その8
プロポーズは年が明けてすぐだった。ナイトクルーズなんていうベタすぎる舞台を場所に選んだのはそれ以外には何も思いつかなかったからだ。
「重要なのは中身じゃなくて誠意だ。そもそもその段階に持ち込める時点で相手の答えなんてほぼ、決まってるんだよ。どれだけの対話と相互理解の労力を、相手に費やしてきたと思ってるんだ? それだけの信頼を、これから新しい相手と積み上げる労力を想像してみろ。プロボーズは最終面接みたいなもんだ。ただ、ただな、どれだけ面接官に愛された就活面接だって、最終面接ではっちゃけた私服を着て面接官の前で『これってもう採用されるって決まってますよね? 最終的な儀式みたいなものって聞いてます。へへっ』みたいなことを言ったら当然落とされるし、つまりそういうことだよ。油断と予断だけはするな。結論が見えていても、見えているなんて思うな」
というのは大学同期のアドバイスだった。中身は何でもいいけれど、かといってどうでももいいわけではない、らしい。まるで禅問答だと幹人は思った。
交際や結婚は神秘的であると同時に矛盾に満ちたイベントだ。矛盾だらけだからこそ神秘性とロマンチックっぽい感じを訴求するしか参加者の集まらないものだとも言える。
たどり着けない人と越えれられない人がたくさんいるのは最もだと幹人は思う。だからこそ、うまくいったときに幸福な気持ちになれるのだ。
浜岡には超えられないかもなあ、と思ってしまう自分は傲慢だろうかという思いも、ほんの一瞬だけ胸をかすめたけれど、婚姻にまつわる手続くの中で、余計なことはなかなか考えなくなってブログも書かなくなった。
ふっと思い立って、ずっと読んでいなかった『歯車ブログ』にアクセスした。サイトは様変わりしていた。テンプレートに沿った簡素な作りだったブログは、個人でいくつもレイアウト変更をしたようで、まるで違うものに見えた。
最新のエントリ見出しにある「二年半務めた会社を辞めます」のタイトルを見て、幹人は半ば反射的にリンクをクリックした。
記事の内容は簡素だった。ブログの収入で十分食べていける額が稼げるようになったこと、会社員で毎日会社に行くことがやはり苦痛であること、これまで以上にネットを介した「発信」に力を入れていく、ようなことが簡単に書かれていた。
ブログの管理人は幹人と同じ年齢だった。歯車ブログの管理人が公開しているブログ収益は、幹人のもらっている給与とは比較にならなかった。
幹人は自分の書いていた記事を読み返して、何かに耐えられない気持ちになってブログを削除した。
羨ましかった。けれどそこに手を伸ばそうとすれば、今自分が手に入れようとしている幸福を失ってしまう気がした。
婚約を職場の上司に伝えたのは二月の初めだった。幹人の婚姻は小さな衝撃を以て迎えられた。浜岡にも伝えようと思ったけれど、座席にいなかった。
「浜岡、今日は来てないんですか?」
浜岡のグループメンバーにそう訪ねたけれど、皆あいまいな態度で頷くばかりだった。
上司が会議室から困惑した表情で飛び出してくるのを見て、珍しい事務手続きで上司も困惑してるかもなと思った矢先だった。
その日はちょうど職場のミーティングの日だった。広めの会議室に十人あまりが集合して、三十分程度の全体連絡を行う。幹人の上司がプロジェクターの画面を操作し、本日の議題を読み上げた。
「まず一つ皆さんに連絡があります」
平坦な声を聞いて、幹人は自分のことかと思った。けれど違った。
「隣のチームの浜岡さんですが」
どきりとする。なぜ、ここで浜岡の名前が出てくるんだろう。
「今月いっぱいで退職されるとのことですので……」
議事を進める上司の声が、突然耳に入ってこなくなった。
誰が退職すると、上司は言ったんだろうか。まるで大きな金づちで頭を殴られたみたいな衝撃に、幹人は目の前の議題を理解することができなかった。まるで一切が他人事みたいに過ぎていく。と、上司がふと顔をそらして、幹人のほうを見た。
「こちらはめでたい報告ですが、大垣くんが今月結婚されるそうです」
