その7
「そんな緊張するような話じゃないだろ、うなぎでも食って落ち着けよ。食べさせてやろうか」
城ケ崎先輩はウナギをザクザクとお箸で切ると先輩自身のの口の中に放り込んだ。自分の口の中に放り込まれるのは正直ちょっと嫌だなと幹人は思っていた。
「緊張なんかしてないですよ」
「お前は、自分で思ってるよりもずっと感情が表に出やすい。気をつけろ。いつか足元掬われるかもしれんぜ」
城ケ崎先輩はもりもりと社内弁当を平らげる。幹人は、車窓を高速で過ぎゆく茶畑を眺めてぼんやりしていた。出張をネタに何か書けないかなと思ったけれど、うまく考えがまとまらなかった。
「仕事じゃないな」
城ケ崎先輩がぼやいた。
「移動時間も立派な仕事だって先輩言ってたじゃないですか」
「その通りだが俺が言いたいのはそんなことじゃない」
城ケ崎先輩はもぐもぐしていたご飯を飲み込んだ。
「お前が今、真剣に考えてることだよ」
城ケ崎先輩はにやりと笑みを浮かべている。その割に目は真剣だった。城ケ崎先輩はいろいろと雑だが他人が嫌がるようなことは絶対にしない絶妙な距離感を掴んでいる人だ。きっと出世するだろうなと幹人は思っていた。それと、多分こんな風にはなれないし鳴りたくないとも。
「早く帰りたいですね」
城ケ崎先輩は楽しそうに笑った。
「俺たちが真剣に仕事するのは一秒でも早くパソコンの電源を切って退社するためだ。
よくわかってるじゃないか」
取引先の工場で一時間ほど話をし、製造工場を見せてもらった。加工機と組み立て、検査設備の前では、ベテランの社員たちが目の前の仕事に全神経を振り向けていた。少なくとも傍目にはそう見えた。
「この工場も最近は人手不足で、自動機械の導入や効率化はずっと課題ですね。それと、外国人労働者の教育も」
工場担当の方は慣れた様子で幹人と先輩を案内してくれた。お礼を言って工場を後にすると、夕方まではまだ時間があった。
「早く終わったな」
帰りの市電に揺られながら、城ケ崎先輩は大きくあくびをした。
「早く帰りましょうか」
城ケ崎先輩は返事をしなかった。
電車が止まる。外へ出ていく人の流れに乗って城ケ崎さんも歩いていく。
「ここ降りる駅じゃないですよ」
「うるせーな、せっかく旅行に来たんだ。俺は俺でやりたいことがある」
旅行でなく出張だということを忘れてはいけないと幹人は思った。電車のドアがします。
「お前も、やるべきことがあればさっさと済ませてこい」
果歩には、出張がうまく終われば会えると伝えてあった。乗り気ではなさそうには見えたけれど、時間ができたことを伝えるとすぐに連絡が返ってきた。待ち合わせの場所は果歩指定の場所だった。
たわいない会話をして時間を埋める。果歩は、明らかに自分からの言葉を待っている。幹人はそう感じた。待っていなかったとしてもそのつもりだった。
「出張のついでに来たんだ?」
ついで、という言葉に力を込めてくるところに意図を感じる。果歩がどう考えていようと、幹人のやることは決まっている。
「俺には夢っぽい夢がなかったんだ。だから、やりたいと思うなら経済的な援助だってしたいと俺は本気で思ってる。今から、演技の稽古でもオーディション費用だって……」
「そんなことはいいよ。私には別の目標ができたから、もういい。お金も時間も別に充てたいんだ」
「悪かったよ」
「私さ、夢がないのって結構悪くないことだと思い始めたんだよね」
「あったほうが、何かと張り合いが出るものだと俺は思うけど」
「他人のことを、余計な期待をかけずに応援してあげられるのは、大きな野心を捨てた人なんだよ」
「整理はついてた」
「ついてなかった、あの時は。だから腹が立ったんだと思う」
彼女は自分の内側にじっと目を向けるみたいに中空を凝視していた。と、ふっと視線を緩めて幹人を見た。
「もういいっていうのとは違うわけ。ただ環境に合わせて自分が変わっただけ。そのきっかけがたまたま、その日に当たったていうだけで。あ、来た」
店員さんが食事を運んできた。果歩は会話をぱっと受け取ってお箸を手に取った。幹人もそれに倣った。
「食べるか」
彼女はにこやかに頷いた。