抉り壊す
きききき
少女にとって、その男は初めて見る人種だった。血の匂いを漂わせ、ギラついた目をした大男。
ミハイルと名乗った男が出て行ってから三日が経った。
あれはたぶん人間ではない。素手で熊を殺せるようなものは、人間とは呼べない。
だが、その精神性は自分以上に人間らしかった。美味しいものを食べたら喜び、嫌なものを見たら顔を顰める。そんな当たり前のことができなくなったのはいつからだろう。
媚びたような笑みを浮かべて、周りの機嫌をとることを躊躇わなくなったのはいつからだ。
あの男は善人ではない。それは少女にも分かっていたが、それでも少女はその男のことを嫌いにはなれなかった。
絵本のように王子様が迎えに来てくれるとは期待していなかったが、あれは下品に過ぎる。いや、自分には似合いかと少女は自嘲した。
結局、私は何もしていないのだ。抵抗するわけでも、戦うわけでもなく。
ただ流されているだけなのだ。ヘラヘラと笑って誤魔化しながら。
だが、それで何も問題はない。周りに見下されようと死ぬわけではない。食事は最低限のものを貰えるし、仕事だって目を瞑っていれば終わる。
だったら何故、あの夜助けを求めた。少女の中のどす黒い部分がそう問いかけた。
復讐か。誇りか。
ゆっくりと茹で殺されるような日々に嫌気がさしていたからではないのか。
それは少女の中に芽生えた初めての感情だった。
誰かが一押しすれば、それは戦う覚悟に変わっていただろう。
だが、そうはならなかった。
少女に生まれた確かな覚悟は、男の無遠慮な一言によって霧散してしまった。
助ける、とその一言さえあればよかった。そうすれば、少女は刺し違える覚悟を決めることができた。
本当は彼は優しい人間なのでは、という考えが少女の頭の中を巡った。
助ける、と彼が言っていたら私は死んでいただろう。
いや、それもないか、と少女は思い直した。私と彼が出会って1週間も経っていない。そんな程度の関係の相手を助けるために、自分の命を賭ける価値はないと思っただけか。
今となってはわからない。彼はもう旅立ってしまった。
たが、それでいいのだ。夢を見れた。それだけでいい。
少しだけ微笑んで、少女は仕事に戻っていった。
最近よく思う事なのだが、酒というのは本当に美味い飲み物なのだろうか。いや、勿論嫌いではないのだが。
味が美味いかと言われたら、辛いとしか答えられない。酔っ払う為の道具として使っている俺にも問題はあるのだろうが、酒の味と言われても答えにくいし、よく分からない。
ウイスキーを一口飲んで、味を確かめてみる。
辛い。
たぶん、ブランデーやウォッカを飲んでも同じことを言うだろう。というか、度数の高い酒は全部同じ味のように感じる。俺がバカ舌なだけか。本当に、みんな違いが分かって飲んでいるのか。
味だけなら、牛乳とかの甘い飲み物の方が好きだ。
コーヒーはブラック派で通しているが、本当は砂糖を山ほど入れた方が好きだ。
まあ、それでも酒をやめることはできないが。
そういえば、今の俺は酔っ払うことはできるのだろうか。アルコールには人体にとっては毒だ。再生能力が高まった状態の俺では酔っ払うことはできない、という考えがふと頭をよぎった。
それ以上考えることはやめた。
余計なことは考えなくていいのだ。俺が今飲んでいるのは世界で一番美味い飲み物だ。そのはずだ。
エルフの村を離れてから一週間、中将の命を受けて俺は再びこの場所へ戻ってきた。
中将はエルフの村を滅ぼし、占領することに決めた。
いくらエルフといえども、所詮は田舎の村だ。俺が報告した村の人口から、中将は一個大隊も動かせば、正面から滅ぼせる、と結論づけた。
それで終わりならば良かったのだが、中将は俺に新たな任務を与えてきた。
我々の勝利は約束されている。しかし、真正面から戦えば、我が軍の被害も少なくはないだろう。
よって、貴官の任務は、先遣隊として敵地に潜入し敵軍の撹乱、可能であればこれを撃破せよ。などと言ってきた。
おかしい。一個大隊でやる仕事を、何故俺一人に押し付けるのか。
本隊が来るまでは、俺は一人で大隊相当の戦力と戦う必要がある。
恨み言の一つも言ってやろうと口を開く。
了解しました、閣下。十年以上の軍隊生活で、俺の口は自らの意思に反乱を起こすようになったらしい。
いいえと言えないのが兵隊の辛いところだ。
まあ、いくら殺されようと死にはしないのだ。気楽にやろうと、自分を慰めた。
「あー、そのなんだ。久しぶりでいいのか?」
ばつが悪そうに男は頭を掻いた。
いつか、また会えたら。そう思っていたのは事実だが、いくらなんでも早すぎるとエルフの少女は思った。ロマンチックの欠片もない。
