年少は三年生になった将大だ。年齢だけで考えるなら、試合に出るメンバーから外されるのは将大だっただろう。しかし、身体は小さくても俊敏な将大はチームの重要な戦力だった。
何より、将大には『ガッツ』があった。捕球の練習では、どんなボールも捕り逃すまいと将大は食らいつく。その懸命さに触発されて、一也たちの練習にも熱が入る。将大がいるだけで、チームの士気が上がるのだ。
将大とは対照的にチームの士気を下げてしまうのがクラトだ。士気を下げるというのは言い過ぎかもしれない。クラトが野球の練習をすると、チームメイトの気を緩めてしまう。わざとやっているわけではないのだけれど、クラトが野球をするとコントのような光景が生まれてしまうのだ。
外野フライを捕る練習をすれば、頭上にかかげたグラブに入らず、クラトの真横にボールがぽとりと落ちる。ゴロを捕る練習をすれば、地面の上をコロコロと転がって来たボールが、手前で跳ねてクラトの頭を踏み台にして向こうへ転がり落ちる。バッティングの練習をすれば、「スカッ」と音がしそうな空振りをする……。
絵に描いたような『ドジ』なプレイが、クラトの持ち味――と言ってよいのか、クラトのプレイはどこかコミカルな動きになってしまう。背が高く目立つせいで、よけいにこっけいに見えるのかもしれない。
近江兄弟に連れられて初めてチームに参加したときからそうで、三カ月休んで復帰した後も変わってはいなかった。それでも、本人はいたってまじめにやっていて、そういうところがほほえ笑ましさを呼んで、チームの雰囲気を和ませてきた。チームメイトたちの口元がふっと笑うと、三カ月前のチームに少しだけ戻る。
緩みかけた空気は新監督の鋭い指示に引き締められ、チームの意識は野球に戻っていく。そうやってクラトも含めた十人の練習が続いた。
練習を続けてみて改めて、他のチームメイトたちとの力の差を感じたクラトは、試合に出られなくてもかまわない。いや、自分が出てもみんなのジャマになるだけだ。今度の試合はみんなをせいいっぱい応援しよう――そんな風に思っていた。そのときは。
相手は市内で一番強く、小牟田周辺の地区大会でも好成績を残しているチームだ。野球の試合はちょっとしたエラーでも大量に失点してしまいかねない。力のあるメンバーで試合にのぞむのは当然のことだ。
試合当日、出場したのはクラトを除く九人。クラトはベンチから彼らの応援をしていた。
相手のピッチャーの調子が悪く、対するホワイトタイガースの気合は十分。それでも試合は終始、相手チームにリードされる展開だったが、将大や一也たちがしぶとくねばり、一点差まで追いついた。
七回の裏、ツーアウト。三塁には俊足の将大。ここでうまくヒットを飛ばせば、将大が一点返して同点。さらに追加点を入れられれば逆転勝利もあり得る。
そのタイミングで、監督はクラトを代打に指名した。この日が、クラトの最後の試合だったからだ。
クラトは野球を、ホワイトタイガースをやめる決意を監督に告げていた。公式戦ではなく、練習試合だったこともあるだろう。監督は最後にクラトをバッターボックスに立たせてくれた。
クラトには最後の機会だった。思いっきりバットを振った。空振りはしなかった。ボールはバットに当たった。ただ、ヒットにはならず、打ち上げたボールは相手チームに捕られてしまった。そして試合終了――。
ホワイトタイガースは逆転することなく、同点に追いつくこともなく、七回で試合を終えた。少年野球は高校野球やプロ野球のように九回ではなく、七回までだ。
椎山少年クラブとの練習試合が終わって帰り支度をしているとき、クラトは一也から打ち上げの場所を知らされた。クラトが野球をやめることは一也たちチームメイトはまだ知らない。一也は当然のようにクラトが打ち上げに参加するものと思っていた。
打ち上げでは、みどり公園の近くのファミレスで思い思いに好きなものを頼んで食べるのだという。午前中に試合は終わり、ちょうどお昼時だ。お腹も空いた。
試合の後に反省会を兼ねて打ち上げをするのはチームの恒例だ。それだけではなく公民館を借りてお菓子や食べ物を持ち寄り、クリスマス会もした。また、卒業や転校などでチームを抜けるメンバーがいるときにも送別会をすることになっていた。
監督や保護者も一緒だけれど、子供たちが集まって外食するというのは野球を始めるまでクラトには経験のないことだった。特別な一員になれた気がして、みんなで食事に行ったりお弁当を食べたりするのをクラトは楽しみにしていたけれど。それももうクラトには参加する資格がない。
