怪物は蘇る
おおおお
穏やかな木漏れ日が部屋の中に差し込み、椅子に座る男を緩やかに暖める。
部屋の中に動くものはなく、ただ男の寝息だけが静かに響いていた。
まるで時が止まったかのような穏やかな時間は、急に響いた電話の音で破られた。
ゆっくりと男の目が開く。気だるそうに顔を二、三度こすり、男は目の前の端末を操作した。
「もしもし」
「俺だ。なんだ、また寝てたのか?」
立体投影された友人の姿を見た男は、苦笑しながら答えた。
「いいじゃないか、どうせ仕事なんてないんだから」
男とその友人の仕事は軍人だった。
だが、旧時代のそれとは違い、男たちの仕事は名誉職に近かった。
文明の発達により、人類からは戦争が消えた。
戦争は一種の経済活動だと誰かが言った。
ならば、経済がなくなれば、必然的に戦争もなくなる。
まず宇宙開発技術の進歩によって、人類は鉄や金といった重金属不足から解放された。
太陽系に眠る資源はほとんど尽きかけていたが、外宇宙の、旧時代の人類が観測すらできなかった星々が我々の新たな採掘場となった。
ここから人類の進化は一気に加速した。
ほぼ無限とも言える資源を使って、人類は科学技術を発展させた。
その中でも人類史にとって特に重要と言える発明は、加速器の超小型化だろう。
陽子と電子、中性子の数させ足りていればどんな物質だろうと生み出せる、その電子レンジほどの大きさの機械は急速に普及した。
また、この時代において食料は全て配給制だった。
おそらく、配給制というと余り良い印象を抱かないので、これについては詳しく説明する。
まず各家庭に分子のかたまり(厳密には電子や中性子を多く含む物体)が送られてくる。
次に、それらが各家庭に配布された加速器に入れられる。
あとはボタン一つで、パンでも牛肉でも好きな物質に変換させられる。水分含有率や、アミノ酸の量も自由に変えられるので、好みに合わせて食材の味も変えられた。
この時代に料理人という職業は絶滅した。西暦2158年につくば社の「どこでも加速器君ver14」―加速器に調理機能を組み込んだもの。SF映画に出てくるやたらと不味そうな食べ物しか作れなかったver13と比べて、味も見た目も大幅に改善した―の開発によって、人類の作る料理は機械の作るそれと比べて、大幅に劣ることに気づいてしまった。
また、人類は戦争を起こそうとしなくなった。
これは人類が高度に道徳的な生物に進化した、というよりも単純に必要がなくなったからだろう。
領土が欲しければ、星の海を開拓すれば良い。
資源が欲しければ、ボタンを押せば好きなだけ出てくる。
あとはイデオロギーや宗教上の問題だが、ほとんど神の領域に達した人類は宗教にあまり熱中しなくなった。
この時代の軍人の仕事といえば、年に四回行われるパレードとごく稀に発生するテロリズムとの戦いだった。とは言っても、テロリストとは圧倒的なテクノロジーの差で一方的な戦いにしかならず、二十二世紀における戦死者はゼロだった。
そのため、平常時は暇を持て余していた男たちは、テレビ電話をしたり、チェスをしたりして時間を潰していた。咎める者もいなかった。
「いいか、人間が生きていられる時間は限られているんだ。それを睡眠などという疲労を回復するためだけのもので消費するなんて、もったいないことだと思わないか?」
あくびをしながら、男は気だるそうに答えた。
「俺は眠るのが好きなんだよ。目を閉じていれば、退屈を認識しないで済む」
「まあ、お前の趣味に口を出すつもりはない。最近の調子はどうだ?」
「ずいぶんと月並みな質問だな。まあまあさ」
男と友人は軍学校の同期だった。士官学校と言わなかったのは、この時代において軍人教育の規模は縮小しており、士官と下士官が同じ学校で訓練を受けていたからだ。男の階級は少尉であったが、友人の階級は中佐だった。
「それは結構。渡辺の奴を覚えてるか?」
「ああ、懐かしい名前だ」
渡辺と呼ばれた男は、二人の軍学校時代の友人であり、男たちとは違い研究者の道に進んでいた。
思わぬところで古い友人の名前を聞いた男は、少しだけ嬉しくなった。
「あいつが今何やってるか知ってるか?」