「たったの一週間で久しぶりはおかしくない?」
「まあ、それもそうだ」
困ったように笑うミハイルを見て、少女は何か違和感を覚えた。
この前までの彼が獣ならば、今の彼は無機質な爬虫類のようだ。
彼の目をじっと見つめる。優しげに笑っているが、その奥に惹きこまれるようか冷たいものがある。そして、おそらくその冷たさはよくないものだ。
「急で悪いんだけどな。今日は家から出ないでくれないか」
「え?」
「何があろうと、何が聞こえようと、今日だけは目を背けろ。鍵をかけて、家に閉じこもっていてくれ。そうすれば全て終わる」
どこか酔ったように、男は笑った。
少女の中に広がった感情は、困惑というより恐怖だった。ここで止めなければよくないことが起きると、少女の本能が訴えていた。
「ミハイル…」
少女は、振り返った男の目を見て声が出せなくなった。
少女は男に抱いていた違和感の正体にようやく気付いた。
殺気などという優しいものではない。殺気からは相手の意思が感じられる。相手が自分を殺そうと思っている、いわば熱量を持った恐怖だからだ。
だが、これはそんなものではない。
彼は、死そのものだ。
目的も意思も感情もなく、ただ死というものをばら撒く存在。
怪物などではない。機械のようだと、少女は思った。少女は、目の前にいる男と、自分に優しくしてくれた彼が同一の存在だと信じられなかった。
「そんなに怖がるなよ…」
男は、乱暴に少女の頭を撫でた。
彼の手から伝わる体温のおかげで、少女は目の前の男が人間だと認識できた。
少女は罪悪感に襲われた。彼は自分が怖がっていることに気づいてしまった。そして、彼を傷つけた。
少女は自らを恥じた。彼が化け物だろうと関係ないではないか。彼は自分の友人なのだから。
「俺は、これからひどいことをする。それがお前にとって良いことなのか悪いことなのか、俺にも分からん。だが、これだけは誓おう。お前のことは守る」
少女は止めることも、謝ることもできずに、ただ彼のことを見送った。
スルド氏族の長ヘイムグルについて話そう。
先代の村長の長男として生まれた彼には、何一つ不自由なものなどなく、望むものは全て手に入った。女も酒も、父の死んだあとは権力も。
だが、それらの栄光を手に入れたのは、生まれの運の良さだけではない。彼自身が優秀だったからだ。
優秀な細工職人としても知られるエルフの工芸品を売って外貨を稼ぎ、村を豊かにした。
また、外交面では、王国と帝国の間にあるという立地を活かして、両国から大きな譲歩を引き出した。
そんな男にも、唯一手に入れられなかったものがある。
レイリア。彼にとっては、初めての恋だった。彼と同等の知識を持ち、そして彼と同じ目線で話すことのできる女性。
ヘイムグルは、レイリアと話すたびに、彼女の深い知識に感心し、惹かれていった。
愛していると気づいてからの、彼の行動は早かった。貢物の用意をし、婚約指輪は自ら作り上げた。家臣たちに打ち明け、式の準備を行わせた。歓迎してくれるのか少し不安だったが、お似合いだと皆が祝福してくれた。
万全の準備を整えて、彼は告白の言葉を彼女に送った。私がいかにあなたを愛しているか、そして貴女がどんなに素晴らしい人か、概ねそんな内容の平凡な告白だったが、気持ちを伝えるという点では百点満点の告白だった。
しかし、返ってきた言葉は。
「ジジイと寝る趣味はないわ」 だった。
二人の歳の差は六十歳ほどであり、人間でいうなら十歳差程度だった。この時代において、その程度の歳の差は珍しいことではなかったが、レイリアは良くも悪くも現代的だった。
ヘイムグルは何を言われたのか理解できなかった。
後悔、恥辱、悲嘆。そんな感情が彼の心をかき乱し、正気に戻れたのはそれから三日後だった。
しかし、その時には全てが取り返しのつかない事態になっていた。
レイリアは既に村から旅立ってしまっていた。
意外なほどに、ヘイムグルは驚かなかった。ただ、少しだけ悲しくなり、そして少しだけ恨んだ。
だから、彼は憂さ晴らしをすることにした。
村に残った彼女の妹、リーリアへの食べ物の配給をほんの少しだけ減らした。
別に本気で嫌がらせをするつもりはなかった。
下らないことをするな、と家臣たちに叱ってもらえれば、彼はそれ以上のことをするつもりはなかった。
しかし、彼の周りにいる人物は、彼のことを理解していなかった。
家臣たちは、主の真意を読み間違え、リーリアにさらなる嫌がらせをした。食べ物を減らし、無視し、彼女のことをいないものとして扱った。
ヘイムグルは家臣たちを止めようとはしなかった。
彼は、この状況を楽しんでいることに気づいてしまった。