いや、そう思っているのはクラトであって、チームメイトは――一人を除いて――野球をやめてもそれで友達じゃなくなるわけじゃないと言うだろう。
けれどクラトはもうチームをやめる。やめるというのに打ち上げに参加するなんて。みんな、これからのことを考えているのに、そのこれからにはクラトはいないのだ。何を話せるだろう。
一緒に練習をして、一緒に試合に出てこそ、みんなと一緒の時間を共有できるのだ。あるいは試合に出なくても、同じ気持ちでいられたらきっと違うのだろう。
ホワイトタイガースをやめると決めたのはクラトだった。その気持ちに変わりはない。変わらないのではなく、変えられなかった。そして、それできっといい。
一緒にごはんを食べに行こう。みんながクラトを誘う。
みんなはやさしい。
いたたまれず、クラトはみんなの誘いを断った。
クラトは一人、その場を後にした。
※
まだ、家には帰りたくない。
お腹は空いているけれどその感覚はどこか遠く、食欲は感じない。
わざと遠回りして自転車を走らせていると、涙があふれてきて風に散った。それでも涙は止まらず、視界がにじむ。運転ができる状態ではない。クラトは自転車を止め、手の甲でごしごし目元をこすった。
赤くなった目で周囲を見渡すと、見慣れない場所にいた。
車道沿いに、『売り地』の看板が立っている空き地や、シャッターが閉まった小さな店、荒れ家が並び、崩れかけたブロック塀からは手入れをされていない庭木が枝を伸ばしている。その家の隣の木も枝が伸びていた。
近寄って密生した葉をかきわけ内側をのぞきこむと、草に埋もれそうな土地があるだけだった。建物はない。四方を木に囲まれたその土地には、左手にペンキのはげたさびたブランコがある。
空き地ではない。公園だ。そこはブランコの他は奥の方に古ぼけたベンチがあるだけの、小さな公園だった。
いつもなら薄気味悪く思って近寄らない、さみしげな公園だったが、このときのクラトにはちょうどよかった。人目につかない、誰もいない空間。
クラトは公園の入口に自転車を停め、伸び放題の草むらの中へ足を踏み入れる。奥のほうへ分け入っていくと、入口に背を向けてベンチに腰を下ろした。うつむくと、涙があとからあとからあふれ出て、クラトはむせぶように泣きじゃくった。
「どうしたの? 何を泣いているの?」
突然、背後から声がして、クラトは後ろを振り返った。涙にぬれた目をぱちくりさせて周囲を見回す。けれど、人影は見えない。
空耳だと思うには、耳にハッキリと声が残っている。女の子の声だと思った。やわらかい、少し高めの声は、クラトの耳にやさしく響いた。
「だ、誰? どこにいるの?」
立ち上がりながらこわごわ声を出すけれど、応える声はない。背中をつーっと、冷たい汗が伝い落ちる。一人になれてちょうどいいと思った場所が、一転して、誰も助けに来ない、危ない場所に感じられた。見渡しても誰の姿もない。気配もない。
ま、まさか、幽霊――⁈
すると――ガサリ!
足元の草が音を立てた。クラトはびくりと固まった。
息を詰めて視線を下げると――ミャア!
「ネ、ネコ⁈」
丈の長い草の間から姿を現したのは、荒れた公園には不似合いな、毛足の長い純白のネコだった。毛並みがふんわりと綿毛のようで、薄い水色の目がアクアマリンのように美しいネコだ。真珠のネックレスのような首輪をしているから、誰かの飼いネコだろう。首輪の先には、銀色のメダルのような飾りがついている。
「迷子かな? あ、もしかしてこの子の飼い主がさっきの声の女の子なのかも!」
クラトはキョロキョロと周囲を見回すけれど、やはり誰の姿も見えない。姿は見えないのに――。
「さっき話しかけたのは、私よ」
声がする。
「ここよ」
やはり女の子の声だ。けれど姿は見えない。
耳を頼りに声の出所を探るしかない。クラトは耳を澄ます。
「どこを見ているの? こちらを見て」
声の糸を手繰ると、その声は――クラトの足元から聞こえる! ネコがしゃべってる⁈
上から右から左から、クラトはネコを見てみる。ネコは愛くるしい目でクラトを見上げている。しっぽをゆらゆら揺らしながら。
もしかしてネコそっくりのロボットで、しゃべる機能がついているのかと思ったが――ネコ自体がロボットということではなさそうだ。今は本物そっくりのよくできたぬいぐるみも作られているようだが、目の輝きは作り物にはとても見えない。生きているネコだ。
けれどネコの他には何もいないのに。
本当にこのネコがしゃべったのだろうか?