「研究職か何かじゃないのか。詳しい仕事は知らないが」
「それだけ知ってれば十分だ。あいつの今の仕事は生物学者でな、人型ゲノムを利用した準霊長類生物の研究、だったかな」
「意味が分からんぞ」
男はホルマリンの中に浮かぶ脳みそをイメージしていた。男の乏しい想像力では、その程度のことしか想像できなかった。
「俺もよく知らん。が、大事なのはあいつが人工生命体だかを作っているということだ。上の連中がそれに興味を持ってな、うちの部隊で採用してみようという話になった」
「勘弁してくれ」
男は軍学校の教本で見た写真を思い出していた。
旧時代の生物兵器。天然痘や炭疽菌といったソフトウェア的な兵器ではなく、生物工学で作り出した鉤爪や牙で敵を殺傷するハードな兵器だ。
その見た目は目や鼻などが無く、口腔だけが奇妙に大きくそこに牙が円環状に配置された、ミミズと鮫の合いの子のような怪物が頭に浮かんだ。
そんな化け物が自分の席の隣に立つ。嫌だ、嫌すぎる。
「嫌だ。隣に化け物が立っていたら仕事に集中できない」
「悪いがこれは決定事項だ。まあ、そう嫌がるな。見たら、気に入るさ」
男は一つため息を吐くと、仕事用に頭を切り替えた。
「で、その新人はいつ来るのでありますか、中佐殿」
「今何時だ」
「ヒトフタマルマル」
「そろそろだな。煙草の一本でも吸ってる間に来るさ。じゃあ、また」
「今日か?あっ、待て切るな、加藤!」
反射的に伸ばした手は、立体投影の形を歪ませた。
すぐにそれはかき消え、後には無機質な応答なしという文字だけが残っていた。
男は空を切った手をしばらく遊ばせたあと、無意識に煙草の火をつけた。一服してから、禁煙しようと決めていたことを思い出した。少々の後悔に襲われるが、一口吸ったら一本吸っても変わらないか、と思い直してそれを楽しんだ。だいたい、今の技術なら肺の一つや二つは治せるのだ。気にするほどでもない。
男が二本目に火をつけようとしたとき、来客を告げるチャイムが鳴り響いた。
「空いてるよ」
少なくとも、新任の部下はチャイムを鳴らす程度の指は持っているらしかった。
「失礼します」
竪琴の音色のように、聴くものに安心感を与える澄んだ声だった。
男は一分前の自分に、自らの喜びを伝えたくなった。
混血化が進んだこの時代においては珍しい、夏の夜空のような暗く、惹きつけられる艶やかな黒髪。
整った目鼻立ちは嫌味な印象を与えることはなく、ただ美しいという感想を男に与えた。
そこにいたのは人間だった。容姿については、人間よりもよほど美しい、と男は思った。
ただ、大和撫子のような謙虚さを持った胸は、あまり男の好みではなかった。
「駿河研究所所属、サレナ・スルガ准尉、只今より着任します」
「木戸透少尉だ。よろしく頼む、准尉」
今日の夜にでもバーに誘おう。少尉はそう決意した。
俺は死んだのか。
何も見えない。何も聞こえない。何も感じられない。
全身の感覚は失われ、先ほどまでの痛みすらもう思い出すことはできない。
綺麗な女だった。首を切り裂かれても、そう思えた。悪くない死に方だった、などと酔うつもりはないがむさ苦しい男に殺されるよりはマシだろう。
しかし、ここはどこだ。辺り一面には暗闇が広がり、物音一つすら無い。
いや、待て俺は暗闇と言ったか?。
何も見えない訳ではない、少なくとも暗闇を認識することはできている。
ならば、眼球と脳の機能は残っているのだ。
感覚が身体に戻ってくる。
指先から徐々に肉が形成され、かつての姿を少しずつ取り戻していく。骨を柱として、その周りに筋肉や脂肪の装飾が施される。
死んだのかもしれない。だが、俺という存在は消えていない。
自分の存在を確信したとき、何も見えないほどの強い光が目を焼いた。
一時的に全身の感覚が麻痺する。
夜には匂いが存在する。おそらくは、鼻腔を通り抜ける空気の温度差を匂いとして誤認しているのだろうが、それでも夜には独特の匂いが存在する。
最初に感覚を取り戻した嗅覚が、今は夜だと訴えた。夏の夜だ。どこか懐かしく、だが非日常感のある匂い。
次に感覚を取り戻したのは視覚だった。