愛した彼女の、最も大切なものを傷つける。仄暗い喜びが彼を楽しませた。
おそらくは、レイリアも彼のことを見誤っていたのだろう。たとえ、彼女が彼のことを振っても、妹にまでその責を負わせはしないだろうと。
レイリアは、彼女なりにヘイムグルのことは評価していたのだ。
ヘイムグルはそれを知ることはないだろう。
故にヘイムグルは破滅する。
一面の炎。ヘイムグルが生涯をかけて築きあげてきた彼の村が燃えていた。
そして、地獄を作り出した男が一人。燃え盛る炎を眺めながら、退屈そうに佇んでいた。
「意外と燃えるものだなぁ。色々と悪いことはやってきたが、放火するのは初めてだ」
この場に似つかわしく呑気さで、王国軍の兵士ミハイル・ウィンチェスターは戯言を言った。
「何故と、一応聞いておこうか」
ヘイムグルの周りには、彼の側近たちが集まり出していた。奴を殺せと命じれば、彼の側近たちはすぐさま優秀な殺し屋へと変わるだろう。
「何すかしてやがる。理由なんているか?殺しに来たからここにいるんだろうが」
「貴様一人だけで来たわけではあるまい。これは我々への宣戦布告と受け取っていいのだな。貴様ら王国からの」
「そうだ。王国軍カトー・ヴァンガード中将の命令により、正式な軍事行動として俺はここに来た」
「敵情偵察として、この村に来ていたわけか。貴様も軍人ならば、我々エルフの戦力を知らぬわけではあるまい。捨て駒にされたな」
ミハイルはそれを聞いて、愉快そうに笑った。
「何がおかしい?」
「これは失礼。たしかに、そうだな。お前たちは強い。魔術師としての貴様らは一流だ。俺のような一介の兵士なんぞ簡単に殺せると思っているのだろう?」
ヘイムグルは男の態度に不気味なものを感じたが、虚勢だろうと結論づけた。
「我々に勝つつもりかね」
「ごちごちゃ言ってないでさっさとかかってこい。戦士が言葉で語るなよ。それともなんだ、ビビっているのか、お嬢ちゃん」
ミハイルは片手剣を鞘から引き抜いた。
「そうか、ならば死ね」
ヘイムグルが号令を下し、彼の部下が走り出す。
ヘイムグルの部下の中で動いたのは一人だけだった。ただの人間相手にはそれで十分だった。
わざわざ近づかなくとも、魔術を一つ唱えれば殺すことは出来るだろう。だが、敢えてそうしなかった。
それは、この場に一人で現れた戦士への敬意であり、弱者である人間への哀れみだった。
サーベルを構えて、突撃する。
エルフは優秀な魔術師であるが、それは白兵戦が不得手であると証明するわけではない。
強化魔術で筋肉を強化し、防御魔術を発動しながらの突撃は、機関銃の掃射にも十秒程度は耐えられる。
ミハイルはゆっくりとした動作で、剣を上段に構えた。
エルフの戦士は、強化された視覚の中でそれを捉え、嘲笑った。
敵の兵士に魔力は感じられない。ということは、敵の身体能力は常識の範囲内ということだ。相手が剣を振り切るまではせいぜい一秒程度。だが、その間にこちらは三度切ることができる。
油断はしない。相手が捨て身でくれば、相打ちに持ち込まれることもある。
保険として防御魔術を展開。万に一つの可能性を潰す。
あと三歩も近づけば、こちらの間合いに入る。狙うのは、敵の首のみ。即死させる。
エルフの戦士は飛ぶように走り、サーベルを振り抜いた。
刃が首にめり込み、ぶちぶちと筋繊維を破る音がエルフの戦士の耳に届く。
エルフの戦士は勝利を確信した。だが、その刃が敵の首を切断することはなかった。切れたのは表皮と少しの筋肉だけで、それ以上刃が通ることはなかった。
敵の兵士がにやりと笑った。
敵の兵士が剣を振り下ろす。その速度は予測した通り、並の人間程度だった。
避けることも可能だったが、防御魔術で防ぎ切れると判断し、再度攻撃に移る。サーベルは首に食い込んだままなので、魔術による攻撃を選択。この距離で炎魔術を使えばこちらも燃えるため、風魔術を展開。敵の胴体に叩き込む。
風の刃が敵に当たると同時に、敵の刃が防御魔術に衝突。
「え」
振り下ろされた刃はなんの抵抗も受けずに、エルフの頭に振り下ろされた。
エルフの戦士は何が起きたのか理解することなく、そのまま死んだ。
ヘイムグルは彼の部下の死を見て、冷静に敵の分析を行った。防御魔術は確かに発動していた。だが、それは敵の刃にあっさりと破られた。敵の兵士に魔力の痕跡はなかったため、強化魔術や妨害魔術で防御魔術を打ち消したわけではなかった。つまり、単純な筋力のみで、銃弾をも防ぐ防御魔術を叩き切ったのだ。
「痛えなあ。腹と首が少し裂けたか」
首にめり込んだサーベルを引き抜きながら、男は余裕そうにしていた。
「次は誰だ?」
獣はそう言って笑っていた。