テレビの番組やネットの動画では、しゃべるネコが取り上げられていることがある。けれどこんなにはっきりと人間の言葉を話すネコなど、聞いたことがない。
すると、ネコがくすりと笑った。クラトが何を疑っているのかわかったのだろう。「ネコではないわ」と、女の子の声がする。
「このネコの首輪に仕掛けたスピーカーから声が出ているの。あなたに話しかけているのは、ちゃんと人間よ」
白ネコは、いや、ネコの向こうの〈声〉は言った。
「え、ええ?」
とまどうクラトに、
「はじめまして」
〈声〉があいさつする。ネコは口を閉じたままだ。
言われてみれば、ネコの首元、あごの下あたりから声が聞こえた。どうやら、首輪の先のメダルのようなものが彼女のいうスピーカーのようだ。メダルは光を反射してキラリと光る。
白ネコはお行儀よく、前足をそろえて座っている。スピーカーの声に動じる様子はない。飼い主であろう少女の声が首元のメダルから発することに、慣れているのだろう。
「この子は真珠に麿と書いてマシュマロと言うの。よろしくね」
〈声〉は名を告げた。告げたがこれはネコの名前だろう。真珠麿――マシュマロ。漢字とマシュマロという音に違和感は感じるものの、ふわふわの白い毛に包まれたネコに、マシュマロという名前は似合っている。
だがクラトはネコの名だと気づかない。相手が名乗ったことで自分も名前を名乗らねばならない気になり、反射的にぴっと背筋を伸ばした。
「あ! ええと、ぼくは」
ここまで口にして、足元のネコと目線が合っていないことに気づく。
クラトはあわてて真珠麿という名のネコの前にしゃがみこんだ。そして改めて自分の名を名乗る。
「ぼくは、カゼクラトと言います。ええと、加工するの加に、瀬戸内海とかの瀬で加瀬クラトです。小学校四年生です」
ネコを相手に、クラトは丁寧に自己紹介する。
真珠麿の気品漂う姿のせいか、あるいはその姿を借りて話す〈声〉の、穏やかながら芯を感じさせるしゃべり方のせいか、クラトは緊張していた。
真珠麿は優雅なしぐさで、ふさふさのしっぽを揺らしている。
「よろしくね、クラトくん」
〈声〉に言われ、「よ、よろしくお願いします」とクラトは真珠麿に頭を下げる。
「それで? クラトくんはどうしてこんなところで泣いていたの? 何か悲しいことがあったの?」
〈声〉は、初めにクラトに問うた質問を繰り返した。
なぜそんなことを聞くんだろう?
疑問はパッと浮かんでサッと散った。そんなこと、どうでもいい。それより聞いてほしいことがあった。言いたいことがあった。
「なんで、なんでこんなことになっちゃったんだろう……」
クラトは力なくうなだれると、涙声でやりきれない気持ちを語り出した。
※
あれは練習試合の一週前の土曜日。
監督の仕事の都合でこの日の午後に予定されていた野球の練習は休みになった。朝方、連絡が回ってきたクラトはヒマになり、一人で商店街のスポーツ用品店に出かけた。
特に何かを買う予定はなかったが、興味の向くまま陳列された商品を見ていると、棚に飾ってあったゴルフボールにひじがあたり、床に落としてしまった。ボールはコロコロと店の奥まった方へ転がって行く。あわてて追いかけると、ボールは部屋の隅に積み上げた箱とゴルフバッグの間に入って行った。
クラトがボールを拾おうとしゃがみこむと、店先から声が聞こえて来た。子供の声だ。間に商品を並べた棚があるため、クラトがいるところから姿は見えない。けれど、店の入り口の方から聞こえる複数の声の中に、聞き覚えのある声が混じっていた。
『今度、野球の練習試合があるんやろ?』
『本当は今日も練習だったんだけど、父さんが急に仕事で練習できなくなっちゃって』
『たまにはオレたちクラスメイトと遊んだっていいやん。どうせ後で自主練するんやろ』
『今日はピッチングの練習と素振りくらいしかやんないけどね』
『それだけやれば十分だって』
『その練習試合って、もちろん、将大くんも出るんだよね? 将大くんはチームでいちばん年下なのに、いちばん野球が上手いんだよね!』
『……どうかな? ぼくは無理かも』
『なんで? 将大くんが出なかったら、試合をするには人数が足りんやろ?』
『今まで休んでたメンバーが練習に出て来るようになったんだ』
『それってうちの一コ上の人?』
『あ、知ってる。背の高い人やろ? あの人、そんなに野球うまいの?』
『それがさあ、ぜーんぜん。背ぇ高いしさ、パッと見もっとできそうなのに。すっごいトロくさいの。ボール捕るのも投げるのも打つのもどれも下手で見てらんないよ』
『え? そうなの?』
『誰かケガしたり疲れたりしたときのために補欠がいた方がいいけどさ。あれならいない方がマシ。練習でも一人で足を引っ張ってるし。ジャマでしょうがないよ。――下手なだけならいいけどさ、あいつ、絶対に本気で野球やってない。オレ、遊び気分でやってほしくない』
『そんな人が試合に出てどうするんだよ。将大が出ればいいのに。将大のお父さんが監督やってるんだろ? お父さんに頼んでみたら?』