くすんだ朱色に染められた枯葉や落ち葉が視界に入った。秋色に変わった植物や木々が網膜を安らげた。
春風のような、心地よい風が吹き抜けている。肌をくすぐるそよ風は、不思議なことに木々を揺らすことはなく、無音で心地よさを与えてくれる。
そうだ、ここには音がない。生物の息吹も、木々のざわめきも聞こえない。冬の朝のような、心地よい静けさが広がっていた。
奇妙な場所だ。だが、それは不快ではなく、不思議な心地よさを感じさせる。
「あら、珍しい。客人なんて何年振りかしら」
背後から響いた女の声は、とても優しく、母性を感じさせる声だった。
白というよりも、銀に近い。光沢を持った髪が、とても美しく、どこか懐かしい感情を浮かばせる。
俺が物心ついた頃には死んでしまっていた母親を思い出した。顔も声も知らないはずなのに、何故そう思えたのだろう。
紅茶をゆっくりと飲んでいる女は、名画の一枚のような完成された美しさを持っていた。
「座りなさいよ、お茶が冷めてしまうわ」
女に促されて、椅子に座る。
紅茶を口に含むと、豊かな香りが口の中に広がった。お茶の味はよく分からないが、とても美味しい。気がした。
「あなたは?」
自然と敬語が出てきたことに驚いた。
「名前を聞いているなら、それに意味はあるのかしら。みーちゃん、とでも呼んでくれればいいわ。私という存在が何かと聞いているのなら、そうね、秘密よ」
「ここには、貴方が連れてきたのか?」
「みーちゃんよ」
「ええ?」
「そう呼んでくれないなら、何も教えてあげない」
むすっとした顔をして、唇を尖らせている。可愛いが、こいつは頭がおかしいのか。
「むう…。ここには、みーちゃんが連れてきたのか?」
「いい響きね。もう一回呼んでくれない?」
子供のような無邪気な笑みを浮かべて、女は美しさを振りまいた。
「面倒な女みたいなことを言わないでくれ」
「つれないわね。私が貴方をここに呼んだとも言えるし、貴方が私を呼んたとも言えるわ」
「どういうことだ?」
「うーん、説明してあげたいけど、今の貴方には理解できない話よ。それよりも…」
世間話をするような気軽さで女は言った。
「貴方、死んでるわよ」
驚きはなかった。こんなよく分からん場所に居るのだ、予測はしていた。
「なんか、凄かったわ。首からビューって血が出てて」
「そうか。お嬢さんを楽しませることができて、何より」
「怒らないでよ。一つ良いことを教えてあげるから」
「なんだ、天使が歌でも歌いながら迎えに来てくれるのか?」
「もう一度、生きたいとは思わない?」
死者の復活。そんなことは不可能だ。
だが、目の前の女ならば、道理の一つや二つなら捻じ曲げそうに見えた。
「可能なのか?」
「聞いてみただけでーす、貴方は死んだままでーす。なんて非道いことを言うと思う?」
「それもそうだな。それで、君は何を望む」
「どういうこと?」
死んでも生き返らせてくれる。そんな上手い話は世の中には無い。何かしらの対価が必要だ。
「対価として君は何を求めるのかと聞いているんだ」
個人的に彼女のことは気に入った。助けてくれる恩を別にしても、何か助けになりたい。
「貴方、意外と真面目なのね」
「なんだそりゃあ」
「うーん、そうね。なら友達になってくれればいいわ」
指先の感覚が消えていることに気づいた。
また存在が消失する。だが、恐怖は無い。あるべき場所に帰る、それだけのことだ。
また来なさい。そんな声が聞こえた気がした。
暗闇が広がっていた。しかし、それは先ほどまでの暗闇と違い、ただ瞼が生み出しているものだった。
ゆっくりと目を開ける。
「センパーイ、起きましたよー」
白衣を着た女の声が響いた。
看護婦というより研究者のような格好をした女が、手早く腕に刺されたチューブを抜くとコーヒーを差し出してきた。
「早いな。実験は成功したということか」
陰気な印象を与える男だ。だが、不思議と嫌いではない。男も白衣を着ていた。
「でもセンパイ、あんなのどこで手に入れたんスか?死体が生き返るなんて、あり得ないッス」
「科学を学ぼうという人間があり得ないなどという言葉を使うべきではない。目の前に実例がある以上、これは純然たる事実だ」