名前を呼ばれて、幹人ははっと我に返った。ぱらぱらと拍手が起きる。幹人は笑みを浮かべていて、実際に嬉しいと思ったけれど、一番大きな衝撃は気にしないでいることが難しかった。
「お前なあ、一言くらい言ってもいいだろ。この世代の奴はドライだな。ともかくおめでとう。これで思い切り仕事にまい進できるな」
真っ先に幹人に声をかけてくれたのは城ケ崎先輩だった。肩を叩かれて振り向く。城ケ崎先輩はぎょっとした表情をした。「なんでそんな不幸な感じ出してるんだ、大垣」
「城ケ崎さん、今日は午後半休をもらっていいですか」
城ケ崎先輩の顔が奇妙に歪んだ。上司の許可はすぐに降りた。
会社を出た足で浜岡のアパートに向かった。最終出勤日が今日なら、もう会うことはない。
一度だけ、徹のアパートを訪ねたことがある。ただし徹ではなくて、徹と同じアパートに入居している会社の同期の部屋だった。まだ新入社員のころだ。
何のはずみか、徹がそいつのとなりの部屋に住んでいることを知ったのだ。部屋番号が二二二だったから忘れようがない。新入社員の頃の知り合いとは疎遠になって、今になって徹の部屋を訪ねるのは奇妙な感じがした。
安そうなアパートだが入り口にはちゃんとロック機能がついている。二二二と入力してインターフォンを押す。呼び出し音が鳴ったけれど、徹は応答しなかった。もう一度押してみる。徹は不在のようだった。ポケットからスマートフォンを取り出して、気づく。
「連絡先なんて交換してなかっただろ」
徹はジャージ姿だった。右手に持った袋にはガムテープやビニールテープ、荷造りと引っ越しに必要なあれこれが詰め込まれていた。幹人はにっと笑みを浮かべた。
「一言くらい言ってくれよ、会社辞めるんだって? 転職するのか」
「転職はしない。収入の当てがついたんだ。ネットビジネスみたいなもんだよ。有給が終わったら一日三時間労働で暮らす予定だよ」
「いつのまに」
「会社やりながらでも、できることはいろいろあるさ。ギャンブルみたいなもんだけど」
「歯車ブログって知ってるか?」
徹は表情を変えなかった。
「よく知ってる。俺が運営してるんだから。それより、大垣、最近ブログ更新してないだろ。あれだけ『毎日書け』って俺が布教してたのに」
幹人は絶句した。
「お前がブログやってるのは知ってたよ。俺のブログにコメント残してくれてただろ? 瞑想の記事、良かったぜ。ヒットした時はやられた、って思ったよ。結構な収益になったんじゃないか」
それで月二千円くらいの収益にはなっていた。徹は幹人よりもずっとよくわかっていた。幹人には突然、徹が別の世界の人間になったように見えた。
「会社辞めてどうするんだよ」
「これから考えるよ、やりたいこともあるしな。少なくとも、一日八時間以上働くことはしないよ」
幹人は逆だった。一日の労働時間が八時間を切ることはもうほとんどない。それなのに、得られる収入はずっと違う。
「うさんくさい仕事だな」
「お前だって胡散臭い仕事に手を染めてただろ。ただ、俺も同感だ。会社に属してする仕事のほうが、虚業っぽくなくて健全だなあって気持ちにはなるよ。大垣の言うことは最もで、俺は大垣みたいなやつを焚きつけて転職サイトなり自己診断サイトなり自己啓発書購入サイトに誘導なりして、そのおこぼれを大量に集めて収益にしてる。巨大な虫寄せ光だ」
「そんなことして何になるんだ」
「お金になるよ。それだけだ。俺はありもしない夢を語って――いや、一万人に一人くらいはうまいくんだが――人からちょっとずつお金を集めてるんだよ。でも、結構楽しいよ。自分の考えてることを文字にして、いろんな人にわかってもらうのって」
結婚指輪をつけてこなくてよかった、と、幹人は思ってしまった。今の徹の前では、幹人は何をしても惨めな気持ちになる気がした。
「俺は小説家になりたかったんだ。そのためには時間がいる。時間を買うためには金が要る。俺はこれからやっと、本当にやりたかったことができるんだ」
徹はドアのロックを解除した。
「今日有給取ってるんだろ? 上がってくか?」
幹人は断った。頑張れよ、と通り一遍の言葉をかける。徹は返事をせずに階段をあがっていた。幹人は、ゆっくり閉まっていく自動ドアに背を向けた。