『だからだよ。あいつの方が年上だし、前からいるメンバーなのにぼくを試合に出したら、自分の子供をえこひいきしてるみたいだろ。だから父さんはぼくのことを試合に出すメンバーから外すかもしれない』
『そいつ、なんでまた出て来たんだよ。将大がチームに入ったときはもう練習を休んでたんやろ? ずっと休んでたんだから、そのままやめちゃえばいいのに。一つ下の将大より下手なクセに義理で出してもらうなんて、みっともないって思わんのかな?』
『ぼさーっとした人だからさ、わかんないんじゃない?』
『それよりさ、日本語わかってないんじゃない? その人、ハーフなんやろ?』
『そうなの? あ、それであんなに背が高いんだ?』
『たしか、アジアのどこだかよくわからない国の人と、日本人のハーフだって』
『あっ! これこれ、これ買って来いって父さんに頼まれてたんだ……』
将大たちはクラトには気づかずに買い物をすませ、店を出て行った。それまでその場にしゃがみこんだまま、クラトはじっと固まっていた。息を止めて、吐き出すことも忘れるくらいに。その後、どうやって家に帰りついたのか、クラトは覚えていなかった。
悔しいのか。腹立たしいのか。情けないのか。
クラトにわかるのは、自分より将大の方がずっとずっと野球が上手いということだった。
※
クラトの通う小学校で、外国人や外国の血を引く児童というのは在校生ではクラトだけだ。将大のクラスメイトたちもくわしいことは知らないようだが、クラトに外国の血が入っていることは知っていたようだ。
クラトの父親は日本人だが、母親はバングラデシュという国の人だった。
バングラデシュ人民共和国は、ベンガル人を中心とした国だ。インドとミャンマーに国境を接している。アジア最貧国と言われる国の一つだ。
二〇一六年に痛ましいテロ事件が起きたことで日本でも注目を集めたが、非友好的な国ではない。緑地に赤い丸を描いた国旗は日本の日の丸を参考にしたという逸話もある、親日国だ。日本との関わりは浅くない。
ベンガル人は長い歴史の中で混血が進み、外見については個人差が大きいのが特徴だ。欧米風の顔立ちの人や、日本風の顔立ちの人もおり、褐色の肌の人もいれば白い肌の人もいる。目の色も様々だ。身体つきは背の高い者もいるが、身長の低い者やずんぐりした体型の者も多い。だからクラトの背が高いのがベンガル人との混血児だからなのかは、わからないところだ。
クラトは少しクセのある黒い髪に黒い瞳の少年だ。鼻筋は通っているけれど彫の深い顔立ちではないし、肌の色は日に焼ければ小麦色になるものの、色がさめれば黄色がかった淡褐色に戻る。長いまつげに色濃く縁取られた目元に異国の血を感じさせるくらいで、日本人から大きく浮くような容姿ではない。
日本で生まれ、日本で暮らしてきたクラトは、自分の母親が外国の人であるということを忘れがちだった。なぜならクラトの母親は、クラトを産んで間もなく亡くなったからだ。
クラトは母親のことを覚えていない。兄姉もなく、仕事に忙しい父親に変わってクラトを育ててくれたのは、父方の祖母であるそよ子だった。
クラトが野球の練習を休むことになったのは、そのそよ子が原因だった。年が明けてすぐのことだった。そよ子が庭先で骨折したのだ。折ったのは左の足の膝の骨。入院せずにすんだが、思うように歩ける状態ではなかった。
そよ子の片足が不自由になると、クラトの生活はたちまち立ち行かなくなった。加瀬家の暮らしはすべて、そよ子が取り仕切ってきたからだ。
そよ子を心配した近所の人や、そよ子の友達も差し入れを持って見舞いに来てくれたが、一緒に暮らして二人のめんどうを見てくれるわけではない。クラトはそよ子に頼まれ、洗濯ものを干したり、取りこんだり、買い物に行ったり……野球の練習をするゆとりはなかった。
はす向かいに住む近江家にも異変は伝わり、一也と次哉は母親と一緒にクラトの家に様子を見に来た。クラトがしばらく野球ができそうにないことを伝えると、二人はうなずき、励ましてくれた。
クラトの父親――加瀬護は新聞記者だ。いちおう一緒に暮らしているが、取材だと言っては家を空けるため、クラトと顔を合わせることは稀だった。クラトが物心ついたころからずっとそんな状態だったので、同じ家に住んでいる人というより、たまに帰って来る人という存在だ。
それでも非常事態だ。護の他に、クラトのめんどうを見る大人はいない。いや、クラトはさほど手がかかる子供ではない。ふだんからそよ子の手伝いをしてきたので、そよ子の指図で掃除や洗濯をすることもできる。料理はできないが、炊飯器でごはんを炊くことならできるし、今はスーパーやコンビニでお弁当もお惣菜も売っている。
だとしても、そよ子の世話をする人間が必要だ。クラトの冬休みももう終わる。三学期の授業が始まったら、クラトが学校へ行っている間、そよ子一人でどう過ごすのか。
こんなときくらい仕事の都合をつけて家に居そうなものだが……護は変わらず寄りつかない。代わりに、そよ子の世話をする人間を連れて来た。野分優香という、若い女性だった。
優香は加瀬家に住みこんで、そよ子の介助と家事をする。護からそう聞かされて困惑したのはクラトだけではない。そよ子もだった。突然、見ず知らずの赤の他人と一緒に暮らすことになったのだから、当然だろう。