「えー、死体が動いたら普通驚きますよ」
ここはどこだ。最近、こんなことばっかり言っている気がする。
女に渡されたコーヒーをすすりながら、辺りを観察する。周りにはベッドが何個か並んでいるが、その住人はいないようだ。
「ここは?」
面倒くさくなったので、質問した。
「王国軍前線医務所第三病棟」
男が素っ気なく答えた。
「フム….、何故俺はここに?」
「今説明してもいいが、二度手間になるから少し待て。コーヒーでも飲んでいたまえ」
前線ではコーヒーカップなどという洒落た物は手に入らない。
ウイスキーの空き瓶に入れられたそれを飲み干す。 少しだけ酒精の香りがして美味しい。
パキリと音を立ててガラスが割れた。ヒビでも入っていたのだろうか。
ガラスの破片が指に突き刺さり、血が流れる。
割れたガラスに対処しているうちに来客。
「ほう、死んでいなかったか」
部屋に入ってきた男は、俺たちに命令を出していた大佐だった。
「大佐」
立ち上がって、敬礼を行う。
「いや、座ったままで結構」
安物のベッドがぎしりと音を立てる。
「カトー・ヴァンガード中将だ」
差し出された手はゴツゴツとしていて、兵隊の手だった。空調の効いた部屋で指示だけを出す将校の手ではない。好感が持てる。
「それは、出世されたようで。おめでとうございます」
「世辞はいい。こちらはノートン技術大佐だ」
「よろしく」
白衣の男は上官だったらしい。
「ミハイル・ウィンチェスター伍長であります」
「いや、大尉だ」
大佐、いや中将が訂正した。
「二階級特進どころではありませんが」
「死んだ人間にはそれだけで終わるんだがな。生憎と、王国軍で死んで生き返った人間は君が初めてなのでな。私の権限で出世させた。おめでとう、大尉」
知らないうちに出世したらしい。死んで出世するというのもおかしな話だ。生き残って次の戦いに向かう方がよほど仕事をしているだろうに。
「博士、実験はどこまで?」
「起こしただけだ。性能調査はまだだ」
「了解」
中将はテーブルの上に置いてあったメスを手に取ると、それを横に薙いだ。
鮮血が視界を染め、喉元に熱いものが広がる。
女が悲鳴をあげた。
血液が噴水のように吹き出て、急速に止まる。
喉を触ると血がべったりとくっついているが、それ以上血液が流れることはなかった。
「成功のようだな」
「あまり汚すな。私の部屋だ」
まるで意思を持っているかのように、裂かれた喉の肉が再生していた。得体の知れない恐怖に襲われる。自分の体が自分のものではなくなったのかのように。
「驚いているだろうから、説明してやろう。貴官は第六号強化兵計画の被験体に選ばれた。詳しいことは博士に聞け」
「素人に説明しても分からないだろう。経緯を説明した方がいいな。我々は廃棄された村で倒れていた君を回収して、少々特殊な施術を施させてもらった」
「博士、質問をしても?」
「構わんよ」
「自分の他に生き残りは?」
「残念ながら君だけだ」
「そうですか…」
そこまで悲しくはならなかった。冷たいかもしれないが、軍人なのだ。感傷に浸るのは仕事には含まれていないし、それをする資格もない。
「説明を続けても?」
「ええ、すみません」
「我々の実験による成功体は君が初めてだ。正直なところ、我々も君の能力についてはあまり把握できていないのだ。異常な再生能力があることは確かなようだが…」
「それについては試験を行えば分かるだろう。細かい内容については博士に任せる。試験が終わったら、君は私の部隊の所属になるが、何か異論はあるかね?」
「もし、私が退役を申し出たらどうなるのでしょうか?」
「別に構わんよ。君が一人の軍人から、一匹のモルモットに変わるだけだ」
逃げ場はないらしい。死なないというなら、大道芸人として食っていけると思ったのだが。
まあ、軍人でも悪くはない。今までと仕事は変わらない。それどころか、死なないならもっと仕事は楽になる。
「分かりました。しばらくは兵隊をするとします」
「賢明な判断だ。これからよろしく、大尉」
そういえば、俺を殺した女騎士はどうなったのだろうか。まあいい。次に会ったら犯して殺そう。