けれど、もともと介護士をしていたという優香は、護より心強い存在と言えた。そよ子が不自由に思うところを心得ており、細やかな気配りを見せる。優香はそんな人だった。
痛みもあっただろうけれど、それ以上に不安だったのだろう。そよ子は骨折して以来こわばった顔を見せていたが、優香が来てから顔色が明るくなっていった。優香に付き添われ、病院にリハビリに通えるようになった。
クラトと優香は、二人で協力しながらそよ子をサポートした。小柄なそよ子より、クラトの方が身体は大きい。無理なく抱えられると思ったが、クラトにできたのは力任せに手を貸すことだけ。そのせいか、そよ子を支えようとしてふらつくこともあった。
それが、優香からコツを教わると、それまでより力を使わず、そよ子に無理をさせずに支えることができるようになった。足の不自由な相手に対する接し方というものがあるらしいと、クラトは学んだ。
そよ子と優香に送り出され、クラトの三学期が始まった。学校が終わると、クラトは家で優香を手伝う。そよ子も無理のない範囲で家事をこなした。
クラトはそよ子を心配してやめさせようとしたが、優香に止められた。歩きにくいからとじっとしていては身体がなまってしまう。それではかえって、回復が遅くなる。優香に言われ、そういうものかと受け止めた。それは優香が介護士をしていたからだけでなく、そよ子の話をよく聞いてサポートしているのを見ていたからだ。
一緒に暮らしていて、優香が体調を崩すときもあったが、そんなときは優香の分も張り切って、クラトは自分にできる手伝いをした。心配をかけないように宿題もした。
護は相変わらず家を空けてばかりだったが、護がいなくてもクラトたち三人はうまくやっていた。一緒に暮らし始めたころこそお互いに遠慮があったものの、緊張した空気が薄らぐのは早かった。
クラトの家は台所と食事をする部屋が同じだ。そよ子がイスに座りながら、優香と並んで夕飯を作る。クラトは二人をちょこちょこと手伝い、出来上がった料理をテーブルに並べ、三人で食べる。それから後片づけをして居間へ移動し、三人でテレビを見てまったり過ごす。そんな生活サイクルが生まれていた。
そうしているうちに春休みがやって来ると、クラトは優香と一緒にそよ子のリハビリにも付き添った。そよ子の骨折は順調に回復し、リハビリの帰りに病院の近くで三人で外食することもあった。桜が咲き始めると、優香が車を運転し、市内の桜の咲いているところを花見ドライブした。
優香も新しい住まいに慣れ、どこに何があるかクラトたちにたずねることもなくなっていった。勝手がわかってきたようで、さくさく家の仕事を片づけていく。
そうなると、クラトの負担は減っていく。四年生に進級したころには、クラトの暮らしは自然と落ち着いたものになり、野球の練習に戻る余裕も出ていた。
そよ子の足はまだ治ったわけではなかったが、優香がいれば大丈夫。そう思うと、クラトはホワイトタイガースのことが気になった。
クラトが野球の練習を休んでいることはそよ子も気にして、優香に相談していたらしい。二人に勧められて、クラトはまた野球をやることにした。
チームに戻ってみると、将大が入り、将大の父親が監督になっていたことを知り、驚いた。新生ホワイトタイガースの練習は、それまでのように緩くなくてとまどった。それでも、そよ子と優香が応援してくれている。野球ができるゆとりができたこともうれしかった。クラトは、練習をがんばろうと思えた。
ようやく前向きになって進み始めた、その矢先のことだった。将大たちの会話を聞いたのは。――ショックだった。
けれどその日は、それだけでは終わらなかった。
帰宅したクラトは、さらに衝撃を受けることを聞かされたのだ。
護がひさしぶりに一緒に夕食の席についたと思ったら、優香と再婚すると言い出したのだ。それだけではない。優香のお腹の中には赤ちゃんがいて、初夏には生まれる予定なのだという。
それはクラトには思いもかけない話で――クラトは混乱した。
混乱のあまり絶句するクラトに、
「すぐには無理かもしれないが……ゆっくりでいいから、家族になっていければいいと思ってる」
と、護が想いを告げた。
父親から話しかけられることはめずらしく、クラトはうなずくしかなかった。
うなずいた――ということは、受け入れた、ということだ。
けれど、クラトの心中はざわついていた。
将大と護の言ったことが、クラトの頭の中で何度の再現される。
野球をやめよう、とクラトが思ったのは、野球どころではなかったから。
………………ではない。
クラトは悩んだ。悩んで悩んで、悩みながら、それでも野球の練習に参加した。
そして気持ちに整理をつけた。
※
「他のチームメイトと力の差があったとしても、チームをやめなくてもよかったでしょう? あなたを見下す少年と一緒にいるのがイヤだったの?」
ネコの声が聞く。
クラトはそれに首を振った。涙が散る。
「ぼくはあのチームが好きだった。みんなとわいわいやるのが楽しかった。だけど、野球が好きっていうのとは少し違ってたんだ。だから――将大くんたちの会話を聞いて、ぼくは、心のどこかで将大くんの気持ちの方がわかってしまったんだ」
だから、クラトは野球をやめようと思った。
もともと人数合わせで参加していたことを考えれば、将大が入って九人そろっていたチームに戻る必要はなかった。……それはそうなのだが、久しぶりに参加した練習についていけなくても、クラトはチームをやめようとは思なかった。少しでもみんなに追いつけるようにがんばろうとしていた。
そんなときに将大たちの会話を耳にしたのだ。
がんばろうという気持ちがあっても、簡単に上達するわけがない。
けれど……そこに、甘えがあった。
人数合わせのつもりで始めたからか、一也と次哉を通して野球を見ていただけで、野球そのものに興味を持っていたわけではなかったのか。野球が楽しくても、将大のような熱はクラトにはない。そこまで野球に熱心になれないし、これからもなれそうにない。そういう自分に、クラトは気づいた。
まじめに練習することはできる。やっていて楽しいとも感じる。上手くできたら嬉しくなる。だけど、試合に出たいとか、勝ちたいとか。そういう気持ちは薄くて……将大が入ったことで自分が試合に出られなくなると思って、どこかほっとしていた。
試合に出るのは怖い。ミスをしたらと思うと、逃げ出したくなる。それより、みんなを応援する方がずっと性に合っていた。
ホワイトタイガースのみんなは気持ちのいいメンバーばかりで居心地がよかった。
一也たちがクラトをチームに誘ったのは、期待があったからだろう。立っているだけで、クラトは運動ができそうに見えていたようだ。けれど実際のところ、クラトは彼らが思っていたよりずっと運動が苦手だった。一也たちに誘われて初めて練習に参加したとき、クラトが手間どるたびに、みんな意外そうな顔をしていた。
けれどホワイトタイガースのみんなは、クラトのことをうとまずに受け入れてくれた。下手だとバカにされたことはないし、バカにされていると感じたこともない。むしろ、クラトのやることをおもしろがってくれているような、温かさがあった。
それは一也たちの力が大きかったようにクラトは思う。クラト自身を受け入れてくれていたというより、一也たちを信頼し、一也たちが連れて来たクラトだから受け入れてくれた――。
そのせいか、みんなと一緒にいても、どこかお客さんでいるような感覚が、クラトにはずっとあった。みんなのことが好きで、楽しくて、『彼らと一緒にいられるときの自分』が嬉しかった。嬉しくて、だからもっと一緒にいたかった。
だけどそれは、野球がしたいということとは違っていたのだ。
そんな気持ちで続けていくことはできなかった。
だから、監督にチームをやめると告げた。練習試合の三日前のことだった。
監督も、クラトがそう言い出すと感じていたようだった。日曜日――将大の話と護の話を聞いた翌日――の練習のときから、クラトの様子が変わったことに気づいていたからだ。以前より練習はキツい。チームに戻ってきたものの、クラトが無理をしているのではないかと心配していたらしい。
それだけでなく、監督はクラトの父親が再婚することも知っていた。クラトの顔が暗いことには一也たちも気づいており、父親の再婚話が原因じゃないかと監督に相談していたそうだ。護が再婚することはそよ子から近所に伝わっていて、一也たちも耳にしていたという。
監督は、クラトがチームをやめると伝えたとき、クラトが悩んだ末に出した結論に反対はしなかった。クラトがやめようとしている理由を問いただすこともしなかった。簡単な気持ちで言い出したことだとは感じなかったのだろう。ただ、練習試合までは続けたらどうかと、クラトは監督に提案された。
クラトはチームをやめるということしか考えていなかったから、監督に言われてハッとした。やめようと決めたからといって、今すぐやめる必要はないのか。
野球はやめる。
クラトはそう決めた。
将大に言われたこと、自分の心の中にあるもの、見つめて考えてそう決めた。
それでも、チームメイトと過ごした楽しい思い出が、決意を鈍らせた。
やめると決めた、やめると告げたものの、迷う心はずっとあって。
だから練習試合までは続けようと思った。
少しの意地と、複雑な気持ち。
まだ本当にやめたわけではない。今からでも、自分が変われる可能性はゼロではない。試合が終わるまでに変わることができれば。居心地がいいからやめたくないのではなく、もっともっと野球がしたいのだと思うことができたなら。
実力を考えたら、試合には出られないだろう。けれど、監督から試合に出さないと言われたわけではない。出してもらえるかもしれない。試合に出たくないなんて、そんな臆病な気持ちから抜け出して、みんなと同じ気持ちで野球ができれば。もしも出してもらえたら、そこで何か少しでも活躍できたなら――やめると言ったことを撤回しよう。
密かにそんなことを思いながら、練習試合までの三日を過ごした。
そして練習試合当日、クラトは出場メンバーからは外された。
やっぱりダメなんだという気持ちと残念に思う気持ちを振り切って、クラトは目の前の試合に集中し、自分のチームをせいいっぱい応援した。
試合はクラトを置いて進み、このまま終わるのだと思ったときにチャンスをもらった。
もしもホームランを打てたら――。
せめてヒットを打てたら――。
人知れぬ思いを胸にバッターボックスに立ち、ボールを待つ。
徐々に調子を上げてきていた相手ピッチャーの速球をバットに当てることができた。そこにクラトの成長が現れていた。練習したことは無駄ではなかった。
けれど――。
クラトが打ち上げたボールを、相手チームの選手はエラーすることなく、キャッチした。その瞬間、クラトは自分の中で、自分の野球が終わったことを感じた。
監督もチームメイトたちも、クラトの胸の内を知らない。
この試合を最後にチームをやめる。
クラトがその前言を撤回することはなかった――。
試合の後、クラトが野球をやめることが、監督からチームメイトたちに伝えられた。
これを聞いて一也たちは驚いた。驚いたものの、薄々、わかってもいたのだろう。クラトが引き止められることはなかった。
「おばあちゃんの足が治って、せっかくまた一緒に野球ができるようになったのにな」
「チームをやめても時間のあるときには遊びに来るよな?」
「たまには練習にかたりに来いよ」
「そうそう。いつでも参加していいんだからな」
「試合の応援にも来いよ」
将大以外のチームメイトたちは、クラトがやめることを惜しんでくれた。
「もうすぐ、弟か妹が生まれるんだろ?」
「赤ちゃんが生まれたら、加瀬っちもお兄ちゃんかー」
一也と次哉は赤ちゃんが生まれることも知っていて、クラトが野球をやめるのは、新しい家族と一緒に過ごすためだと思っているようだった。
そういうわけではないのだけれど――。
そういうわけではないのだけれど、クラトは否定しなかった。一也たちがそう思っているのなら、その方が都合がよかったからだ。本心なんて、とても言えない。
野球をやめようと思った理由も。
新しい家族――家族になるのだということを、自分がどう思っているかなんて。
あの日、護から優香と再婚すると聞かされて、クラトは混乱した。
その混乱は、今も収まったわけではない。
優香はやさしい女性だ。やわらかい雰囲気を持つ優香は、そよ子とクラトの生活にするりと馴染んだ。いるのが当たり前だと感じるほどに。
クラトは人懐っこい性格ではない。社交的な、誰とでもうすぐに打ち解けられる性格でもない。他に頼る相手がいない状況だったとはいえ、優香だったから頼ることができた。他の誰かだったら、きっと気詰まりだっただろう。
クラトにとって、優香は特別な存在だった。
優香はクラトの母親と思うには少し若かったが、母親がいたらこんな感じだろうか、優香が母親だったら、母親になってくれたら……。一緒に暮らしていてそう思うこともあった。そよ子の足がよくなっていくのを喜ばしいと思う反面、優香との別れを思うとさみしくなった。それなのに――。
本当に優香が家族になると聞かされて、クラトは動揺した。しかも、数か月後には赤ちゃんが生まれる。自分の弟か妹が――。
ぐちゃぐちゃの頭の中に浮かび上がったのは、母親のことだった。あの日、将大たちが会話の中でクラトの母親のことを話していた。イヤな言い方をしていたのを聞いて間もなかったせいかもしれない。
自分を生んで半年も経たずに亡くなったという母親。異国の人だったという母親。そして――クラトは、自分が混血児だという事実を思い出す。
クラトの半分は、日本人ではない。けれど、優香が産む子供は、生粋の日本人だ。自分とは違う。顔を合わせることの少ない父親、そよ子とクラト。この三人だけなら気にならなかったけれど、優香と赤ちゃんが加わったら?
その中で、異国の血を引いているのはクラトだけだ。家族の中でクラトだけが異質な存在になってしまう。クラトは、自分だけが家族じゃなくなる気がした。
新しい家族の中で、自分は家族に見えるだろうか?
ちゃんと家族になれるだろうか――?
チームメイトたちは、クラトの新しい家族の話で盛り上がっていた。祝福の声が聞こえる。
クラトは本心を押し隠して、笑って、みんなと別れた。
※
「「ぼくの家なのに。ぼくの家族なのに。ぼくだけが違う」
公園で、クラトがつぶやく。
白ネコを前に、クラトは一気にこれまでのことを、自分の思いを、語り終えたところだった。白ネコ――真珠麿は、じっと大人しく座っている。
空の青さも、吹く風の爽やかさも、クラトの心を晴らしてはくれない。
クラトは、これからのことを思う。
クラトにとって特別な場所だったホワイトタイガース。家族とも、学校の友達とも違う、チームメイトたち。将大とは打ち解けられなかったが、クラトは彼らからたくさん受け入れてもらっていた。
そのチームをやめて、帰る家には――。
「どうしよう――? ぼくの居場所がなくなっちゃうよ」
クラトの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
悲しいのか苦しいのかわからない。
すると――。
「――居場所がほしい?」
ネコの〈声〉が、クラトに尋ねる。
「……居場所?」
クラトは、首を傾げる。
このネコは、何を言うんだろう?
真珠麿の目は、透き通った青空のような水色だ。その目を見返すと、吸いこまれていきそうな気がする。
いや、違う。
声だ。この声に、クラトの意識は惹きつけられていく。
「そうよ。――あなたが望むなら、私の仲間を紹介してあげる。きっと彼らが――彼らのいる場所があなたの居場所になるわ」
クラトは息を止めた。
なんだろう。何かが起ころうとしている。
それは、ひらめきのような予感。
「私はあなたをスカウトします」
スカウト――?
「加瀬クラトくん、私たちの秘密組織に入りませんか――?」
ミャアァン!
一声鳴いて、真珠麿はしっぽを大きく振った。
草が揺れる。
午後の陽光が草の上を渡ってゆく。目で追いかける。
視線を戻すと、そこに白ネコの姿は見えなかった。
え――?
ネコならぬ、キツネにつままれたような思いで目を瞬く。すると――。
視界の端を白いものがかすめる。
白ネコはするりと草の合間を縫うように駆けてゆく。
クラトが追いかけようとすると、白ネコと入れ替わるように公園の入口から黒ネコが飛びこんできた。白ネコと違って毛の短い、しゅっとしなやかなネコだ。
クラトの足元に駆け寄ると、月を思わせる金色の目で見上げて来る。その口には白いカードをくわえていた。
黒ネコはカードを受け取れと言わんばかりに、クラトに向かってあごをそびやかす。さっきの白ネコより、つーんと気が強そうだ。目が強い。
クラトは腰をかがめると、おそるおそるカードに手を伸ばした。
クラトがカードをつまむと、ネコはパッと口から放す。
クラトは身体を起こすと、黒ネコから取り上げたカードに目を移す。そこには黒い流麗な文字が並んでいた。
――明日の午後一時、八角堂にて 和――
和……わ? かず?
「これって、なんなんだろう?」
カードに気をとられている間に、黒ネコもいなくなっていた。
目で探すと、公園の入口に後ろ姿。それはすぐに消える。
クラトはあわてて追いかけた。
黒ネコは公園を出て右に曲がった少し先にいた。クラトが来るのを待っていたように、そこで足を止めて後ろを振り返っている。
クラトが黒ネコに気づいて近寄ると、からかうように駆け出した。
「ま、待って!」
ネコは身軽に塀に跳び上がり、タタッと走り、角の向こうへ跳び降りた。
クラトが角を曲がるとバスの停留所になっている空き地に、黒塗りの大きな乗用車が停まっていた。後部座席のドアが開いていて、そこに少女が一人、立っていた。
凛とした立ち姿に、クラトはハッと目を奪われる。
後ろ姿だから、顔はよくわからない。年齢もわからないが、クラトよりは年上だろう。
長く豊かな黒髪、ほっそりした手足、白いワンピース。
足元にはさっきの黒ネコがちょこんと座っている。
黒ネコだけではない。白いネコもいる。あのふさふさの毛はさっきの白ネコだろう。
ということは――。
この少女が、あの〈声〉の主なのだろうか。
クラトがその可能性に気づいたとき、少女の姿はなかった。どうやら、クラトがぼぅっと考え事をしている間に、彼女は車中の人になっていたようだ。
少女に続くように、白ネコと黒ネコが車に乗りこむ。
しっぽの先まで入ったのを確認して、車のドアが閉じられた。
閉じられたドアの横には老人が立っていた。車のドアを閉めたのは、この白髪の男性だ。
老人はクラトの方を向いた。黒い服に、白いスカーフのようなネクタイをしめている。クラトに一礼すると、車体の後ろを回って運転席に乗りこんだ。
そして車は静かに、ゆっくり発進した。
黒い影が見えなくなるまで、クラトはその車を見送った。
※
広い車中、後部座席のシートには先ほどの少女が座っている。その横にはネコたち。白ネコと黒ネコは少女のひざにあごをのせて寝そべっている。背をなでられ、気持ちよさそうにのどを鳴らす。
「ごくろうさま、真珠麿」
と主に声をかけられ、白ネコがミャアンと嬉しげに鳴く。
「おつかいありがとう、千夜空」
と主に礼を言われ、黒ネコが二ャン! と得意げに鳴く。
二匹の背をなでながら、少女の唇は名をつむぐ。
「加瀬クラトくん」
その声は、真珠麿と呼ばれたネコから発せられていた声と同じ声だった。
その声音には少し楽し気な響き。
「さあ、あの子は明日、やって来るかしら?」
つたない文章を読んでいただき、ありがとうございます。
この作品はフィクションです。作中に出てくる「小牟田市」は実在しません。モデルにしている都市はありますが、あくまで参考にしているだけで、実在のものと「小牟田市」は違うものです。
クラトがこれからどんな仲間に出会うのか、今後も読んでいただければありがたいです。